7-2 スカーレット
「……以前、おまえは、どうして絶交したのかと聞いたな。……その理由を話す」
冬志さんの目は真剣だった。
窓から差し込んでくる夜の光は、青いカーテンの色に染められて、部屋の中はまるで深い深い水底のようだ。世界に俺たち二人だけみたいな、不思議な気持ちになる。
同じ屋根の下で眠っている母さんのことや父さんのことも、俺の頭の中から消えていた。
冬志さんが顔を動かすと、真っ黒な瞳が時おり光を反射してきらりとする、それがとてもきれいで、目をそらせなかった。
「……薫」
冬志さんは真面目な顔をした。
「憶えてないか、薫。初めて会ったときのことを」
「あ、はい。小学校の昇降口で……傘を取り返していただきました」
思い出してつい顔がほころんだ。
でも、冬志さんは首を横に振った。
「本当は、あのとき俺はもうおまえを知っていた。俺がおまえを知ったのはもっと前だった」
「え……?」
「……お前も知っているだろう、うちは両親の代で成り上がった、言わば成金だ。この街に越してきて、修陵院の幼稚舎に入れられたものの、いじめられることも多かった」
「……そうだったんですね……」
ゲームの設定でもそんなことが書かれてた。
そのために、冬志さんは修陵院の華族たちに反感を持つようになり、何が何でも見かえしてやろうという野心家になるんだ。
そのころの冬志さんを想像したら、胸が痛んだ。
俺ときたら、何にも知らないでいた……。
冬志さんはおだやかに言葉を続けた。
「初等部二年にあがった春だった。校門に蜘蛛の巣がかかっていた。そこにモンシロチョウが引っかかってたんだ。もう蜘蛛はいない壊れた巣で、外して逃がしてやってもよかった。でも俺には、そのとき、その蝶が弱々しい自分に見えて、不快だったんだ。俺は蝶を無視して通り過ぎた。他の子も蝶なんかに気付きもしていなかった――でも気になって様子を見ていたら、おまえが来たんだ」
冬志さんは懐かしむように顔をゆるめた。
「おまえは蝶をながめ、立ち止まって、あたりまえのように巣から蝶を外した。怪我させないように優しい手つきだった。そしてその手を開くと、モンシロチョウは自由に飛び立ったんだ。……お前は優しい顔でそれを見送っていた。それだけだった。……だが俺はおまえと、その手からふわりと飛び立った蝶のことがずっと忘れられなかった。……憶えてるか?」
俺が首を横に振ると、冬志さんはほほえんだ。
まるで春が来て、氷が溶けるみたいに。
冬志さんの端正な顔から冷たい氷から剥がれ落ちると、その下からあらわれたのは優しい微笑だった。昔の冬志さんの笑顔だ。
「……それくらい、お前は特別なことをしたつもりはなかったんだろう。だが俺はそのときから、お前が気になってしかたなかったんだ。お前への気持ちが、俺の中にやわらかいものを作ってくれた。それは少しずつ膨らんでいった……」
顔が熱い。
心臓がどきどきして息が苦しい。
五十メートル走を全力疾走したみたいだ。
こんな気持ちは知らない。
瑞樹兄さんに告白されたときも、四方田くんと二人きりになっても、宮くんに迫られても、桐谷さんから見つめられても、占戸先生から抱きしめられても、こんなふうになったことはなかったのに。
「最後にふたりで会ったとき、俺たちは野いちごを探しに行っただろう?」
「はい……」
「……あのとき、俺が差し出した野いちごを食べて笑うお前が、どうしようもなくかわいく思えた……」
冬志さんは目を上げた。真っ直ぐな目だった。
「……自分でも気付いていた。子どもではなくなっていくにつれて、お前への感情も変わっていったんだ」
「変わって……?」
「……笑顔を見ているだけで楽しいはずだった。なのに、それだけじゃいられなくなったんだ。薫が俺に笑ってくれると、胸が甘くうずくように幸福だった。お前が他の誰かに笑いかけると胸が騒いで、俺だけに笑ってほしかった。独り占めしたかった。……触れたかった」
冬志さんの手が差し伸べられた。俺の頬に触れるように伸ばされて、けれど、冬志さんが小さく眉をひそめるとその手はゆっくりと下ろされた。
「……あの瞬間、俺ははっきり自覚したんだ。その理由を」
「……理由……」
つぶやいた自分の声が、小さく不安に震えそうで、なさけなかった。
これから何を言われるか、わかってる気がした。
でもそんなことがあるだろうか。
冬志さんは俺の手をとった。
そっと、恭しくさえある仕草で。
そうして告げた。
「春花薫。……俺は、おまえを、愛している。あのときも、今も、ずっと」
言葉が出てこない。
