6-8 猫になりたい
「薫……」
俺を見つめる冬志さんの端正な顔立ちは、不意打ちを食らったみたいにこわばっていた。
でもすぐに、周りの人たちにうなずいて離れ、俺の方に足早に近寄ってくる。
俺たちは何となく、皆さんに背を向けるようにして、ぼそぼそと声を潜めた。
「……ここでなにを?」
「え、えーと……昼食を……」
弁当袋を持ち上げてみせると、冬志さんがまた眉をひそめた。
「……どこで食べているんだ?」
「あの……生物準備室です。占戸先生が気を遣ってくださって、声をかけてくださったので……」
「サンルームへは」
首を横に振る。
冬志さんの視線は、ちらっと準備室のほうに動いた。
「……だからか」
「え?」
「あいつらから、薫と二人で食事しているのかと質問された。どういうことかと思っていたが」
「ああ……」
あいつらって、瑞樹兄さんたちか。
「……それにしても、準備室か」
つぶやいて、冬志さんは口をつぐんだ。
目線は俺じゃなくて、弁当の上に落ちている。
もう他の上級生の姿は廊下から消えて、しんと静まりかえった廊下には俺たちだけだ。校庭のほうでサッカーを始めた男子学生たちの歓声が聞こえてきても、いっそう無音が引き立つみたいだった。
どぎまぎする。
なにかな……?
冬志さんは無口な人だ。表情もあまりはっきりと出さない。いつも氷のように整った鋭い雰囲気を保っている。
だからすごく怖かったんだけど。
でも、この三ヶ月のおかげで、俺はなんとなく冬志さんの表情の読み方がわかってきた。
そっと冬志さんの眉に注目する。
冬志さんの眉間のしわは、顔のなかで、いちばん雄弁だ。
この表情は……「疑問」かな?
さりげなく補足してみた。
「あの、占戸先生が心配して下さったんです。生物準備室からサンルームが見えて、俺が安心して昼食を食べられてないんじゃないかって……。それで誘ってくださって……」
「……毎日ふたりで食事を? それは……」
「はい」
「……特別扱いだな」
「あ、ええと、そういうわけじゃないと思うんですけど、でも占戸先生とは幼なじみなので……配慮してくださったんだと思います」
「……なに?」
眉間にしわが増えた。疑問と当惑だ。
なんだろう?
考えたけど、今回は冬志さんの当惑の意味がわからなかった。
だ、だめなのかな、学校的にはえこひいきになるんだろうか。
「あの……問題があるようなら……やめたほうがいいんでしょうか……?」
おずおず尋ねたけど、冬志さんの鋭い視線はまじまじと俺を見つめていた。
よく「穴があくほど」って言うけど、本当に穴があきそうで、おびえてしまう。
冬志さんは確認するように、
「……俺は聞いたことが……」
「な、なにをですか?」
「占戸……」
言いかけて、ふと冬志さんは口をつぐんだ。
「春花~!」
のんきな声に遮られたんだ。
生物室から占戸先生のぼさぼさ頭がひょこっと出ている。
注目を引くように腕を振って、
「話し中悪いな。食事前に、片付け手伝ってくれるか」
「あ、はい!」
うなずく。
冬志さんはちらっと先生を見やった。
先生も見返す。
ぴしぴしぴしっと音が立ちそうな緊張が走った――ような気がした。
(な、なんだ……?)
