第20話 老賢者の筆跡、かつての思い出
数話の間レイナ以外の視点が増える予定です
深夜の学園長室は、微かな羊皮紙の匂いと、時折パチリと爆ぜる暖炉の音に支配されていた。
学園長シグルド・アーレントは、窓から差し込む冷ややかな月光を背に受け、デスクに置かれた書類を前に静かに羽根ペンを走らせていた。
書類の表題は『ユニーク魔法保持者・国家登録申請書』。
属性判別の儀において、特級水晶をどろりとした灰色に染め上げ、既存の六属性の枠組みを外れた力を見せた少女――レイナ・アッシュベルクを、国家の至宝として正式に登録するための手続きだ。
「……手続きとしては、これで相違ないはずだ」
シグルドは独り言ち、ペンを置いた。
この国において、ユニーク魔法保持者は国家の強力な支援と保護の下に置かれる。それは彼女を貴族の政争から守るための防波堤であり、教育者としてのシグルドが彼女に用意できる、最も堅固な「盾」であった。
シグルドは傍らに置かれた一通の古びた推薦状に目をやった。かつての戦友であり、誰よりも自由な風を愛した女性、エルマ。彼女が死の直前、自らの身を削るようにして書き上げた最後の一通。インクの掠れに、彼女の最期の鼓動が混じっているような気がして、シグルドの胸に鈍い痛みが走る。
シグルドは公的な書類を脇に避け、一通の親書を書き始めた。宛先は、クロムウェル王国の現国王。
『陛下。アッシュベルクにて、新たなユニーク魔法の芽吹きを確認いたしました。その性質は既存の術理を解体する「灰」。……そしてレイナは、あのエルマが最期に、私の元へと送り出してきた子です』
筆を滑らせながら、シグルドの脳裏に古い記憶が蘇る。若かりし日の自分と、まだ野心に燃えていた若き日の国王。そして、隣で孔雀翠の風を軽やかに操り、誰よりも自由に笑っていたエルマ。
三人はかつて、同じ時代を駆け抜けた仲間だった。
だからこそ、シグルドには分からない。なぜ、隠遁生活を送っていたエルマが、その最期にこの「危うい力」を持つ少女を、あえて喧騒の渦中である学園へ、そして自分たちの元へと送り出したのか。
『彼女が最期に私へ託した言葉は、ただ「この子に失われた人生を取り戻させてやってくれ」というものでした。……陛下、私一人の知恵では足りませぬ。彼女がレイナに託した真意、そしてこの「灰」が導く未来を、共に問うてはいただけないでしょうか』
書き終えたシグルドは、深紅の蝋を垂らし、自らの紋章が刻まれた印章を強く押し当てた。
窓の外を見やれば、遠く離れた寄宿舎の窓に、一つだけ小さな明かりが灯っているのが見えた。あそこに、レイナがいる。
「……手続きは整った。エルマ、君が何を期待してこの子を送り出したのか……その答えを、我々なりに探させてもらうよ」
***
翌日の放課後。
西日に照らされた廊下は、どこか現実味を欠いた黄金色に染まっていた。
レイナはセレナに連れられ、再び学園長室の重厚な木製扉の前に立っていた。昨日、セレナから「一人で来なさい」と告げられた際の、あの冷たく張り詰めた緊張感が、今も指先を痺れさせている。
「入りなさい」
扉の向こうから、シグルドの落ち着いた声が響く。
中に入ると、室内には微かなお茶の香りが漂っていた。シグルドは昨夜の執務を感じさせない凛とした佇まいで、柔和な、けれどどこか厳粛な眼差しを浮かべてレイナを迎え入れた。しかし、その机の上に置かれた『国家登録申請書』の重々しい束と、すでに封をされた王都行きの親書が、これから語られる内容の重大さを無言で訴えていた。
「レイナ君。急な呼び出しで驚かせたね。君の『灰色の魔法』についてだが、本日、正式に国家のユニーク魔法保持者として登録の手続きを行った」
「登録……、ですか?」
レイナの戸惑いに、シグルドは深く、静かに頷いた。
「そうだ。これは君という個人の存在を、国家の法で守るための権利だ。……そしてそれに伴い、陛下への謁見と、王都での正式な認可を受ける必要がある。陛下にはすでに早馬で書状を送ったよ」
陛下、謁見、王都。
その言葉の響きは、レイナの胸の奥底に眠っていた「人間不信」の棘を再び逆立たせた。
ようやくリリィやカイルといった、信じてもいいかもしれないと思える人々に出会えたばかりなのに。この場所でなら、少しずつ自分の色を見つけられるかもしれないと思い始めていたのに。
(……また、奪われるの?)
知らない場所、知らない人々。国家という、自分をただの「至宝」という名の道具として扱うかもしれない巨大な力。
誰の意識にも残らない風景の一部として生きてきた彼女にとって、王都という煌びやかな場所へ引きずり出されることは、檻に入れられることと変わらない恐怖だった。
「早馬が王都へ駆け、陛下からの返書が届くまでの時間を逆算すれば……出発は四日後だ。レイナ君、それまでの間に、旅の準備と――この学園でやり残したことを済ませておきなさい」
四日後。あまりに唐突な旅立ちの告知。
レイナは窓に映る自分の頼りない姿を見つめた。ようやく手にし始めた友人たちとの温かな時間、放課後のカフェの味、図書館の静寂。それらすべてを一度置いていかなければならない。
不意に、アッシュベルクを去る時に感じた、あの「剥き出しにされる不安」が蘇る。
レイナは、震える右手を胸元のペンダントへ伸ばし、それを強く、壊れそうなほどに握りしめた。
それは彼女がおばあちゃんとの約束を果たし、自分自身の本当の色を見つけるための、避けられない旅立ちの始まりであった。




