6-3 インディゴ地平線
昼休み。
生物準備室の扉を開けると、薄暗くて、思わず足が止まった。
(あれ? 先生、いないのかな……?)
視線を走らせると、暗がりの中に人影が見える。
「せ……」
声をかけようとして異常に気がついた。
先生にしては小さい。中学生くらいの子どもの背格好に見える。それに、どうしてだろう、ぴくりとも動かない……
背筋がぞくっとした。
――と、部屋の奥からのんびりした声が響いて、俺は小さく飛び上がってしまった。
「おー、来たか春花~」
「あ、は、はい!?」
見ると、なんだかゴタゴタした感じの向こうに、白衣の占戸先生がいた。
窓際の机の前だ。回転椅子ごと振り返って手を挙げている。
顔を隠すぐらい大きな眼鏡のレンズがキラッと光った。
俺は会釈しながら、そっと胸を押さえた。
(び、びっくりした……)
先生、いたんだな。
暗くないのかな? じゃああの人影は……?
生物準備室は、生物室の奥にある小さな部屋だ。
汗ばむ季節だけど、部屋は薄暗くて涼しかった。
薄青のカーテンはぴったり閉まっている。
差し込む光がうつって、部屋はまるで水の中みたいな神秘的な青に染まっている。
蝉の鳴き声が外の木立から響いてくる。
「よし、春花、電気点けてくれ」
「は、はい、電気……ええと……」
ドア横の壁を見回したらスイッチがあった。
きっとこれだよね。
パチンと下げると、天井の蛍光灯がチカチカと音を立てながら明るくなり、部屋は普通の生物準備室になった。大きな本棚が壁際にならび、本が積み上げてある。部屋の中央にある大きな木のテーブルや先生のデスクは雑然としている。
そしてあの人影は――人体模型だった。
な、なんだ、もう~!
ほっとしながら、部屋に入り、ドアを閉める。
占戸先生から言われたとおり、お弁当を抱えてきたけど……なんだろう?
先生は一抱えのわら半紙を腕に抱いて、部屋の中央のテーブルに移動していた。
だいぶ年季が入った木のテーブルで、やっぱり散らかっている。先生は本や小箱、コーヒーサイフォンなんかを奥に押しやってスペースを作って、そこに紙束を置き、ポンとたたいて笑った。
「これ手伝ってくれ」
「はい……?」
「これこれ。採点、手伝ってくれ。バイト代は出す」
「採点……?」
のぞいてみると、うちのクラスの生物の答案だった。
「えっ? 午後の最初の授業で返していただく予定じゃ……? まだ……」
「大体は終わってんだよ。あと二十人くらい。二人でやれば十人ずつだろ。手伝ってくれよ」
三十人のクラスであと二十人残ってるんじゃ、「大体」とは言えないんじゃあ……?
仕方ない。
幼馴染みだからわかるけど、先生ってこういう、ちょっと頼りないって言うかほっとけないとこがあるんだよね……。
頼む、と手を合わせる先生にうなずいてテーブルに近づきながら、ふと嫌な予感がした。
……ない、とは、思うけど。
花婿候補の最後の一人。
(……ダンディな教師……)
俺はまじまじと占戸先生を眺めてみた。
占戸蓮哉先生。
飄々とした雰囲気で、学究肌、っていうのかな、浮世離れした雰囲気がある。
三十才くらいで、分厚い眼鏡にいつもよれっとした白衣を羽織り、足下は突っかけ。
時々、靴下も右と左で別々のを履いてる。
話すと少し皮肉っぽくからかわれたりするけれど、気さくで、校則だとか成績だとかにこだわらないので人気がある。
そして俺の幼なじみでもある。
改めて見ると、背も高いし肩幅もがっちりしてて、スタイルは良いんじゃないかな? とは思うんだけど。
やっぱり、ダンディじゃ、ない。
よかった。
「……バイト代、ちゃんともらいますから!」
俺は笑顔になり、テーブルの前に腰を下ろした。
「これが答案な。この、一と二、四と五と……ここだけでいい」
「えっと……あ、答えが記号のところ……」
「そうそう。文章解は先生が見るから、記号にだけ丸つけて、俺に渡してくれ」
「はい」
と指示をもらって、俺たちはしばらく黙々とまるバツをつけ続けた。
(俺のもあるかな……バツばっかりだったらどうしよ……)
ちょっとドキドキしながら作業して、十五分くらいで作業は終わった。
(これくらいだったら、先生一人で間に合ったんじゃあ……?)
