6-9 メモリーズ・カスタム
――いつのまにか、雨は霧に変っていた。
さっきから、俺は真珠色の舟の舳先に座っている。
軽いローブをかぶっている俺の前には、カンテラがともされて、流れていく細かい水の粒子を黄色く照らし出していた。靄がやわらかく俺の頬を撫でていく。
人の気配に振り向くと、うしろに真っ黒な影が立っていた。
一瞬、ざわりと背筋が冷えた。
でもすぐに気がついた。
――ちがう。
影に見えたのは、黒いローブを羽織った人だ。
ローブの奥に蓮哉先生の顔があった。
なんだか雰囲気が違う。
遠くを見つめている表情は威厳さえ感じられて、近寄りがたい雰囲気だった。
いつもの、マイペースでちょっとおっちょこちょいな先生じゃないみたいだ。
舟は清んだ水の上を、水紋を拡げながらまっすぐ進んでいる。
底は金色の砂で、光を放っている。そのせいで、灰色に垂れ込めた空よりも水面が輝いて、雨のなかでも曇り日のように周囲を照らしている。
舳先が押しのけた睡蓮の花が揺らめく。
霧の向こうに時折人影が浮かんだ。近づくと、人だと思っていたのは水鳥の影だった。しょんぼりと立つ鳥たちの影のあいだを、俺たちは進んでゆく。
誰が舟を漕いでいるんだろう。
まるで曳かれてるみたいだ。
これは夢だ。
この先へは行くな。
頭のどこかでそう思う。
でも思考がまとまらない。本当に俺が考えているんだろうか?
うとうとしているときみたいだ。頭も身体も痺れてる。
やがて霧の向こうに、四角い巨大な影があらわれた。
風がゆるやかに吹くと、霧が紗のカーテンのように揺らめいて、影の正体がのぞいた。
石造りの四角い城館だ。
蔦におおわれている。舟は音もなく城館に近づいていき、やがて桟橋についた。
初めて蓮哉先生が動いた。
「おいで」
音もなく桟橋に降り立ち、俺に手を差し伸べる。
その手には、黒光りする革の手袋がはめられている。
俺の身体は従順に立ち上がった。
そっとつかまったとき、なにかが記憶のなかでひらめいた。花婿候補、という言葉。すごく重要な言葉の気がしたけど、雑多な印象が散らばっただけで、つかむことはできなかった。
(花婿候補って……なんだっけ……?)
靴底が桟橋を踏む。俺は導かれるままに岸へ渡る。やがて靴の底は石畳に触れて、コツリと固い音を立てた。コツリ、コツリ、俺と蓮哉先生は城壁へ向かい、朽ちかけた潜り戸を通り抜けた。
そこは城の中庭だった。
壁に区切られたみたいに、雨はやんだ。
灰色の底光りする空のした、荒れ果てて、ぼうぼうと草の茂る広大な庭の向こうに、崩れかけた城館があった。
石壁に穴があいて四角い石材が転がっている。つる草に覆われて、あたりじゅう霧の湿ったにおいが漂っていた。蓮哉先生は、慣れた調子でアーチ型の戸口をくぐった。
色あせたタペストリーを張り巡らした寒々としたホールを通り抜ける。
天窓から光が差し込んで、いつのまにか月がのぼっていたことに気が付いた。
壁には西洋画が何枚もかかっている。
どれも肖像画みたいだ。一人だけこちらを見ているおじさんもいれば、長椅子の周囲に思い思いの姿勢で集った家族の画もある。
「見てごらん。一族の肖像だ」
くちびるが耳元で動いて、俺はびくりとした。
呼吸が舌のように耳朶をくすぐったからだ。
蓮哉先生が身をかがめるようにして、俺の肩をつかんでいる。
「……あそこに、きみも加わるんだ」
低い声は確信に満ちている。
肩にかけられていた腕が、腕に沿って滑り落ち、俺の腰にやわらかくからみつく。引き寄せられ、抱きしめられる。あたたかい胸に後ろから包まれて、俺の中に不思議な安らぎが広がった。
強い誰かに慈しまれ、守られる心地よさ――でも同時に、また頭の底で火花が散った。
(しっかりしろ、俺! 思い出せ!)