凍り付いた俺の前で、占戸先生がニコッとする。
「厳原、質問か?」
「……いえ」
「そうか。何かあったら遠慮なく聞きに来いよ。春花、手伝いよろしく」
先生は教室に入っていく。
空気がほぐれて、冬志さんはためいきをついた。
「……ともかく、時間を取ってきちんと話したい。できるか」
「あっ、俺もお話ししたいことがありました……!」
「……なんだ?」
冬志さんの好きな人のことだ。
俺が役に立てることがあるか、知りたいんだ。
「……今日は一緒に帰れるか」
「はい」
うなずくと、「教室で待っていろ」と言い残して、冬志さんは離れていった。
すっきりした背中がしゃんと伸びて、廊下を遠ざかっていく。
なんという事もなくその背中を見送ってから生物室に入った。
「失礼します……」
占戸先生は、黒板を消しているところだった。
肩越し振り返って、
「悪いな。ちょっとは手伝ってもらわないと、幼なじみだからって特別扱いしてるのがバレると、職員会議で文句言われちまうんだ。じゃ、そこに詰んである参考資料集、準備室に運び込んで棚に置いといてくれ。右側の棚が一段分空いてるから。それがすんだら座っといていいぞ」
「はい」
占戸先生が目線で示したのは、教卓に詰みあがった本だった。
三、四十冊くらいはあって、生物の参考書なのか、赤い金魚が泳いでいるカラー写真が表紙だった。
俺は弁当を教卓に置くと、本を腕に抱え上げ、あごで押さえて準備室へ二往復して運搬した。
準備室はいつも静かで涼しい。
七月のぎらぎらする日差しは、カーテンが閉められていて、部屋の奥までは差し込んでこない。
古い木の窓枠や棚があたたまって、良い匂いがしていた。
どこかなつかしいような匂い。
俺はお弁当をテーブルに置いて、窓辺に寄った。
遠目に見下ろすサンルームには、もう冬志さんや瑞樹兄さんたちの姿は見えない。
(どこでごはん食べてるのかな……みんな……)
教室かな。
冬志さんはどうなんだろう。
一人か、それともさっき一緒にいたお友達のみなさんとかな?
あの不機嫌な顔で食べてるんだろうか。
それとも、お友達には笑ったりするのかな。
なんでだろう。
もやのような淋しさが胸に食い込む。
……冬志さんのことを考えると、なんだかいつも淋しくなる。どうしてだろう。
ぼんやり考え込んだとき、
「よーし、メシだメシだ」
大きな声にハッとした。手をタオルで拭きながら、占戸先生が近づいてきていた。
「もう、いきなりびっくりさせないでください」
「はは、悪い悪い」
そう言えば。
先生って、不器用そうだけど動くときにあまり物音をさせないかもしれない。
猫みたいなところがある。
やがて部屋の中にコーヒーの匂いが漂いだした。
「ほい」
差し出されたコーヒーを、ありがとうございます、と頭を下げて受け取る。
目線を動かすと、テーブルの上には、えんじ色の本が載っている。
あのフランス語の本だ。題はなんて言ったっけ、あの……真珠の……なんとか……?
(読めない……)
「先生、お読みになってたんですか?」
「久しぶりにな」
先生がコーヒーをすすりながらあっさり言ったので、やっぱりフランス語を読めるんだ、と思った。
そうだよね、でないと、わざわざ仕事場に持ってこないよね。
「あの、拝見してもいいですか?」
俺は箸を置き、ふたをかぶせてお弁当を横にずらした。
汚すといけないから、そっとえんじ色の表紙に手をかけ、引き寄せる。
めくると、銅版画のような細かい線画の挿絵が出て来た。
ベールをかぶった女性が木陰で眠っているそばに、黒いマントの男が身を潜めている。
両手がおおいかぶさるように女性へ差しかけられていて、なんだか不吉な絵だった。
「これは……?」
「ああ、魔術を使う場面だ。恋しい女の夢の中に入り込んで、夢の内容を書き換えるんだ」
先生は、逆側から腕を伸ばし、ひとりひとりを指さして説明した。
