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第9話 波紋と呼び出し

 学校を出てから、宿舎までの帰り道、その間の記憶が曖昧だ。

 ふと意識が戻ったとき、私は宿舎の自室で、冷めかけたスープを機械的に口に運んでいた。手足は鉛のように重く、視界の端には消えない砂嵐がちらついている。

 (……やりすぎたんだ。あの場で、世界の理を『解いて』しまったから)

 前世の知識を引き出し、この世界の「結合」という概念を無理やり灰色の魔力で拒絶した代償。

 脳のリソースが限界を超え、私の彩魔法(いろまほう)は主人の脳を守るために、最も身近な「今世の記憶」を切り離し始めたのだ。

 おばあちゃんの、少しだけしわがれた笑い声。

 一緒に食べた、ベリージャムの甘酸っぱい香り。

 それらが、霧の向こう側にまた一歩、遠ざかっていく。

 (忘れたくないのに。忘れてはいけないのに……)

 私は逃げるようにベッドへ倒れ込み、泥のような眠りに落ちた。

 夢さえも灰色に塗りつぶされた、深い、深い、安息の底へ。

 翌朝。

 窓から差し込む朝日は、昨日よりも残酷なほど鮮やかに世界を照らしていた。

 「……おはよう、アッシュベルクさん!」

 教室の席に着くなり、隣から眩しいほどの『淡金』が飛び込んできた。リリィだ。

 彼女は昨日の演習の惨状などどこ吹く風といった様子で、好奇心を隠そうともせずに身を乗り出してくる。

 「昨日のあれ、すごかったわね! どうやったの? 詠唱もなかったし、魔力の流れも全然見えなかったわ。ねえ、今度こっそり教えてよ!」

 「……偶然よ。それに、教えられるようなものじゃないわ」

 私は短く答え、机に視線を落とした。

 教室のあちこちから、ひそひそという囁き声が聞こえてくる。昨日までは「推薦状一枚で入ってきた成り上がり」という侮りだった色が、今は「正体不明の不気味な怪物」を見るような、澱んだ色に変わっている。

 特にギルバートの『黄土色』は酷かった。

 私と視線が合うたびに、彼は顔を歪めて顔を逸らす。没落の焦燥と、平民に負けたという屈辱。その魔力は濁り、見ていて吐き気がするほど不快なノイズを放っていた。

 そんな色彩の毒気にあてられそうになっていた時。

 ふと、廊下を通りかかったカイルと目が合った。

 彼は一瞬、びくりと身体を跳ねさせたが、逃げ出すことはなかった。

 周囲の貴族たちの目を盗むようにして、彼は胸元で小さく手を振った。

 その魔力――『薄青』の光は、濁った色彩の氾濫の中で、そこだけが清涼な水溜りのように透き通って見えた。

 (……あの子だけは、私を『怪物』とは見ていない)

 認識の外に追い出していたはずの彼が、今は明確な個体として私の世界に存在している。

 彼という『点』ができただけで、灰色の世界に少しだけ奥行きが生まれたような、奇妙な感覚。

 けれど、その変化を喜ぶ余裕は、すぐにかき消されることになった。

 一日の授業が終わり、帰り支度を整えていた時だ。

 「レイナ・アッシュベルク」

 背後から、凍てつくような、けれど深い海の底を思わせる魔力が近づいてきた。

 振り返るまでもない。このAクラスの監督生にして、極色『瞑海』の持ち主。

 セレナ先生だ。

 「放課後、学生会室へ来なさい。昨日の演習についての詳細な聞き取り、および……あなたの『色』についての再測定を行う必要があると判断しました」

 彼女の瞳は、規律を司る者特有の冷徹さを湛えていた。

 リリィの楽しげな『淡金』も、カイルの控えめな『薄青』も、彼女の『瞑海』に一瞬で飲み込まれて消える。

 「……わかりました」

 私は短く答え、胸元のペンダントを握りしめた。

 昨日の代償で、また一つ、おばあちゃんとの些細な思い出が消えかかっている。

 それを繋ぎ止める術も持たないまま、私はいつまで耐えることができるのだろう。

 学生会室は、本校舎の最上階に位置していた。

 重厚な黒檀の扉の前に立つと、扉の隙間から漏れ出す濃密な魔力の気配が、肌をチクチクと刺した。

 (再測定……。また、あの水晶を灰色に染めろというの?)

 一度目の測定でさえ、私は学園長の保護がなければ危うい立場に置かれていたのだ。もし二度目の測定で、さらに異質な結果が出れば――。

 私は一度だけ深く息を吐き、自分の周囲に『灰』の膜を固く張り直した。

 色彩の渦に飲み込まれないように。自分という輪郭を、これ以上奪われないように。

 冷たい取っ手に手をかけ、私は静かにその扉を押し開けた。

 そこには、陽光を遮った薄暗い部屋の奥で、静かに『瞑海』の光を湛えたセレナが待っていた。

 彼女は机の傍らに置かれた一つの長方形の箱に視線を落とした後、私を真っ向から見据えた。

 「入りなさい。……その前に、渡しておくものがあるわ」

 促されるまま部屋の中へ足を踏み入れると、セレナは無造作にその箱の蓋を開けた。

 中に入っていたのは、深く、重厚な紺色を基調とした、王立学園Aクラスの制服だった。

 金糸で縁取られた刺繍は、選ばれし者だけが許される誇り高い紋章を描いている。

 「アッシュベルクから着てきたその服は、あまりに目立ちすぎる。……いえ、あなたの『灰』がその古びた布地と同化しようとして、逆説的に周囲の注意を引いているわ」

 「……目立ちたくないから、着ていたんですけど」

 「逆効果ね。この学園で最も目立たない方法は、群れの中に紛れること――つまり、この制服を身に纏うことよ」

 セレナの手から差し出された制服は、指先が触れるだけで質の良さが伝わってきた。

 アッシュベルクの霧に濡れた、おばあちゃんが何度も繕ってくれた今の服。

 それを脱ぎ捨て、この鮮やかな『意味』を持つ服に着替えることは、私にとって決定的な「色の世界」への隷属を意味しているようで、わずかに指が震えた。

 「……ありがとうございます」

 「着替えなさい。準備ができたら、測定を始めるわ」

 セレナは背を向け、窓の外の景色に視線を移した。

 私は衝立の影で、冷たい指先でボタンを外していく。

 新しい制服の布地は、肌に触れると不思議なほどに熱を帯び、まるで私の体温を吸い取って自分の一部にしようとしているかのようだった。

 鏡のない学生会室。

 私は自分の姿を確認することさえできず、ただ新しい服の重みを感じながら、部屋の中央に置かれた巨大な測定水晶の前へと歩み寄った。

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