6-12 フェイクファー
その瞬間、俺は意識を夢の中からもぎ離した。
違う。
これは、違う。
俺の大切な記憶のなかの、その人は――……!
絡みついてくる糸を断ち切るように、俺は目を開け、大きく喘いだ。
月光の落ちるベッドの上。俺の上に影のように覆い被さる、その人を見上げる。
「……あなたじゃない」
俺はもがいた。
でも、腕をいましめるその人の力のほうが強かった。その人――占戸先生の顔には悠揚とした笑みが浮かんでいる。白皙の美貌は壮絶なまでの迫力があった。
「……やっとわかった。君を護っていたものが」
勝ち誇ったように告げる占戸先生。
俺はその顔を呆然と見上げた。
ちがう。
この人じゃない。
占戸先生じゃない。
あのとき、俺とみずみずしい野イチゴを摘んだ人。
厳格そうに見えるけど、本当はとても優しい。
あれは。
冬志さんだ。
記憶が奔流のように頭に流れ込んでくる。
俺の幼なじみは、占戸先生なんかじゃない。
冬志さんだ。
初めて会った日、傘を取り返してくれたのも。
初めて図書館に行った日、俺を支えてくれたのも。
何もかも冬志さんだった。
野いちごを一緒に摘んだのも冬志さんだ。
それだけじゃない。
あの日、俺は帰るなり熱が出て寝込んでしまった。
きっと、野いちごをさがしている途中から熱が出ていたんだろう。あの日の記憶は途中から曖昧で、おぼえてなかった。
でも今、占戸先生の夢で、埋もれていた記憶が蘇った。
あのとき、冬志さんは俺のひたいに優しくキスをした。
そして、俺の手をそっと握りしめた。俺はきょとんと見上げていた。
冬志さんのくちびるが、小鳥の羽根のようにそっと、俺のくちびるをかすめた。冬志さんは頬を赤らめて、でも真っ直ぐ俺を見た。
「好きだよ、薫」
静かな、真面目な声だった。
俺はきょとんとしていた。その行為の意味は、そのときの俺にはわからなかった。ううん、知識はあったんだけど、結びつかなかったんだ。
ただ、好きだって言われたことだけが嬉しかった。
今考えると、俺はもうそのときには熱が出てたんだと思う。子どもの頃は、しばらく日光を浴びてるだけで熱が上がっていたから。
俺は、冬志さんに「俺も大好きです」って言いたかった。
だけど俺は高ぶる感情を抑えられなくてぽろぽろと泣き出し、そのまま意識は遠のいた。――次に気がついたらベッドの中。かかりつけの先生に診てもらっているところだった。そして、冬志さんがおんぶして連れ帰ってくれたと教えてもらったんだ。
胸が震えるみたいだった。
冬志さんは、あの野原で、俺を好きだって言ったんだ……。
なのに泣き出して意識をなくした俺を、冬志さんはどう思ったんだろう。
俺を嫌うようになったことに関係あるんじゃないだろうか。
――いや。
そのことも大事なんだけど。
じっくり考えたいんだけど。
でも、今はそれどころじゃない。
もう一つのことを俺は思い出していた。まるで魔法が解けるみたいに頭がすっきりして、記憶が戻ってくる。
状況を整理しなきゃ。
俺は占戸先生に押し倒されている。
先生はすっきりとした黒いシャツを着ている。
髪もととのえられ、メガネは消えて、男らしい大ぶりな目鼻立ちが見て取れる。こうやって見ると華やかな美貌。外国人の血が入っているのかもしれない。身につけている黒ずくめの衣装のせいで、先生は影のように見えた。
目だけが金色に輝いている。
そう、ダンディ。
今の先生に対してならそう言える。そして俺は思い出した。
先生の、〈スチル絵〉を。
バラに囲まれたベッドで、頭上から注ぐ月光を浴びて、たくましい腕に押し倒されるヒロインの絵。その頬にかかる髪を優しくかきのけるのは、占戸先生だ。
占戸先生は、〈花婿候補〉だ。