「この男は魔術師だ。この女に恋をしている。でも女には親が決めた婚約者がいた。そこで男は、魔術を使って女の心を自分に向けさせ、ついには結ばれる、っていう、まあ一種のおとぎ話だな」
「……え……魔術で相手の心を手に入れるって、ちょっと、相手の人に悪くないですか……?」
我ながらちょっと間が抜けた、ぼんやりした反応をしてから、先生が瞬きして俺を見つめたのに気が付いた。
「えっと……あの……でも、お、お、お、お話ですもんね。すみません」
「……ピンと来ないなら、無理しなくて良いぞ」
先生は目をぱちんと瞬いてから吹きだした。
「なんせ陳腐で、甘ったるい話だよ。文章もごてごてしていて古くさいせいで、当時もあまり売れなかったくらいだ」
「そうなんですか……」
「ああ。だが俺は、魔術を使うのが悪いとは思わないな。恋愛自体、錯覚みたいなもんさ。だったらきっかけは何でもいい。……愛は手に入れた者勝ちだよ。辛抱強く待ち、機会が来たら確実に行動する。……生きるのは孤独だからな。連れ添える相手と出会えたなら、逃がすべきじゃない」
先生の声は、不意に強くなり、熱を帯びた。
「……先生?」
先生はくちびるの片端を引き上げるみたいにして微笑んだ。
「呼び方」
「え?」
「蓮哉さん、じゃないのか?」
そうだった。
どうして子どもの頃みたいに気軽に「蓮哉さん」って呼べないんだろう。
呼ぼうとすると、不思議に口が重たくなる。「占戸先生」が一番しっくりくるような……どうしてかな……?
(……そう言えば、昨夜、なにか……変なことに気がついたような気がする……)
なんだっけ……?
考えようとしたけど、思い出せない。
最近、ちゃんと考えようとすると、頭がぼうっとする。
まるでなにかに邪魔されるみたいに。
(……暑さのせいかなあ)
こめかみをもんで考え込んでいると、占戸先生は笑って、
「……まあいい。……メシすませないと、時間がなくなるぞ」
「……あ、ご、ごめんなさい!」
「メシを食えないなら、本は片付けておこう」
先生は、えんじの本をひょいとたたんで立ち上がった。
「恋や愛の話は、まだ薫には早いかな」
「……そうかもしれません……」
最近つくづく、俺は子どもだって思い知ってしまうことが多い。
いつも俺は自分のことで手一杯で、他の人にまっすぐ向き合ったことがない。
もっと、ちゃんとつきあっていかなきゃいけないな。
箸を手に取り直しながらため息をついた。
ふと思いついて、水を向けてみる。
「……先生はどうなんですか?」
「俺か。いるよ、興味のある子が」
「え、恋人……のヒト、がいらっしゃるんですか?」
恋人のヒトって……びっくりして変な日本語を話してしまった。
でも先生は気にとめずに、
「恋人じゃない。今のところは、片想い、かな」
「え……」
俺、余計なこと聞いてしまったのでは……!?
先生は考え深げに頬杖をついて、
「なにしろ、相手の『護り』が強力でなあ」
「……マモリ……?」
ガードが堅い、とかいうことだろうか。
先生はなんだか楽しそうに俺を見ている。
「それもまあ、いい。何事もハードルは高い方が燃えるだろ? ……面白い子でね。最初は特に気にとめてなかったんだ。でも見ているうちに、不思議に興味を引かれて、手に入れてみたくなった。多分その子は自覚がないんだろうが、なんだろうなあ、ある特定のツボを刺激するタイプなんだろうな。保護欲を刺激されるか、嗜虐心をそそられるか……」
シギャクシンって、なんだろう。
よくわからずにうなずいて耳を傾けながら、また変な感じがした。
(……眠い……ものすごく)
津波のような眠気が突然襲ってきた。
俺はあまり昼寝とかできないのに、いったいどうしたんだろう。
ああ。だめだ。
しっかりしろ、春花薫。まだ午後の授業があるだろ。
頭がふわふわしてきた。
(……だめだ……)
それきり、俺の意識は、生物準備室からゆっくりと夢の世界へ落ちていった。




