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第11話 灰色の朝、差し込む光は淡く

昼間に更新しようとしていたのに予約投稿し忘れてました。

今日は2話と+1話で更新します

 学生会室からレイナが去った後、部屋には重苦しい沈黙と、亀裂の入った水晶だけが取り残されていた。

 夕闇が深まり、窓の外の赤は急速にどろりとした紫へと溶けていく。

「……お入りください、学園長」

 セレナが誰もいない背後の空間に向かって、静かに、けれど緊張の混じった声で告げた。

 壁の一部が滑らかにスライドし、シルバーグレイの髪を整えた老紳士――シグルド・アーレントが姿を現す。その瞳は、いつもの穏やかな慈愛ではなく、魔導の深淵を覗き込む探求者の鋭さを帯びていた。

「期待以上の結果……。いいえ、懸念以上の事態になったようですね、セレナ」

 シグルドの視線は、台座の上で痛々しくひび割れた特級水晶に注がれていた。王立学園の歴史において、測定中に水晶が物理的に損壊するなど、数えるほどしかない。

「申し訳ございません。私の『瞑海』による干渉が、あの子の防衛本能を過剰に刺激してしまったようです。ですが、学園長……。彼女の力は、これまでの記録にある『無属性』や『欠落』といった類のものではありません。あの子は、術理そのものをその場で書き換えてみせました」

 セレナは、自分の指先に残る微かな痺れを抑えるように、手袋の上から拳を握りしめた。

「私の探査が深層に触れようとした瞬間、彼女の魔力は壁を作ったのではありません。情報を、私には決して読み解けない形へ……あえて言葉にするなら『暗号化』して隠蔽したのです。この世界の魔法体系には、そのような概念は存在しないはずなのに」

「暗号化、か。面白い表現だ」

 シグルドはひび割れた水晶の表面を、愛おしむように指先でなぞった。

「エルマが私に彼女を託した理由が、ようやく分かってきた気がするよ。彼女は『持たざる者』ではなく、『持ちすぎてしまった者』なのだ。既存の色彩階級という物差しでは測りきれない、異界の理を。……しかし、その代償はあまりにも重そうだ」

「……ええ。水晶が割れる直前、わずかに見えたのです。彼女の魔力の底に沈んでいた、あの凍りつくような『藍』と『泥色』。あれは過去の残滓、あるいは彼女自身の拒絶そのものでしょうか。学園長、彼女はこのままでは――」

「これ以上の詮索は、彼女を壊すことになりかねない。セレナ、彼女の測定結果は『特異体質による判定不能』として処理したまえ。彼女には、まだこの学園という庭で、自分を繋ぎ止めるための『絆』を作る時間が必要だ」

 シグルドの声には、確かな懸念が混じっていた。

 秘匿すればするほど、彼女は世界から切り離されていく。それは救いではなく、緩やかな消滅に近いことを、彼は知っていた。

 ***

 その頃、レイナは逃げるように宿舎の自室へ戻り、鍵を閉めて床にへたり込んでいた。

 月明かりさえ入らない暗い部屋で、荒い呼吸だけが響く。

「……思い出せない」

 震える声で呟き、頭を抱えた。

 おばあちゃんと一緒にパンを焼いた。それは覚えている。

 けれど、その時のパンの香りは? 手に触れた温もりは? 私を呼ぶあの優しい声のトーンは?

 それらが、まるですりガラスの向こう側へ消えてしまったかのように、輪郭を失っている。必死に手を伸ばそうとすればするほど、脳の奥で「砂嵐」が吹き荒れ、記憶の断片を粉々に粉砕していく。