そのうえ人間じゃない。
修陵院学園に勤める、平凡な保健教諭。少しおさまりの悪い髪と、眼鏡越し、垂れ気味の右目の目尻には泣きぼくろがあって、それが崩れた色気をかもしだしている、と、女子生徒や、それ以上にお母様方に絶大な人気を誇っている……云々かんぬん。
そんなのは仮の姿だ。
先生の正体は、吸血鬼の血を引くハーフ・バンパイア。
ハーフと言うからには半分で、人間との混血の種族らしい。
だから、バンパイアと違って生きている。日光に当たっても平気だし、人間の普通の食べ物で生きていける。寿命には限りがあるけど、人間と違って千年弱くらいは生きられるらしい。人間から見るとほとんど不死だ。
今は外見的には三十代だけど、実際は四百年くらい昔の生まれだったはずだ。外国から渡ってきたのは数年前。
先生は、精気を吸おうとしてヒロインの夢に入り、ヒロインと逢引きを重ねていく。
人より長く生きる先生は、人との関わりを暇つぶしとしか思ってなかった。夢のなかでちょっと遊んで、精気をもらうだけ。そのつもりだった。
でも、ヒロインの心に触れて変わっていく。そして、「人の心を操っちゃいけない」と叱られて、ヒロインの凜とした信念に心を打たれ、本当に愛し合うようになるんだ。
すごい勢いで記憶が蘇ってくる。
ここは夢の中。先生の術の中だ。
俺は今、大ピンチなんだ――……!
(なんっで! どうして! 今までスチル絵が見えなかったんだろ!?)
頭の中で叫んじゃったけど、実はその理由も思い出していた。
占戸先生の力は、幻惑。
ゲームのシナリオでは、ヒロインの夢を通して幼少期の記憶に入り込み、自分が古い昔からの知り合いだったように思い込ませた。そして警戒を解いた。
ヒロインには幼なじみがいない。
でも俺には冬志さんがいたから、冬志さんのポジションに入り込むことになってしまったんだろう。
もしかすると、ずっと忘れていた冬志さんの言葉を思い出せたのは、占戸先生の魔術で記憶が刺激されたせいかもしれない。だったらそれは感謝しなきゃいけない……感謝する気にはちょっとなれないけど……。
本当はいろんな場面で少しずつ記憶は戻っていた。
でも先生の術にかけられて、頭がぼんやりしていて考えられなかったんだ。
例えば、夢のなかで「蓮哉さん」は俺よりほんの少ししか年上じゃなかった。
当然だ、冬志さんと入れ替わってたんだから。
だけど考えてみれば、占戸先生は見た目年齢だけでも十五歳は年上だ。そんなに年が近いはずがないんだ。初等部で出会うなんてこと、そもそも起きるわけがなかった。
(あ……あ……危なかった……!)
身体がガタガタ震え始めた。
いや、「あぶなかった」じゃない。
現時点で危ない。
俺はバラのベッドで、占戸先生に押し倒されている真っ最中だった。
「せ、せ、せ、先生……?」
「……ああ。術が解けたか」
先生のくちびるが、妖しくほほえむ。その手のひらが俺の頬を撫でた。
「ややややめてください!」
「俺を弾き飛ばせるなんて、滅多にないことなんだが。……しかしおかげで、護りの正体がわかった」
「ま、ま、護り?」
「そう。今まで何度も、きみを俺のものにしようとするそのたびに、君の夢から弾き飛ばされてきた。さっきの君の記憶でわかったよ。君を護り続けてきた騎士殿の正体は、厳原冬志だ」
「冬志さん……?」
「そうだ。……相手を純粋に想い、心から捧げられた口づけは、いつまでもその人を護る。……あの夢の中で、厳原冬志がきみに与えたくちづけだ。それが、魔族である俺をしりぞけ、君を護っんだた」
冬志さんが、ずっと俺を守っていた?
こうやって離れていても……夢のなかでも……?
(……冬志さん……!)
