第10話 秘匿の色、奪われた記憶
本日のラストです
学生会室の空気は、廊下とは明らかに異なっていた。
窓から差し込む夕陽は、セレナの背後で赤黒く燃え、彼女の影を長く、鋭く床に伸ばしている。
「準備はいいかしら」
セレナが低く問いかける。彼女が指し示したのは、台座に据えられた巨大な測定水晶だ。
通常の測定器よりも数倍大きく、底知れない透明度を誇るそれは、観測者の魔力を一滴も逃さず暴き出そうとする「法の番人」のように見えた。
私は新しいAクラスの制服の袖を、無意識に指先でなぞった。
上質な布地が肌に馴染む感覚が、かえって自分を偽っているような居心地の悪さを助長する。
(……この服を着たからといって、私が『こちら側』の人間になれるわけじゃない)
私は一歩、水晶の前へ進み出た。
心臓の鼓動が耳の奥でうるさく響く。昨夜、泥のように眠ってなお残る倦怠感が、思考を鈍らせていた。
「手を触れなさい。あなたの『色』……その本質を、私が見極める」
セレナの瞳――『瞑海』の光が、私の挙動を一つも見逃さないという意志で射抜いてくる。
私は逃げ場を失ったまま、震える右手をゆっくりと持ち上げた。
ひんやりとした水晶の表面に、手のひらが触れた。
その瞬間、私の内の「灰」が水晶へと流れ込み、同時にセレナの探査魔力が、鋭い針のように私の深層へと侵入してきた。
「――っ!?」
拒絶反応は、自分でも驚くほど激しかった。
セレナの魔力が私の記憶の蓋に触れようとした瞬間、ノイズ混じりの色彩が脳裏で爆発した。
それは、凍りつくような『藍』と、刺すような『泥色』。
幼い私の手を振り払う、歪んだ大人たちの顔。
「消えて。お願いだから、どこか遠くへ消えて」という、呪いのような拒絶の言葉。
(嫌……見ないで……触れないで……!)
このドロドロとした醜い記憶を、誰にも見られたくない。暴かれたくない。
その強烈な「拒絶」の意志に呼応するように、脳の奥底から異質な術理が浮上した。
『――情報の暗号化。非透過領域の展開。深層意識へのアクセスを遮断』
それは、この世界の魔法体系には存在しない、前世の高度な論理。
私の「彩魔法」は、主人の悲痛な願いを汲み取るように、その術理を瞬時に現実へと書き換えた。
「なっ……魔力を、弾いているの!? いいえ、これは……『解読不能』に書き換えている……?」
セレナが驚愕に目を見開く。
水晶の中の灰色の霧は、幾何学的で緻密な壁へと変貌し、彼女の探査を完璧にシャットアウトした。
だが、代償はあまりにも残酷だった。
高度な術理を展開するためのリソースを確保しようと、私の彩魔法が牙を剥く。
(あ……ああ……)
脳裏で、おばあちゃんと一緒にパンを焼いた時の、あのベリージャムの甘酸っぱい匂いが、急速に色褪せていく。
「美味しいね」と笑い合った時の温もりが、灰色の砂となって指の間から零れ落ちていく。
守りたかったのは、おばあちゃんとの温かな日々だったはずなのに。
醜いトラウマを隠すための代償として、私は一番大切な思い出を差し出すことになってしまった。
「――ッ、あああああああ!」
凄まじい衝撃とともに、私は弾かれるように水晶から手を離した。
ドサリ、と床に膝をつく。
視界が激しく揺れ、喉の奥からせり上がる嘔吐感を必死に堪える。
机の上の水晶には、細かな、けれど深い亀裂がピシリと走っていた。
「……レイナ……あなた」
セレナの声は、もはや監督生としての威厳を失い、震えていた。
彼女は、一瞬だけ水晶に映り込んだ「あの色」を見たのだろうか。
「今の……あの色は……。それに、あなたの魔力は単なる無属性ではない。存在そのものを秘匿し、定義を拒む――」
「……測定は、終わりですよね」
私は冒されるように立ち上がり、彼女の言葉を遮った。
失った。また、大切なものを。
パンの匂いも、その時の温もりも、今の「拒絶」の代償として灰色の虚無に消えてしまった。
「結果は、好きに報告してください。……失礼します」
私はセレナの答えを待たず、ふらつく足取りで学生会室を後にした。
重厚な扉が背後で閉まる音が、まるでおばあちゃんとの思い出の棺が閉じられた音のように聞こえた。
廊下に出ると、夕闇の中に二つの人影が立っていた。
「アッシュベルクさん!」
「……レイナ」
カイルとリリィだ。
カイルの『薄青』の魔力は、今の私の荒んだ心にはあまりにも透き通っていて、痛い。
「大丈夫……? 顔色が真っ白よ」
リリィが心配そうに手を伸ばしてくるが、私はそれを反射的に避けてしまった。
他人の温もりに触れれば、また大切な記憶が削り取られてしまうのではないかという、根源的な恐怖。
「……なんでもないわ。少し、疲れただけ」
私は二人を追い越すように歩き出した。
新調したばかりのAクラスの制服。
金糸の刺繍が、夕闇の中で冷たく、誇らしげに光っていた。
それはおばあちゃんとの絆を削り取って手に入れた、孤独な「偽物の色」だった。
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