第40話 濁る世界、新たな産声
視界が、どろりとした濁茶色に埋め尽くされていく。
先ほどまで王太子殿下と魔法を交わしていた神聖な闘技場は、今や異界の如き不浄な気配に呑み込まれていた。
私が展開した『灰』の防壁に泥が触れるたび、パチパチと不快な消失音が鼓膜を突き刺す。
同時に、私の神経を直接逆撫でするような、ねっとりとした吐き気がせり上がってきた。
(……くっ、重い……!)
これまでの魔法なら、触れた瞬間にその構成をバラバラにして『還元』し、跡形もなく消し去ることができていた。
けれど、この泥の魔法は本質的に何かが違っていた。
火、水、土、風――あらゆる属性が、本来の理を無視して無理やり混ぜ合わされたその「濁り」は、私の灰に絡みつき、消滅を拒むようにして膜を侵食してくる。
それは「無に還る」ことすら拒絶する、執念じみた魔力の澱だった。
「レイナ、無理しないで! 顔色が真っ白だよ!」
背後でリリィが、震える声を絞り出す。
彼女もまた、私の結界の内側から必死に光弾を放ち、少しでも泥を押し戻そうとしていた。
けれど、彼女の清浄な光は泥の嵐に触れる前にその熱を奪われ、虚しく霧散していく。
「……僕が、浄化してみせる……っ!」
カイルが覚悟を決めた表情で前に出る。彼の手から放たれたのは、彼の強い思いで獲得したばかりの『澄青』の魔力だ。
平民である彼が、貴族たちの嘲笑を撥ね除け、泥に塗れるような努力の末にようやく掴み取った、一点の曇りもない水の奔流。
カイルは、その清らかな輝きで泥の勢いを押し返し、仲間たちのために脱出の道を切り開こうとした。
一瞬、清流が濁流を洗い流すかのように見えた。
カイルの放つ澄んだ青が、泥の最前線を鮮やかに貫く。
けれど――直後、泥の塊が意志を持っているかのように不気味に脈動し、その巨大な質量でカイルの水を包み込んだ
「なっ……!? 水が、汚されて……」
カイルの絶望したような声が響く。
本来なら不純物を洗い流し、清めるはずの彼の水が、圧倒的な「混色」の泥に触れた瞬間にズルりと色を失った。
濁り、粘り気、そして腐臭を放つ泥へと変質させられていく。
必死に磨き上げてきた自分の魔力が、無残に腐らされていく感覚。
それは、カイルという一人の魔導師が積み重ねてきた思いを、泥靴で踏みにじるような凄まじい屈辱と苦痛だった。
「う、あぁ……っ!」
魔力を逆流させるようにして、泥の不浄な気配がカイルの回路を侵食する。
カイルはその場に膝をつき、激しい咳き込みと共に崩れ落ちた。
彼の美しい青は、今や見る影もなく澱んでいる。
「カイル! ……あ、あぁ……、そんな……!」
助けに行かなきゃ、すぐに駆け寄って、彼の魔力を浄化しなきゃいけない。
そう思うのに、足が動かない。
私が一歩でもこの場を離れ、意識を逸らせば、頭上を覆う巨大な泥の質量がリリィやエドワード様を瞬時に押し潰してしまう。
守るだけで、精一杯
消すだけで、手一杯
「何を怯えているのよ、無様ね!」
カトレア様が、半分損壊し、ひび割れた杖を握りしめて私の隣に立った。
彼女の深紅の髪は乱れ、額からは一筋の血が流れている。
けれど、その瞳に宿る誇り高い炎だけは、まだ泥に呑まれてはいなかった。
「あんたは殿下を守ることだけに集中しなさい! 周りの雑魚は、この私が、一匹残らず焼き払ってあげるわ!」
彼女が振り絞った業火が泥を焼く。
けれど、焼かれたそばから泥は影となり、不気味な音を立てて再生する。
再生するたびに泥は色を濃くし、再び彼女の足元を狙って蛇のように這い上がってくる。
誰もが、ボロボロになっていく。
私を守るために。鑑定室で怯えていた私を、日の当たる場所へと連れ出してくれたみんなが、私のせいで傷ついていく。
(……私の魔法は、やっぱり、世界を拒絶するだけなの?)
誰かを助けたいと願うほど、
私の灰は「何も届かせない壁」として冷たく、分厚くなる。
けれど、それではこの閉ざされた絶望を何も変えられない。
泥を消しても、泥を生み出す根源を吹き飛ばす力が、私にはない。
その時、死の気配に満ちた闘技場の片隅で、ふっと懐かしい匂いがした。
泥の腐臭に混じって届く、日向の匂いと、少しだけ焦げた温かなお菓子の匂い。
そして、いつも幼い私を優しく包んでくれた、おばあさまの柔らかな温もり
『レイナ、魔法はね、壁じゃ無いんだよ。
誰かを傷つけるだけじゃなくて、誰かの涙を拭うための、優しい風にもなれるんだよ』
(おばあちゃん……。でも、私の灰は……すべてを消して、止めるだけの、色のない魔法で……)
『あんたの力は、何かを壊したり、拒絶したりするものなんかじゃないよ。
あんたが自分の意志で、心から強く願えば、魔法はきっと違う姿を見せてくれるはずだよ』
胸の奥で、カチリと何かが噛み合う音がした。
消したいんじゃない。拒絶したいんじゃない。
ただ、この世界を守りたい。
みんなを傷つける、停滞した泥の檻を。
すべて、吹き飛ばしてしまいたい。
「――っ、あああああ!」
その瞬間、
私の首元で眠っていた「色のないネックレス」が、裂けるような咆哮と共に激しい輝きを放ち始めた。
かつておばあちゃんから貰い、一度も輝くことのなかった透明な石が、内側から爆発するような熱を帯びる。
その輝きは、これまでの無機質で静かな薄灰色ではない。
暗闇を裂いて芽吹く若葉のように、鋭く、それでいて慈愛に満ちた鮮やかな新緑の光。
「な、……なんだ、この魔力は……!? こんな色は見たことが無い……!?」
泥を纏った刺客たちが、驚愕に声を震わせ、後ずさる。
私の足元から、灰色の粉塵が意思を持った生き物のように渦を巻いて舞い上がった。
それはもう、冷たく閉じこもるドーム状の壁を作るのをやめ、荒れ狂う螺旋を描きながら天へと昇っていく。
風が、吹き始めた。
濁った、腐った、停滞したこの場所の理を切り裂く、爽やかで暴力的なまでの突風。
「エドワード様……カトレア様……」
私は、震える足で一歩、前へ踏み出した。
私から溢れ出す『灰』が、淡い緑の粒子を帯びて変質していく。
粒子は風に乗り、目にも止まらぬ速さで旋回する。
それはただ消滅させるだけの霧ではなく、不純物を切り裂き、浄化し、強制的に道を穿つ「風の刃」となって周囲の泥を細切れに霧散させていく。
「……私についてきてください。今、道を、作ります……!」
私を見つめる王太子殿下の瞳に、驚きと、言葉にならないほどの確かな希望が宿る。
まだ、勝負がついたわけじゃない。敵の数も、歪んだ理も、依然として私たちを圧倒している。
けれど、私の内側で眠っていた「守り、切り開く」ための意志。
おばあさまが遺してくれたネックレスの輝きと共に、その力は今、確かに新しい産声を上げた。
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