胸が一杯になった。
ずっと考えてた。
冬志さんを好きかもしれない。そう気付いてからも、俺は少し迷ってた。
俺は友達がいないから、冬志さんが特別な人だと感じるだけかもしれない、って。
だけどそうじゃない。
だって、占戸先生に触れられるのはいやだ。
幼なじみだって思い込んでたときでも、それでも。
冬志さんに触れられるのはあんなに幸せだったのに……。
占戸先生の指が俺の頬とあごに触れた。顔が近づいてくる。
「薫……」
とっさに俺はキッと先生をにらみ返した。
今まで感じたことがないような――本当に生まれて初めてかもしれない――怒りがこみ上げてきて、俺は手を上げ、ぱん、と音を立てて先生の頬を打った。
占戸先生がハッと身を引く。
「……薫」
「こんなのひどすぎる。俺は、先生のおもちゃじゃありません……!」
先生の身体を突き飛ばして、できるだけ素早くベッドから飛び降りた。見回したけど戸口はない。窓も、高い天窓だけだ。夢の中の部屋だから、どうにでもなるんだろう。
サッと目を走らせると、壁にサーベルが飾られているのが見えた。
体育の授業で習ってて、よかった。
あれなら、下手だけど使い方は知ってる。
俺はサーベルに駆け寄って、手に取り、先生に向かって構えた。
武器を突きつけるなんて、夢の中とは言えやりたくない。でも、いつのまにかシナリオがここまで進んでいた以上、最大限に拒絶しないと。
でないと、過去の経験上、シナリオに負けてしまうのは目に見えてる。
占戸先生のシナリオがアダルトな要素を含んでいる以上、それだけは避けなくちゃ……!
俺は声を励ました。
「夢を終わらせてください! 俺を現実に帰してください! そして、こんなこと、もうやめてください!」
「落ち着いて。サーベルなんて使えるのかい?」
「授業でフェンシングがあります……! 何を考えてるんですか! 人の気持ちを魔術で操ったりして……!」
「……なぜわかった?」
「え?」
「人の気持ちを操る魔術のことも、ここが夢の中だということも、俺はまだ何も説明していないが」
……しまった。
先生は唇の端に苦笑を浮かべて、俺に近づいてくる。
早まったかもしれない、魔術ってすぐ言っちゃうのは怪しかった。
にじり下がりつつ、どう返事しようかと一瞬迷ったけど、先生は返事については特に気にしてないようだった。ゆっくりと近づいてくると、少し手前で立ち止まり、微笑む。
「……俺は人間じゃない。ハーフバンパイアだ。ハーフバンパイアを知ってるか?」
「あの……ええと……本で読みました……」
「そう、だったら話が早い。俺たちはバンパイアとは違う。人の精気を吸って生きる。
……きみの言うとおりだ。俺はきみを獲物やおもちゃとしか思っていなかった……最初はね」
「さ、最初……」
「そう。きみの精気は希に見る清純さだ。人から汚されることが少なかったんだろう。たまにはそれも面白いと思ったんだ。
……だが、俺のような夜の生物には、きみはまぶしすぎたのかもしれない。
情けないことに、この俺ともあろうものが、怖じ気づいてしまったんだ。
……俺が魔族で、きみを操ろうとしてることがわかれば、きっときみは俺を恐れ、嫌うだろうと……。だが確かに、君の言うとおりだ。俺は卑怯だった」
占戸先生は、愁いに満ちた瞳で俺を見た。
「……許してくれ。君を思うあまりだった。……俺を受入れてくれないか」
「……いいえ……!」
俺はせいいっぱい声を励ました。
「やって良いことと悪いことがあります……!」
「……ひざまづいても……?」
「わああ、だめです、そんなことしないでください! されても許しませんから!」
慌てて俺は首を振った。
いくらひどい目に遭わされたからって、ひざまづかれるなんて困る。何て言うか……かわいそうだし……。
「俺にちゃんと謝って、近づかないでくれたら良いだけなんです! それにそんなことしても無駄なんですよ、俺は婿取りしなくて良いことになったんです! 夫捜しはもうしません! だから、こんなことは無駄なんです……!」
俺は先生の気を変えようと、必死で言いつのった。
でもそんな俺の前で、先生は考え込むようにくちびるを撫で、不意にフッと微笑した。
「……なんの話だ? 俺には関係ない」
「え」
「きみは、自分へ向けられる愛情を、春花家で行なわれる婿取りと同一視しているようだが……俺はそんなことで動いたわけじゃない」




