6-1 空も飛べるはず
――ここは、どこだろう。
古風な部屋だ。
天窓から差し込んだ月の光と、壁や床できらめく無数のろうそくが、壁や長椅子のシルエットを、壁に揺らめかせ、踊らせている。
俺が横たわっているのは、少女マンガに出てくるような、天蓋付きのふっかふかなベッド。
バラの花が散りばめられている。
なにこれ?
そう思うと同時に気がついた。
誰かが、俺の横に腰を下ろしている。
柔らかい指先で、俺の髪をなでている。
――ひ、ひええええ。
俺は悲鳴を上げて一目散にベッドから飛びおりたくなったけど、なぜか身体が動かない。まるで人形みたいに、横たわっているだけだ。
待って待って。これ、夢だよね。
ものすごくクリアだけど、夢だ。
そして俺がこの夢を見るのは、初めてじゃない。
なぜかそれだけわかっていた。
俺は、この場所に来る夢を何度か見たことがある。
そして目覚めると綺麗に忘れているんだ。
どういうことだろう。
首と頭だけは、がんばれば動かせるみたいだった。
苦労しながら見上げると、目が合った。ろうそくの揺らめく光では陰になってしまってはっきり見えないけど、男の人だ。鼻筋が高くて、ごつっと骨張った影が落ちている。いくつくらいだろう――大人のひとだけど、おじさんってほどでもないかもしれない。
厚めの下唇に目が行ったとき、俺は不思議なことを思った。
あの唇は、熱くてやわらかい。その感触までまざまざと皮膚の上によみがえるみたいで、妙に胸が騒いだ。
俺、どうしてこんなこと考えてるんだろう。
恥ずかしくて、急いで目をそらした。
その人は俺の髪を撫でながら、目を細めた。
真っ直ぐ見上げたとき、頭のおくにもやがかかったような気がした。
思考がほどける。
身体の力が抜けていく。
優しい手が気持ちよかった。
何も考えなくていいんだ。
身体をゆったり伸ばして、この手に身を任せて、感触を楽しめばいい。
背中越しに、反対側の壁が見える。
繊細な薔薇のかざりで装飾された、大きな鏡がかかっている。
天窓の青ざめた月の光、ロマンティックに揺らめく無数のキャンドル。
優しい光に浮かぶのは、ゴージャスなベッドに埋もれ、知らない男性の腕の中に横たわる俺――どこかで見たことがあるような……。
――心のどこかで厳しい警告音が鳴り響いた。
危ない。これは危ない。しっかりしろ、春花薫、思い出せ……!
触れられる手の感触に、それを裏切るように、背筋を冷たくする嫌悪感があった。
「……薫」
耳許で男の人のささやきが聞こえた。誰だろう。
聞いたことがあるのに、初めて聞くような気がした。しっとりと濡れた、――こちらの鼓膜も濡らすような、低い響きの声。
大きなてのひらがやさしく頬を撫で、髪をかきのける。必死で首をひねり、顔をそらしたけど、首筋にキスが触れた。
やっぱり知ってる。この感触。
俺はかすれた声をやっと絞り出した。
「……い、やだ、……!」
束縛が少しゆるんだ気がした。起きよう。起きるんだ。逃げるにはそれしかない。
くぐもった笑い声が返ってくる。
「……おや。拒絶できるとは」
なんだろう、手の中に温かさを感じる。
俺は夢中でそれにすがった。
暗い水底から、明るい光を見つけてそちらへ浮上していくように、俺はそのぬくもりを頼りに、夢から覚めていった――……。
「薫!」
まぶたを開けると、俺の顔をのぞき込んでいる人がいた。
端正に整った、キリッとした目鼻立ち。
心配そうな表情を浮かべている。
「目が覚めたか……?」
名を呼ばれたけど、……
(……誰?)
