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第19話 侵食される日常

本日のラストです

 昨夜の「じりり」とした指先の痺れが、朝になっても取れなかった。

 鏡に映る自分の顔は、少しだけ青白い。胸元のペンダントは肌に触れるたび、警告を発するように冷たく感じられた。

(……あれは、魔法を消したんじゃない)

 カトレア様の劫火を撫でたあの瞬間、私は確かに「炎」という現象を、ただの「光と熱の粒子」へと書き換えた。世界を記述するルールを、私の意志で捻じ曲げたのだ。

 図書館で見つけた、今の魔法体系が確立されるよりも遥か昔の古書。そこに記されていたのは、属性という概念に縛られず、世界の事象を「構成要素」として捉える異質な術理の片鱗だった。

 私の――名前すらないこの「灰色の魔法」に、あの古書がひとつの残酷な方向性を与えてしまった。

 おばあちゃんは、この力の本当の姿をどこまで予感していたのだろう。

 私に「色を取り戻せ」と、あの時なぜそう言ったのか。何もかもを分かった上で、過酷な運命を託したのか。それとも、私の力をあくまで『灰色の欠陥』だと信じようとすることで、属性の枠に収まらないこの不気味な可能性から私を遠ざけようとしていたのか。

 優しい風使いとして一生を終えた彼女の背中を思い出しても、その答えはどこにもない。けれど、私が自らの意志で、この得体の知れない力を制御する「理」に触れてしまったことだけは、確かだった。

 重い足取りで教室へ向かうと、入り口でリリィが待っていた。

「レイナ! おはよう、顔色が悪いけど大丈夫?」

「おはよう、リリィ。……うん、ちょっと寝不足なだけだよ」

 努めて明るく答えようとしたその時、教室の奥から刺すような視線を感じて、私の言葉が止まった。

 そこには、いつも取り巻きに囲まれているはずのカトレア様が、たった一人で座っていた。いつもなら一番後ろの特等席にいるはずなのに、なぜか私の隣の席を陣取っている。

 私が席に着くなり、カトレア様は椅子をガタリと鳴らして、至近距離まで顔を寄せてきた。

「……昨日のあれ、どうやったのよ」

「カ、カトレア様……?」

 驚いて身を引く私に、彼女は逃がさないと言わんばかりに机を叩く。

「私の『深紅』を解きほぐした時のあの指の動き、魔力の流転……一晩中考えたけれど、既存のどの術理にも当てはまらない。あれは『分解』なんて甘っちょろいものじゃないわね。もっと……根本的に、私の魔法そのものを奪われたような感覚だったわ」