「嫌……。やめて……奪わないで……っ」

 トラウマという泥沼を隠すために、私は自ら「暗号化」という盾を構えた。彩魔法はその願いを忠実に実行し、リソースとして、私が最も愛したはずの記憶を喰らったのだ。

 自分の右手をじっと見つめる。あの日、おばあちゃんの手を握っていたはずの感触が、もう思い出せない。

 今の私は、新調した高級な制服に包まれた、中身のない空っぽの殻だ。

 カイルの『薄青』。リリィの『淡金』。セレナの『瞑海』。

 他人の色が眩しければ眩しいほど、私の「灰」は鋭く反応し、防御のためにまた何かを削り取っていく。

「これ以上……関わらないで……」

 私は膝を抱え、暗闇の中で激しく震えた。

 ***

 翌朝、重い瞼を押し上げると、窓からは昨日と変わらない残酷なほどの陽光が差し込んでいた。

 鏡に映る自分の顔は、幽霊のように青白い。無理やり制服に袖を通し、昨日の出来事を脳の奥底に押し込めて、私は宿舎を出た。

 学園への道すがら、すれ違う生徒たちの視線が、昨日までとは明らかに違っていた。

 遠巻きに私を見つめ、ひそひそと耳打ちし、私が近づくと波が引くように道が開く。

「……例の、特例生よ」

「測定不能なだけじゃなくて、水晶を壊したって……」

 心ない囁きが、鋭い針となって突き刺さる。

 私は無意識に『灰』の膜を濃くした。自分を消したい。この場から霧のように消え去ってしまいたい。

 Aクラスの教室の扉の前に立ったとき、私の足は微かに震えていた。

 意を決して扉を開ける。

 ――一瞬の静寂。

 けれど、その静寂を打ち破ったのは、聞き慣れた明るい声だった。

「あ! レイナ、おはよう! 遅かったじゃない、心配したんだから!」

 リリィだ。彼女は周囲の戸惑うような空気など一切気にする様子もなく、タタタッと駆け寄ってくると、私の手を迷いなく握りしめた。

 彼女の『淡金』の魔力が、春の陽だまりのように私の『灰』を包み込む。

「顔色が悪いわよ? 昨日の再測定、そんなに大変だったの? セレナ先生ったら、相変わらず厳しいんだから」

 彼女の屈託のない言葉に、教室を支配していた「腫れ物に触るような空気」が、わずかに弛緩した。

 続いて、席に座っていたカイルも、困ったような、けれどいつも通り穏やかな笑みを浮かべてこちらを見る。

「おはよう、レイナ。……リリィ、あんまり急に引っ張ると彼女が驚くだろ」

 カイルの『薄青』は、清流のように静かにそこにあった。

 昨日、学生会室の前で避けてしまった私を責めるような色は、どこにもない。

 二人の「いつも通り」の態度に、私の喉の奥に詰まっていた塊が、ほんの少しだけ溶けたような気がした。

「……おはよう。二人とも」

 私が小さく挨拶を返すと、教室の端で鼻を鳴らす音が聞こえた。

 カトレアだ。彼女は肘をついたまま、こちらを射抜くような鋭い視線で見据えている。

「ふん。水晶を壊しておきながら、平然と登校してくる図太さだけは認めてあげるわ。……でも、勘違いしないで。私が興味があるのは、あなたのその『定義不能な力』を、どうやって私の『真紅』で屈服させるか、それだけよ」

 嫌味な言葉。けれど、そこには「気味悪がって避ける」という陰湿さはなく、純粋なライバルとしての敵意と敬意が混ざっていた。

 ギルバートは相変わらず苦虫を噛み潰したような顔で椅子を引いたままだが、カトレアの言葉に、周囲の生徒たちも「怖いけれど、あいつはAクラスの一員なのだ」という事実を再認識したようだった。

「……さあ、授業が始まるわよ! レイナ、今日は魔法実技の応用編なんですって。楽しみね!」

 リリィに手を引かれ、自分の席へと向かう。

 おばあちゃんの記憶を一部失い、心はまだ空っぽのままだ。

 けれど、この鮮やかすぎるクラスメイトたちの「色」が、私の灰色に強制的に輪郭を与えてくる。

(……温もりを忘れても、痛みは残っている)

 机に手をつく。指先はまだ微かに震えているけれど、リリィが握ってくれた手の熱だけが、たしかな「今」としてそこにあった。

 私はそっと前を向き、教壇に現れるであろうセレナを待った。

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