知らない人だ。夢の記憶が強すぎて、俺はまだふわふわとして、あの月光の部屋にいるような気がした。
一瞬そう思ってから、打ち消すように現実が押し寄せてくる。
「……冬志さん……?」
同時に、一気に記憶が蘇った。
そうだ、俺……失神したんだ。
屋根の端っこで、ぎりぎり転落が止まった。もう身体が半分落ちかけていた俺は、目の前に四階の高さから地面までの落差を見、風に顔をなで上げられた途端、恐怖で気を失ってしまった。
でも、生きてる。
助かったんだ。
でも、どうして?
「冬志さん……俺たち、どうして……? まさかあの世じゃ……?」
冬志さんはホッとしたように肩を落とした。
「あの世じゃない。おまえは気を失ってたんだ。……三十分ほどか。憶えてないか。……あの不良のおかげだ」
「不良……桐谷さんですか?」
「それだ。あいつが咄嗟に屋根に飛び降りて、滑り落ちかけた俺の足首をつかんだ」
「え……」
「さらに、その桐谷が落ちないようにあいつらがとめてくれた」
「あいつら?」
「お前の従兄弟と同級生と後輩だ」
と言うと……。
「瑞樹兄さんと、四方田くんと、宮くんですか?」
「ああ」
冬志さんは、感謝すればいいのかどうか、という複雑な表情で、
「あいつらがちょうど回廊にのぼってきたところで、三人で桐谷の身体をつかんで、落ちるのをとめたんだ。それから引っ張り上げてもらった」
「お……俺、気を失っててすみませんでした……」
「しかたない、間一髪というやつだったからな。……それだけじゃない」
冬志さんは、変な物を口にふくんだような微妙な顔をした。
「……見えない手に、下から押し上げられた気がした。……そのせいで落ちずにすんだ……気がする」
「見えない手……」
瞬きをして、なんとなく狩野さんの顔が思い浮かんだ。
もしかして……狩野さん、助けてくれたのかな……。
考え込んだ俺の沈黙をどう受け取ったのか、冬志さんは首を振って、
「いや、勘違いだろう。落ちずにすんで僥倖だった。……どこも痛みはないか」
「はい……冬志さんは?」
「俺もかすり傷程度だ。もう手当はしてもらった」
よかった。
改めてほっとした。
「本当にご迷惑をおかけして……」
「……いや。……無事でよかった」
ふと冬志さんの険しい目元が緩んだ。
屋根の上の恐怖を思い出して、俺は全身から力が抜けていくのを感じた。
良かった。助かった。
いや、みんなに助けてもらったんだ。
胸の中がじわっと温かくなった。
「冬志さん、助けてくれて、ありがとうございました」
「いや。……むしろ、おまえを危険な目に遭わせて、すまなかった」
冬志さんは眉間をけわしくして、頭を下げた。
「そんなこと……。でも、どうしてあんな決闘なんて」
「……」
顔を上げた冬志さんは、不思議な顔をしていた。
俺をまじまじと見つめる。
ついどぎまぎして、俺は目を伏せた。
(……あ……)
冬志さんの手が、俺の手を握りしめてる。
一回り大きくて、強くて温かい手。骨張ってて指が長く、男の俺から見てもかたちのいいかっこいい手だった。
ずっと握っててくれたのかな……。
少し、鼓動が早くなった。
そっか。
さっき夢の中で、俺が目を覚ませるように導いてくれたのは、冬志さんの手だったんだ。
そのおかげで俺は、夢から逃げられ……
――夢から逃げる?
急に、俺は自分で自分の思考に戸惑った。
(……夢なんか、見てないよな)
俺は夢なんか見てない。
ただ熟睡してた。
冬志さんは心配してついててくれたのに、俺はぐーすか寝てたなんて、恥ずかしいな……。
俺の視線に気がついたみたいだけど、冬志さんは手をほどかなかった。
咳払いして、
「薫。……さっきの発言だが……」
「さっきの?」
きょとんと見返した。
さっきのって……いつのさっきだろ。
冬志さんの手に、力がこもった気がした。
「回廊で。……俺を好きだとかいう」




