第17話 「極色」が届かない場所
放課後の教職員棟。重厚な石造りの廊下には、夕刻の柔らかな橙色の光が射し込み、窓枠の影を長く伸ばしていた。
私は一人、セレナ先生の執務室の前に立っていた。
学生会室ではなく、この教職員棟に呼び出されたことに、私は少しだけ緊張を覚えていた。
セレナ先生は、この学園の最上級生であり、学生会長を務める身だ。けれど、その卓越した『瞑海』の才能ゆえに、既に卒業後の教官就任が内定している。今はその「研修期間」として、Aクラスの副担任に近い権限を与えられ、この個室も特別に割り当てられているのだと、リリィから聞いたことがあった。
つまり、彼女は生徒でありながら、実質的には私を評価する側の「教師」なのだ。
「……失礼します。レイナ・アッシュベルクです」
控えめに扉を叩くと、中から「入りなさい」という短く、けれど拒絶の色はない声が響いた。
室内は、壁一面を埋め尽くす書架と、いくつもの精密な魔導具に囲まれていた。デスクに座るセレナ先生は、眼鏡を外し、疲れたように目元を指で押さえていたが、私の姿を見るとその鋭い双眸を向けた。
「実技演習での件、そして先日の測定水晶の損壊……。あなたには聞かなければならないことが山ほどあります」
先生は手元の資料に視線を落とした。そこには、私のこれまでの成績や、あの「灰色の判定結果」が記されているのだろう。
「今日の演習での干渉……あれは、既存のどの術式にも当てはまらないものでした。あなたは『理を解く』と言いましたが、具体的にどのような工程を経ているのですか?」
私は一つ、深呼吸をした。
前世の知識――分子構造や結合エネルギー、熱力学といった概念をそのまま話すわけにはいかない。それはこの世界の「魔法学」とは言語が違いすぎる。
「……私は、世界の『色』を見ているだけです」
私は慎重に言葉を選びながら、今朝、図書室で整理した理論を口にした。
「例えばギルバート様の土魔法は、魔力という接着剤で砂を固め、岩の槍に変えています。多くの魔法使いは魔力によって世界に『結果』をぶつけますが……私は、その接着剤がどこを繋いでいるのか、その『結び目』だけを解いているんです」
「結び目、だと……?」
「はい。全体を壊す必要はありません。ほんの数箇所、支えとなっている魔力の流れを逆転させるだけで、現象は維持できなくなり、元のエネルギーへと還元されます。……それは魔法というより、編み物の糸を一本抜くような感覚です」
セレナ先生の瞳に、驚愕の色が走った。
この世界の魔法は、強い意志で「概念を上書きする」ものだ。火を灯すなら「ここは熱い場所である」と世界を屈服させる。
けれど、私のやっていることは「世界の本来の姿へ戻す」という、全く逆のアプローチだった。
「……概念の破壊ではなく、還元。まさか、それをあの一瞬の攻防で行っているというの? そんな精密な演算、人間の脳が耐えられるはずが……」
先生の言葉に、私は胸元のペンダントにそっと触れた。
耐えられているわけではない。その演算コストを支払うために、私の「記憶」という代償が支払われてきたのだから。
けれど、今の私は違う。
「これまでは、力任せに全てを解こうとしていました。でも、古書を読み、自分の力を『効率化』する方法を学んだんです。……以前よりも、ずっと楽になりました」
「独学で……あの短時間で、術理を再構築したというの?」
セレナ先生は立ち上がり、ゆっくりと私に近づいた。彼女の『瞑海』の魔力が、探るように、けれど守るように私の周囲を漂う。学生でありながら、そのプレッシャーは並の教師を遥かに凌駕していた。
「レイナ。あなたの力は、既存の『色彩階級』という物差しでは測りきれません。それはもしかすると、極色の先にある……属性そのものから解き放たれた『真理』に近いのかもしれない」
これまで孤独に「異常」を抱えてきた私にとって、学園で最も厳格な「先輩」であり「教師」である彼女に、その「異質さ」を価値として認められたことは、何よりも心強い救いだった。
「……でも、気をつけなさい」
不意に、先生の声のトーンが落ちた。
「その力は、あまりに美しく、そして危険です。利用しようとする者、あるいは恐怖から排除しようとする者が必ず現れます。……私がこの学園で教壇に立ち続けるうちは守りましょう。けれど、あなた自身も強くならなければならない」
「……はい。ありがとうございます、先生」
私は深々と一礼し、執務室を後にした。
一人残されたセレナは、窓の外を足早に去っていく少女の背中を、複雑な眼差しで見送っていた。
「……お入りください、学園長。いつまで壁の影で気配を殺しているつもりですか」
セレナが振り返らずに告げると、本棚の横にある隠し扉が滑らかに開き、シルバーグレイの髪を整えた老紳士――シグルド・アーレントが姿を現した。
「おや、気づかれていたかな。君の『瞑海』による知覚範囲は、日に日に広がっているようだね、セレナ。実習期間中とはいえ、既に一人前の教官のようだ」
「お世辞は結構です。……それよりも、あの子、レイナ・アッシュベルクの言葉を聞いていましたね」
セレナはデスクに置かれた、亀裂の入った特級水晶を指し示した。
学園長はゆっくりとその傍らへ歩み寄り、傷ついた水晶にそっと手を触れる。
「『理を解く』、か。……我々が数百年かけて積み上げてきた魔法学の体系を、あの子はわずか数分で相対化してしまった。魔法を『現象の上書き』ではなく、『構成要素への還元』と定義する。それは魔法の根源……神の領域に手をかける行為に等しい」
「彼女は、古書を読み解き、自らの力を『効率化』したと言いました。もしそれが本当なら、彼女の脳にかかっていたという『代償』すら、彼女は克服しつつあることになります」
「……シグルド様。学園内に漂う『不穏な気配』についてですが」
セレナの問いに、学園長は深く溜息をつき、窓の外の闇を見つめた。
「ああ。ネズミが紛れ込んでいるようだ。それも、ただの野良ネズミではない。……あの『アッシュベルクの遺産』、あるいはレイナという特異な検体を狙う、組織的な動きを感じる。回収フェーズ、という言葉を耳にしたという報告もある」
「……やはりか。彼らにとって、魔法は研鑽すべき芸術ではなく、摘み取るべき『果実』に過ぎない。今はまだ、学園という檻の中に留めておく。だが、セレナ。彼女自身が強くならなければ、この嵐を凌ぐことはできないだろう」
***
一方、夕闇が降りた学園の噴水前では、新たな火花が散ろうとしていた。
「――待ちくたびれたわ、レイナ・アッシュベルク」
寮へと急ぐ私の前に立ちふさがったのは、燃えるような赤髪をなびかせたカトレアだった。
彼女の『真紅』の魔力が、夜の空気をじりじりと焼き焦がしている。
「逃がさないわよ、レイナ。あなたのあの『魔法ではない何か』……私のプライドにかけて、その正体を暴かせてもらうわ。私の『深色』が届かない領域なんて、あってはならないのよ」
カトレアが放つ圧倒的な威圧感。
けれど今の私は、不思議と怯えてはいなかった。
私は静かに、灰色の瞳でその熱量を見つめ、右手をゆっくりと差し出した。
「……正解が一つではないこと、お見せしますよ。カトレア様」




