第1話 アッシュベルクの雨
耳に響くのは、強風が草木を揺らす激しい音と、古びた屋根に叩きつける雨の音。
アッシュベルクの空は、今日もどこまでも低く、白濁とした灰色に沈んでいた。
頭の中で、絶えず砂嵐のようなノイズが走る。
前世の記憶。今世の断片。
そのどちらもが、激しいモヤがかかったように不明瞭で、核心に触れようとするたびに脳の奥を針で刺すような痛みが走る。
「……あ、あ」
掠れた声しか出ない。
私は胸元の、色のないペンダントを強く握りしめた。
指先に伝わる石のひんやりとした感触だけが、混濁する意識の中で、私がここにいる唯一の証拠だった。
「……行きなさい。……、学園へ」
寝台に横たわるおばあちゃんの、枯れ枝のように細い手が私の頬を撫でる。
その手のひらは、記憶にあるどの暖炉の火よりも温かく、そして、今にも消えてしまいそうなほど頼りなかった。
「学園へ行って、あんたの……失われた人生を、色を取り戻すんだよ」
おばあちゃんは、弱々しく咳き込みながら、苦しげに言葉を継いだ。
「……ごめんね。あんたの十二歳の誕生日……。子供とおとなの、ちょうど真ん中の節目を、一緒に祝ってあげたかったのに……。綺麗な色のケーキも、新しい服も……用意してあげたかったのに……」
頬を撫でる指先が、かすかに震える。
私は十一歳。もうすぐ、この世界で「無垢な子供時代」が終わりを告げ、運命の岐路に立つとされる十二歳を迎えようとしていた。それは守られるだけの存在から、自らの足で歩み出すことを求められる、残酷で尊い境界線。
「いいの、そんなの。おばあちゃんさえ、おばあちゃんさえいてくれれば……」
私が誰にも見つからないように。誰にも傷つけられないように。
けれど、おばあちゃんはそんな私の「拒絶」を許さなかった。
「人は……、裏切るものかもしれない。けれど、あんたを愛した人も、確かにいたんだよ」
そんなはずはない。
ノイズまみれの記憶の中で、誰かが泣きながら叫んでいた。
「――消えて。お願いだから、どこか遠くへ消えて」
「はやくこの場所から消えるんだ」
突き放すような手のひら。絶望に染まった瞳。
あの日、私を暗闇の中に押し込めたあの人たちは、確かに私の存在を否定した。
いなくなればいい。存在しなければいい。
その言葉通り、私は自分を消す魔法を覚え、誰の目にも留まらないように生きてきた。
だから、私は誰も信じない。
けれど、握りしめたおばあちゃんの手から伝わる微かな震えだけは、どうしても拒絶することができなかった。
「……わかった。わかったから、もう喋らないで」
おばあちゃんは、満足げに一つだけ深く息を吐くと、そのまま二度と目を覚まさなかった。
それから1週間、私は色のない沈黙の中にいた。
おばあちゃんを裏の林に埋め、土を盛り、石を置いた。雨に打たれながら土を掘り進める間、私の心は石のように冷たく、何も感じなかった。
独りになった家は、ひどく広くて、冷たい。
おばあちゃんの使い古した椅子、飲みかけの薬草茶の香り、窓辺に置かれた編みかけの毛糸――。それらを見るたびに、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
夜、一人で火を焚かない暖炉の前に座っていると、闇が私を飲み込もうとする。
そして、静寂に耐えかねた脳が、再び「それ」を再生し始めた。
――知らない部屋。
見たこともない、けれどどこか懐かしい、四角い箱に囲まれた無機質な空間。
そこで一人の女性が、顔を覆って泣いていた。
彼女が流す涙の色も、着ている服の色も、今の私には分からない。けれど、彼女が抱えている絶望だけは、皮膚を焼く熱のように伝わってきた。
『どうして。どうして、あなただけが……』
ノイズ混じりの声。
私は、私ではない誰かだった。
別の名前を持ち、別の言葉を話し、別の別れを迎えた「私」。
いつ、どこで、どうやって「私」が終わったのか。
肝心な部分は、いくら手を伸ばしても砂のように指の間をこぼれ落ちていく。
何の手違いか、この体へと魂を流し込まれたのか。
今の私は、かつての記憶の成れの果てか、それとも、新しい人生を歩むべき赤子なのか。
砂嵐のような「前世」の記憶が流れ込むたびに、今の自分の境界線が溶けて消えてしまいそうで、私は狂おしいほどの恐怖に襲われる。
「私は……、私は、誰……?」
問いかけに答える人は、もういない。
ただ、机の上に置かれた一通の推薦状が、暗がりのなかで私の目を射る。
それは、私のこれからを心配した、おばあちゃんからの最期の「命令」だった。
推薦状の隣には、おぼつかない手つきでまとめられた旅の支度。
食料、予備の着替え、柔軟性の欠片もない堅いパン、そして少しばかりの金貨。
私のために、彼女がその震える手で最後に用意してくれていたものだ。
私は一人、暗い部屋で膝を抱え、何度も自分に問いかけた。
外の世界は怖い。人は怖い。
自分が自分ではないような感覚も、たまらなく恐ろしい。
でも、彼女の最期の願いを裏切ることは、今の私には死ぬことよりも難しかった。
アッシュベルクを包む薄い霧は、涙さえも隠してくれるほどに優しい。
私は泣き言を雨音の中に埋め、古びた鞄を肩にかけた。
扉を開けると、冷たい風が頬を打つ。
霧の向こう側――。
ありとあらゆる色と人々の洪水が待ち構える、私にとっては忌々しい王立学園へと、私は最初の一歩を踏み出した。




