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第34話 摩耗と胎動

投稿から2週間、1000PV突破しそうです(投稿時点でPV980)!

⸜(*ˊᗜˋ*)⸝

読んでくれた皆さんありがとうございますm(_ _)m

 巨大闘技場の喧騒が、遠い海の鳴動のように聞こえる。

 医務室へと向かう廊下を歩きながら、私は自分の右手をじっと見つめていた。

指先はまだ微かに震えていて、皮膚のすぐ裏側を冷たい砂が流れているような、奇妙な感覚が消えない。

(……勝った、んだよね)

 勝利の宣言、降り注ぐ歓声けれど、胸の内に灯るはずの熱はどこにもなかった。

 代わりにあるのは、胃の奥に鉛を詰め込まれたような重苦しい喪失感だ。


 私はふと、おばあちゃんとのある記憶を手繰り寄せようとした。

 雨の日、アッシュベルクの古い台所で、二人で啜った温かいスープ。

 湯気の向こうで微笑む彼女の、あの皺だらけで優しい顔を。


(……あれ?)

 思い出せない。

 スープが「温かかった」ことや、「具材に何が入っていたか」という事実は、知識として脳内に整然と並んでいる。

けれど、そこに付随していたはずの、胸がじんわりと温まるような感情の揺らぎが、色を失い、無機質な記録へと変貌していた。

 また一つ、大切なものが削り取られた。


 前世の知識を引き出し、世界の理を書き換えた代償。私の『灰』は、私を救うたびに、私という人間を内側から空っぽにしていく。


「……レイナ君。少し、よろしいかな」

 医務室のベッドで横になっていた私を、穏やかな声が呼び止めた。

 学園長、シグルド・アーレント。その後ろには、険しい表情を浮かべたセレナ先生の姿もある。

「気分はどうだい?」

「……はい。少し、疲れただけですから」

 私が弱々しく答えると、シグルド様は静かに私の胸元へと視線を落とした。

 そこには、つい先ほどまで私を救うように輝いていた、『色のないネックレス』がぶら下がっている。

 シグルド様の『天光』の魔力が、波紋のように私の周囲を撫でた。

 彼は魔導の頂に立つ賢者だ、あの瞬間にネックレスが放った光の正体を、分析しようとしているのだろう。


「……不思議だね」

 シグルド様がポツリと、独り言のように零した。


「あの時、確かにこの首飾りが君を守った。エルマが何らかの術式を、レイナ君の危機に際して発動するように仕込んでいた……そう考えるのが、この世界の魔導の定石だ」

 シグルド様は一度言葉を切ると、眼鏡の奥にある鋭い瞳を細めた。


「だが、私の感覚が捉えたのは、別の事実だ。あの一瞬、この首飾りから『エルマの魔力』は微塵も感じられなかった。外部から干渉する術式の残滓も、魔力回路の接続音すらもだ」

「それは……どういうことでしょうか」

 私の問いに、シグルド様は答えない。ただ、深い慈愛と、それ以上の危うさを孕んだ眼差しで私を見つめる。


「暴走した灰色の衝撃も、それを押し留めた眩い光も……その源泉はすべて、君自身の魂の中にあった。

エルマはこのネックレスに力を封じていたのではない。

……君という器から、その本質が溢れ出さないように、『蓋』をしていただけなのかもしれないな」

 シグルド様が去った後、私は一人、暗い医務室でネックレスを手に取った。

 光を失い、くすんだ灰色に戻った石。

 けれど、よく見ればその表面に、髪の毛ほどの細い「ひび」が入っていた。

 おばあちゃんが私に遺してくれた、お守り。

 それが、内側から膨れ上がる私の『力』に耐えかねて、いつ砕け散るのか分からなくなっている。


「……おばあちゃん。私、どうなっちゃうの」

 呟きは、誰にも届かずに夜の静寂に溶けた。


***

「……あら、そんな隅っこで縮こまって。まるで、自分の勝利に怯えている臆病な小鳥ね」

 夜の寄宿舎のテラス。


 冷たい夜風に当たっていた私を、刺すような、けれどどこまでも純粋な『深紅』の魔力が包み込んだ。

 振り返ると、カトレア様が腕を組み、不機嫌そうに月を見上げていた。


「カトレア、様……」

「勘違いしないでちょうだい。あなたが無様に壊れたら、私の銀の腕輪が汚れると思って見に来てあげただけよ」

 彼女は私の左手首に巻かれた腕輪を横目で一瞥すると、鼻を鳴らした。


「誰かに守られた力で勝ったなんて、情けない顔をするんじゃないわ。……あの時、世界を粉々に叩き潰したいと、誰よりも激しく拒絶して見せたのは、紛れもなく『あなた』自身でしょう?

その忌々しいほどに強い意志だけは、認めてあげてもいいわ」

「私の……意志」


「ええ、その呪いのような力があなた自身のものだと言うのなら、せいぜい誇りなさいな。

……その腕輪は、まだ返さなくていいわ。私が望む『強さ』をあなたが手に入れるまで、精々その腕輪と共に私を意識するといいわ」


 カトレア様はそれだけ言うと、一度もこちらを振り向かずに去っていった。

 彼女の纏う『深紅』は、毒のように激しいけれど、今の私には、何よりも確かな現実の熱として感じられた。


***

 学園の地下、光の届かない隔離治療室。

 全身を拘束具のような包帯で巻かれたユーリ・ドレイクは、暗闇の中で天井を見つめていた。

 彼の虚ろな瞳は、いまだにレイナの放った『灰』の残像を追いかけている。


「……ああ、美味しかったな……。あれは、ただの『無し』じゃない……すべてを均等に塗り潰す、完璧な『拒絶』だ……」

 彼が恍惚とした溜息を零した、その時だった。

 部屋の隅、影がどろりと蠢き、実体を持った粘着質な「泥」へと変貌した。


 そこから這い出してきたのは、色彩という概念を汚泥にかき混ぜたような、不快な魔力を纏う男。

「……見たよ、ユーリ。期待以上の働きだ」

 泥色の魔法士は、ベッドに横たわるユーリの胸元に指を這わせた。そこには、レイナに打ち込まれた衝撃の余波――微かな『灰』の粒子が、死にきれずに燻っている。


「見つけたよ、あれはきっと……僕たちがずっと探していた物だ。

この世界を美しく、平坦に塗り潰すための、至高の『器』」

 男の歪な笑い声が、地下室の冷たい空気に波紋を広げる。


「レイナ・アッシュベルク。……君のその色が、完全に枯れ果てる時を……僕たちは楽しみに待っているよ」

 泥色の影がユーリを飲み込むように広がり、闇はより一層、深く濃くなっていった。

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