でも闇の中で、冬志さんの表情はただ落ち着いていた。
俺に話すと決めていたんだと、わかった。
「……だが、お前にそのつもりがないことは知っていた。
知っていたのに、俺はあのとき、……衝動的に、お前のひたいにくちづけをしたんだ。
薫は泣き出して、……家に帰ってから寝付いたと聞いた。……間違いなくこのままじゃ俺はおまえを傷つけると思った。きっと我慢できなくなって、おまえになにかひどいことをしてしまうとおもったんだ。だから俺は、おまえにもう会わないと決めて、親に頼んで寄宿舎に入った。お前似合わないためだった。やがてお前も俺を避けるようになった」
「だ、だって」
思い出したばかりの映像が頭によみがえって、思わず顔が赤くなった。
泣いた? 俺は泣いたんだろうか? 多分そのころには熱が出始めていたから、自分でもあまり憶えてなかった。……でも、嫌で泣いたわけじゃない、気がする。……ただびっくりしたんじゃないんだろうか。
混乱しながら俺は首を振った。
「避けたかったわけじゃなくて……俺は、冬志さんから嫌われたと思ったんです」
「……俺はどうしても、おまえを苦しめるらしい」
冬志さんは自嘲するように笑った。
「そ、そんなことは……!」
「かばわなくていい。事実だ。感情を顔にも言葉にも出したくなかったんだ。……冷たいことしか言えなかった。
……今年になって、父が春花家に縁談を申し込むと言い出したとき、俺は本当に嫌だった。断られるのが目に見えていたからだ。
だが違った。おまえは受けると言いだした。……正直、少しは期待した。俺がお前を想っていたように、薫もそうしてくれていたのかと。……だが会って話してみて、それが幻想だということはすぐに分った。あんなに怖がられていれば、嫌でもわかる」
「……ごめんなさい……」
「だが思ったんだ。これほど怯えているのに、俺と婚約しなければならないくらい切羽詰まっているのなら、ほんの少しでもおまえの役に立ってやりたい、と」
「……じゃあ……冬志さんが言ってた……守ってあげたい人って……」
「おまえだ。薫」
冬志さんの声がぽつんと俺の鼓膜に落ちて、ふるえた。
俺はどんな表情をしたんだろう。冬志さんは俺を見つめて苦笑し、首を横に振った。
「そんなに良い話じゃない。俺は卑怯だ。おまえを守りたい気持ちもあったが……心のどこかには、形式だけの婚約でも、お前が他の男と婚約するのを妨害できるならいいという気持ちがあった。いつかは愛されるんじゃないかと期待さえしていたんだ」
冬志さんの顔に影が落ちる。
「……おまえにその気がないのは承知してる。でも俺の気持ちは変らない。……と言うより、変われなかった。おまえに冷たくされるようになっても。何とか思い切ろうと冷たく当たっても、熾火みたいに消えなかった……」
頭が熱い。
なんでだろう。涙がにじんでくる。
冬志さんにこんなに悲しい顔をさせたくない。
冬志さんが自分を責める必要なんてない。俺こそ、そんなこと何も知らずに、自分の身を守ることしか考えてなかったんだ。
「俺――俺は……」
自分の気持ちを言葉にするのには慣れてない。でも冬志さんだって頑張ってくれたんだから、俺だってちゃんと言わなきゃいけない。
俺の指は緊張で震えてたけど、精一杯冬志さんの手を握り返した。冬志さんが瞬きして、ふと表情を改めた。俺はどもりながら一生懸命言った。
「……さっきやっとわかったことがあるんです……」
「……わかったこと?」
「俺……この数ヶ月で色々な人に会って……色々なことがあって……そんな中で俺が、触れられてどきどきした人は、……冬志さんだけなんです」
泣きたくなかったのに、とうとう涙がぽとんと落ちてしまった。
「俺は、今まで、恋愛をするのは男の人と女の人だけだと思い込んでいて……でも、この気持ちは、冬志さんがただ幼なじみだからってだけじゃないと思うんです……。俺、冬志さんの手が俺にさわったら、そこから溶けてしまいそうな気がします……」
次の瞬間、俺は痛いくらい冬志さんに抱きしめられていた。
「薫……!」
あんなことを言っといてなんだけど、俺はまだそこまで考えが至ってなかったみたいだった。
あわあわしてしまう。
え、ええと、こういうときは……ど、どうすれば……!?
抱きしめ返す……? いや、でもなんというかそれはまだ早い……かも……?
そのときだ。
俺を抱きしめている冬志さんの身体が、ゆらりと揺れた。
「……え?」
「……なんだ……?」
冬志さんも動揺している。あわあわしている間に――まるでテレビを消すみたいに、ぷつんと冬志さんは消えた。