 カトレア様は血走った瞳で私を射抜く。

「隠しても無駄よ。あなたのその灰色の瞳、昨日はもっと……名付けようのない、深い色をしていた。私が必ず暴いてみせるわ」

 カトレア様の執念。それは敵意というより、もはや未知を渇望する観測者のそれに近かった。

 けれど、本当の恐怖は彼女ではなかった。

 午前中の授業中、私は何度も背後に「違和感」を感じて振り返った。

 窓から差し込む日光の影。廊下を通る生徒の足音。

 ふとした瞬間に、私の過敏な視覚が、校舎の色彩とは明らかに異なる「泥色のノイズ」を捉えるのだ。

 それは特定の誰かではない。まるで、学園というシステムそのものに、澱んだ泥が染み込んでいくような感覚。昨夜のあの視線。「誰か」が、すぐ近くで私を品定めしている。

 隣で楽しそうに笑うリリィにすら、どこか壁越しのように感じられてしまう。彼女をこの不気味な泥に巻き込んでしまうのではないかという恐怖が、私の心を蝕んでいった。

 授業が終わると、教壇で資料をまとめていたセレナ先生が、冷徹な声で私を呼び止めた。

「レイナ・アッシュベルク。実技の評価について、補足があります。放課後、私の執務室へ」

 周囲の生徒には「また呼び出しか」と映っただろう。

 けれど、私に向けられたセレナ先生の瞳は、これまでにないほど険しく、沈んでいた。

「……一人で来なさい。いいわね?」

 その言葉は、先生からの「警告」だった。

 私の周りの日常が、もう安全な場所ではないことを、先生もまた察知しているのだ。


***

 窓の外では、昨夜と同じ噴水の音が響いていた。

 けれど、その音はもう、ただの平穏な風景の一部には聞こえなかった。

放課後の廊下は、部活動に向かう生徒たちの喧騒で満ちていた。

 普段ならその活気に紛れて安心を感じるはずなのに、今の私には、すれ違う全員の影が「泥色」に染まっているように見えて落ち着かない。

 セレナ先生の執務室の前に立ち、重い木製の扉を三回叩いた。

「……失礼します。レイナ・アッシュベルクです」

「入りなさい」

 低く、どこか張り詰めた声。

 扉を開けると、室内は夕闇が入り込み、キャンドルの火が不自然に揺れていた。先生はデスクに座ったまま、窓の外――昨夜私がカトレア様と対峙した噴水広場を見つめていた。

「鍵を閉めて」

 言われるままにノブを回す。カチリ、という金属音が室内に響いた。

 先生はゆっくりとこちらに椅子を向け、組んだ指の上に顎を乗せた。

「昨夜の騒ぎ、見させてもらったわ。……カトレア・ローゼンタールの『深紅』を、あそこまで無残に瓦解させた魔法使いは、この学園の歴史でも貴女が初めてでしょうね」

「私は、ただ……」

「言い訳はいらないわ。貴女が何をしたのか、貴女自身も正確には理解していないのでしょう? でもね、レイナ。貴女が昨夜見せたのは、『無能の灰』なんて可愛げのあるものじゃない」

 先生の瞳が、鋭く私を射抜いた。

「貴女のあの力――魔法の術理そのものを分解し、別の何かに書き換えることわりは、今の魔法体系を信奉する者たちにとっては『毒』よ。世界を支える根幹を、貴女一人の意志で塗り替えられてしまうのだから」

 私は、喉の奥が乾くのを感じた。先生は、私が図書館で見つけた古書の理、そして私の魔法の本質を、既に見抜いている。

「学園長は、貴女を保護すると言った。けれど、この学園はもう安全な箱庭じゃない。昨夜の一件で、『ネズミ』たちが完全に動き出したわ」

「ネズミ……?」

「そう。貴女のような特異な個体を回収し、あるいは解析しようとする勢力が、既に校内に紛れ込んでいる。……貴女、今日一日、不気味な視線を感じていたでしょう?」

 心臓が跳ねた。先生はすべてお見通しなのだ。

「あれは、ただの魔法使いではないわ。魔力の色を隠し、泥のような残滓を残す連中……。レイナ、これからは一人で行動しないこと。そして、次にその力を使う時は、自分の命を天秤にかける覚悟ができている時だけにしなさい」

 セレナ先生は立ち上がり、ゆっくりと私に歩み寄った。

「エルマ様がなぜ貴方を学園長に預けたのか……その真意は私には分からない。けれど、少なくとも今は、貴女は『無色』のままでいなさい。色がつけば、それは標的になるということよ」

 先生の言葉は、冷たい氷水のように私の背中を伝った。

 かつて高名な魔導師であったというおばあちゃん、先生、そしてカトレア様。皆が私の力に、それぞれ異なる影を見ている。

「戻りなさい。夕食の時間よ」

 先生はそう言って背を向けた。私は震える足を叱咤して、一礼して部屋を出た。

 廊下に出ると、すっかり日は落ちていた。

 暗い回廊の角を曲がろうとした瞬間。

 ――じりり、と。

 また、あの指先を焼くような痺れが走った。

 背後の闇に、確かに「泥の色」をした何かが、こちらを見つめて立っていたような気がした。

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