俺のなかに、うろたえてる俺がいる。
でも逆らえず、いつの間にか俺の身体はふんわりとやわらかいベッドに倒れ込んでいた。
蓮哉先生がローブのフードを外した。
あらわれたのは、白皙、と言っていいような、美しい顔だった。蓮哉先生なのに、別の人みたいだ。眼鏡を外し、髪が整えられて無精髭も綺麗に当たられると、こんなに二枚目だったんだ。でも線が細くはなく、大ぶりな目鼻立ちは男らしい。ぽってりと厚みのある唇は、色気があると言ってもよさそうだった。
いうならば、ダンディというか……。
「薫」
先生がささやく。
覆い被さってくる。
くちびるに甘い息が触れ、俺はまるで当たり前のようにまぶたを閉じていた。
けれど、
(目を覚ませ、俺――……!!)
叫び声が頭の中で響き、不意に、ひたいに熱を感じた――……
まぶたを引き剥がすように目を開けた。
「……?」
跳ね起きる。
横に蓮哉先生がポケットに手を突っ込んで立ち、笑いながら俺を見下ろしている。
「れ、れ、れ、蓮哉先せ……」
俺は無意識に、身を守るように布団をかきこんだ。
い、いつもの蓮哉先生だ……。
無精髭にボサボサ頭、分厚い眼鏡で、とぼけた笑顔。
――俺は保健室のベッドの上にいた。
「……あれ……?」
「おまえさん、食事後に倒れ込んじまったんだぞ。慌てて担ぎ込んだんだが、寝てるだけだって言われてな。昨夜、ちゃんと寝たのか?」
「す、す、すみません……!」
こんなこと初めてだ。
昨夜はそれなりに寝たつもりだったんだけど……。
慌てて姿勢を正して頭を下げながら、先生の顔を見られなかった。
(……なんて夢を……)
恥ずかしくて顔が赤くなった。
何気なく視線を動かして、俺はぎょっとした。
四時……!?
「えっ、俺そんなに寝てたんですか!?」
午後まるまる寝倒してしまった。
しかも、この時間だったら……。
冬志さん、帰っちゃったのでは?
(どうしよう、教室で待ってるって約束してたのに)
あわあわと窓の外に目をやっていると、
「……厳原冬志のことを考えてるのか?」
ぎょっとして顔を上げた。蓮哉先生の優しい目が俺を見ている。
「あ……ええと……」
なぜかどぎまぎしてしまった。
後ろめたい何かを指摘されたような、そんな気がした。
先生はくすりと笑いをこぼし、ベッドに腰を下ろした。
「春花は、厳原を好きなのか? つまり、恋愛として」
「ええっ? な、なんですか、いきなり」
「婚約者だろう?」
「そ、それは……」
まだ俺と冬志さんの婚約破棄は公表されてない。
ということは、一応建前として、好きだと言わなければいけないはずだ。
そう思ったとき、先生の目が俺をじっと見つめた。
――なぜだろう。
くらっと、思考が揺れた。
気がつくと、俺は、思いもかけないことをつぶやいていた。
「でも……俺も男で、冬志さんも男ですから……」
「男同士だから?」
「……好きとか、そういうことを……考えるのは、変かなって」
……あれ?
俺、どうしてこんなこと言ってるんだろう……?
俺は確かに、いつか、こういうことを考えた気がする。冬志さんについて。
でも、いつ?
なんだか変だ。俺の記憶は混乱してはいないだろうか?
先生は面白そうに「へえ」と口元だけでにんまりと笑みを作った。
くちびるは笑ってるのに、その目は冷たい。
こわい、と、どこかで思った。
「……先生?」
「なあ、春花。……いや、薫。薫は、男同士は恋愛しないって思ってるのか?」
「え?」
先生は冗談のように続けた。
「男同士でも恋愛は成立するよ。……薫と、俺でも」




