第2話 色のない旅路
一歩、足を踏み出す度に、私を包んでいた霧が薄くなっていくような気がした。
湿り気を帯びた灰色のヴェールが、名残惜しそうに私の指先をすり抜けていく。
しばらく歩いて、ついにアッシュベルクとの境界線を踏み出した瞬間。
背後を振り返れば、私を優しく包んでいた霧は、まるで最初から存在しなかったかのように、嘘のように遠ざかっていった。
「……っ、あ」
思わず片手で顔を覆う。
霧を通さない剥き出しの太陽光は、私にとっては祝福などではなく、暴虐に近い光だった。
不自然なほどに突き抜けた空の「青」。
毒々しいほどに生い茂った木々の「緑」。
世界が、あまりにも「うるさい」。
私は逃げるように、無意識のうちに自分の輪郭へ『灰』を纏わせた。
色彩の洪水から自分を切り離し、視界を無理やりモノクロームへ引き戻す。そうしなければ、この鮮やかすぎる世界に、私の心まで塗りつぶされてしまいそうだったから。
街道に出てから、カバンに残されていた地図を頼りに学園がある方向に歩いて、何日かぶりに「人」の気配を感じた。
前方からやってくるのは、古びた荷車を引く初老の男だ。
私は反射的に道の端へ寄り、気配を殺した。彩魔法(灰)が私の存在感を希薄にし、ただの石ころや枯れ木と同じ「背景」へと変えていく。
姿はそこにあるのに、意識の網に掛からない。そのまま、荷車が私の横を通り過ぎようとした、その時だった。
「……おや?」
荷車が速度を落とし、私の数歩先で止まった。
男は不思議そうに首を傾げ、ゆっくりと振り返る。さっきまでそこには何もなかったはずだ、とでも言いたげな、ひどく曖昧な顔をして私を見た。
「……お嬢さん、どうしたんだい? そんなところで」
心臓が跳ねた。完全に気配を消せていたわけではない。けれど、今の私は「風景」の一部として脳が処理を止めるはずだった。
男は瞬きを繰り返し、ようやく私の輪郭をはっきりと認識したようだった。まるで、焦点の合わなかったレンズが、今この瞬間にカチリと合ったかのように。
「……何か」
私は警戒を解かず、短く応じた。
男はびくりと肩を揺らし、驚いたように目を見開いた。
「ああ、驚いた。てっきり、道端の杭か何かが立っているのかと思ったよ。お嬢ちゃん、そんなところで何をしてるんだい? この先はもうすぐ関所だが……」
「……ただの、通りすがりです」
「そうか。いや、なんだか妙に影の薄い子だと思ってね……。熱でもあるんじゃないか? 顔色がひどく悪いぞ」
男の言葉に、私はおばあちゃん以外の他人の視線が、刃物のように肌を刺すのを感じた。
心配しているのか、それとも値踏みしているのか。記憶の砂嵐が激しくなり、脳の奥が不快な熱を帯び始める。
「……平気、ですから。お気遣いなく」
私は男の返事を聞く前に、逃げるようにその場を離れた。背後に感じる視線が不気味で、私はさらに深く、自分を『灰』の膜で包み込んだ。
その夜、森の木陰で一人、火を起こそうとしていた。
おばあちゃんに教わった通り、薪を組み、指先に意識を集中させる。
「――灯れ、微かなる熱源」
初歩的な着火の詠唱とともに魔法を放つと、指先に小さな火花が散った。
けれど、その火花は薪に燃え移ることなく、虚しく夜の闇に消えていく。何度繰り返しても、煙が上がるだけで、命を温めるような大きな炎には育ってくれない。
焦りと疲労が重なり、視界がちかちかと点滅する。その時、頭の中で強烈な「ノイズ」が弾けた。
(――火の三要素。可燃物、酸素、熱源。薪を組む時は空気が通るように。乾燥した火種を中央に……)
「くっ、……あがっ!?」
自分のものとは思えない知識が、濁流となって脳内に流れ込む。見たこともない図解、聴いたこともない理論。
私はその「知識」をなぞるように、震える手で薪を組み直した。空気の通り道を確保し、最も燃えやすい細い枝を中央に集める。
そして、先ほどと同じ程度の、ごく小さな魔力を指先に込めた。
「――灯れ、微かなる熱源」
パチリ、と小さな音がした。
次の瞬間、湿った薪は嘘のように、確かなオレンジ色の炎を上げた。
「……できた」
その瞬間、脳の奥を冷たい針で刺されたような痛みが走った。視界に砂嵐が混ざり、意識がぐらりと揺れる。
「っ……あ……」
私は思わず、色のないペンダントを握りしめて地面に蹲った。
何かがおかしい。さっきまで、すぐ隣にいるように思い出せていたおばあちゃんの笑顔が、急に遠くなったような気がした。
思い出そうとすると、記憶の表面に薄い膜が張ったように、細部がぼやけてしまう。
大好きだったスープの香り、しわの寄った手の温もり。それらが、アッシュベルクの霧の向こう側へ押し流されていくような――。
……けれど、完全に消えたわけではない。手を伸ばせば、まだそこに輪郭はある。
私は震える手で、熾したばかりの小さな火を消した。この「知識」は便利だけれど、使い続けてはいけないものだ。魂の警鐘がそう告げている。
夜が明け、泥のような眠りから覚めたとき、私の目の前には冷え切った焚き火の跡が残っていた。
私はおばあちゃんが詰めてくれた水筒と、堅焼きのパンを取り出した。パンを咀嚼するたび、微かな甘みとともに、ぼやけてしまったはずのおばあちゃんの匂いが鼻をくすぐる。
「……まだ、大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟き、私は立ち上がった。
色のない世界。私を守ってくれる霧は、もうどこにもなかった。
私は一人、眩しすぎる朝日のなかを、音もなく歩き出した。