ちょっと不思議な気がして、先生がトントン答案をそろえてるのをぼんやり見てると、
「心配したか?」
占戸先生がにやっとした。
「え?」
「おまえさんのぶんは、昨夜終わってる。出てきたら、こっそり丸つけられたのにな」
「えっ、そ、そんなことしないです!」
「言い訳するところが怪しい……なんてな、冗談だよ。さて、バイト代だ。春花、弁当出せ」
「あ、はい……?」
なんだろう。
先生はニコニコと立ち上がった。
「まあ、見てなさい」
立ち上がった先生は、棚のひとつから段ボール箱を出してきた。
「よし……今日はこれにしとこう、あまり苦くない、フルーティなやつ」
「え?」
横からのぞくと、箱には茶色い粉が入った硝子ビンが四つほど並べられている。
先生はそのひとつを取り出して、秘密めかして蓋を外して見せた。
テーブル越しにも漂ってくる、豊かな香り……。
実験用の薬品……じゃない、この香りは。
「コーヒー……ですか……?」
「そうそ。空き時間に飲むのがうまいんだ、これが。特別だからな、秘密にできるか?」
冗談めかした口ぶりに、俺はつい笑ってしまった。
「はい」
「よろしい」
引っ張り出されたのは、さっき一度本の山の間に押し込んでいたコーヒーサイフォンだ。
先生は慣れた調子でフラスコに水を入れ、アルコールランプをセットした。
マッチで火を点け、フラスコの下に炎を当てる。
金属製の輪に、ざらついた感じの布をかぶせて、細長いガラスのろうとにセットし、フラスコにはめこむ。コーヒーの粉を入れる。
しばらくするとふつふつ泡が立ち始めたお湯が、ろうとの口を伝って、フラスコからろうとへ沸きあがっていった。コーヒーの香りが広がり始める。
先生は、竹べらでコーヒーの粉とお湯を馴染ませる。
その手際に、俺は見とれてしまった。
そうやってコーヒーを入れる占戸先生は俺が思ってたよりかっこいい。
改めて見ると、占戸先生は知的で過去よく見える、かもしれない。
全体的に男らしいのに、アンバランスに繊細な目鼻立ちが、色気をかもし出す。
背も高い。
冬志さんや瑞樹兄さんも長身だけど、この人は肩幅が厚みがあってがっしりした印象がある。
ふと、サイフォンの手前が目に入った。本が積んである。
綺麗な本だった。汚れちゃいけない、と引き寄せる。
えんじ色の布で装幀されている、古めかしい本だ。
金色で記されたタイトルも著者名も外国語で、表紙に絵なんかは入っていない。
英語……フランス語かな?
ロマンティックな感じというか、おしゃれで、他の科学系の本と雰囲気が違う。
先生、外国語が読めるのかな。
「……先生、これは生物の本ですか?」
占戸先生は、俺の指先を見て、ニヤッと笑い、
「ああ、そのへんも私物だ。小説だよ。ゴシックロマンス。知ってるか?」
「ゴシックロマンス?」
「まあ、ホラー小説のご先祖ってとこだ。現代で言えばスリラーってやつかな。有名どころで『オトランタ城綺譚』『マンク』……だがいちばんの気に入りは、これだ」
先生は、俺の手元の本をつついた。
「タイトルは『リブラン・デ・ペール』。真珠の白百合……というような意味だな。フランス語だよ。著者はジャン・デュボワ」
「はあ……」
一応うなずいたものの、全く知らなかった。
有名な本なのかな?
黄ばんだページをぱらぱらめくってみると、ところどころに、ペン画みたいな細かいところまで書き込んだ挿し絵が入っていた。
「先生、フランス語ができるんですか……?」
幼なじみなのに、知らなかったな……。
「まあな。……それより、二人の時くらい、気軽に名前で呼べよ。幼なじみなんだから」
「あ、す、すみません……」
確かに。
蓮哉さん、って呼んでたはずだ。でもなんだか、妙に口触りが悪い。今まで一回もそう呼んだことがないみたいに。
(……どうしてかなあ……?)




