5-17 決断の時
「戻りなさい、危ないから!」
先生がたに階段へ押し戻されながら、俺は必死で手すりにすがって踏みとどまった。
「お、お、お願いします! どうか……俺に話させて下さい……!」
うしろから背中を押されて、見上げると瑞樹兄さんだった。
よそ行きのプリンス笑顔とプリンス声で、俺を押し戻すようにしながらフォローしてくれる。
「先生、この薫は僕の従兄弟です。家のしきたりで厳原くんとは婚約しています。幼なじみでもありますから、薫の言うことなら聞くかもしれません。僕もついて行きますから、行かせてやって下さい」
「婚約者……そういう話があったね」
先生がたが気付いたように俺を見た。
せ、先生たちも知ってるんだ……。
慌ててここまで走ってきたけど、急に恥ずかしくなって、俺は、はい、とか何とかもごもご言って、視線を避けながら急いで頭を下げた。
「……お願いします……!」
「しかし……そう思うように行くかね」
四方田くんと宮くんも言い添えてくれる。
「先生、お願いします! 春花がここまで言ってるんですから……!」
「そうだよ先生、お願い!」
「うう~ん……そう言われてもね」
「ですが、いいんじゃないでしょうか。実際にこのままではらちがあきませんし」
先生方のあいだから、ひょこっと笑顔を出したのは、白衣の占戸先生だった。
「春花は私のクラスの学生ですが、信頼できる子ですよ」
「占戸先生がそうおっしゃるなら、まあ仕方ありませんが」
「やってみますか」
うなずきあって、扉までの道を空けてくれる。
「す……すみません……!」
俺は四方八方にお辞儀しながら塔屋に駆け込み、壁に沿ってのぼってゆくらせん階段を駆け上がった。階段のてっぺんにたどり着くと、ドアを開ける。
ひゅっと風が吹き込んできて、一瞬たじろいだ。
最初の視界は、真っ青な夏空だ。
おそるおそる風の中に足を踏み出すと、全身が気流に包まれて、ひやっとした。足の下にしっかりと石の感覚があるのに、落ちそうで、足の裏の細胞からぞわぞわっとあわだって広がっていく。思わず目の前の手すりにつかまった。
ドアを出ると、塔屋を取り巻くキャットウォークだ。
人が二人すれ違えるかどうかくらいの幅だ。黒いペンキが塗られた金属製の手すりは、胸くらいの高さ。
うっかり身を乗り出したりしたら落ちちゃうな……。
手すりにつかまって見ると、足下には赤い屋根がゆるい傾斜で伸びていた。
それがスカッと切れた向こうにプラタナスの梢がゆれていた。
そのしたには、人だかりができた緑の芝生が見える。集まった高等部、中等部、大学部の学生の黒い頭と白い制服が海みたいに揺れている。
めまいがして、指先がスウッと冷えた。
(た、高い……)
下で見ていたより、もっと高い気がする。
だけど、怖がってる場合じゃない。俺はグッと手すりをつかむ手に力を込めて、左手に視線を送った。
ジャージを着た体育の先生と、白髪の優しそうなおじいさん先生――確か冬志さんの担任の先生だ――が、こっちに背を向けて叫んでいる。
「桐谷、降りなさい!」
「厳原! 優等生のきみがどうしたんだ!」
その向こうは見えない。
震えそうな手で手すりをぎゅっとつかみ、もう片手を壁に沿わせながら、俺は声のするほうに回り込んだ。
先生がたの隙間から目に入ったのは、ぞっとするような光景だった。
冬志さんも桐谷さんも、もう塔屋にたどり着いていた。
ふたりとも、手すりに足をかけて立ち上がり、上体を反らせるようにして、張り出した塔屋の屋根に腕をかけている。
うかつに引っ張ったらすぐに落ちてきそうで、先生がたも、手をおろおろと宙でさまよわせている。
シナリオでは、ここから先に桐谷さんが屋根によじ登ることになる。
その不安定な足首を冬志さんがつかんだことで、桐谷さんはバランスを崩して転がり落ちるんだ。
まさに事故直前じゃないか。
(と……とめなきゃ!)
俺は先生方の後ろから、精一杯叫んだ。
「二人とも、なにしてるんですか! やめてください!」
驚いたように冬志さんと桐谷さんが振り返る。
こ、こ、こ、こわい!!
「ここここっちを見ちゃだめです、手元をちゃんと見てて下さい! 屋根をつかんで!!」
慌てて手を振った。
「そう言われると……」
桐谷さんの細い眼がにまっと笑ったかと思うと、パッと手を離した。
「!!」
ぐらっと上体が後ろに揺れ、下から悲鳴が上がって――次の瞬間、桐谷さんの身体は空中で斜めにピタッととまった。
片腕が、ぎりぎりで屋根の端をつかんでいた。
「な? 大丈夫だろ?」
「や、や、や、やめてください…………!」
俺は、へたへたとしゃがみこみそうになって、なんとか壁に手をかけて踏みとどまった。
この人は……怖いって感覚がないのかな……?
「きみは……厳原くんの婚約者の」
驚いたように先生が俺の肩に手をかける。
「は、は、はい。説得させていただければと……」
「それはいい。やってみてくれたまえ」
しわくちゃの顔で、先生は励ますように俺を立たせてくれた。
俺は震える足で一歩、踏み出した。
「とにかく……まず、降りましょう……頼みますから……」
「すぐすむから慌てなくていいぜ」
「何かあってからじゃ、遅いんです……!」
冬志さんは何も言わない。端正な顔は氷のままだ。
目が合って、どきりとした。
俺みたいなやつが、こんなところにのこのこ出てきて、迷惑だろうか。
本当は、もう婚約者なんかじゃないのに……。
(冬志さん、どうして……こんな決闘に乗ってしまったんですか……?)
ゲームでは、ヒロインを奪われそうだと察した冬志さんが、婚約者としてヒロインを賭けて決闘を申し込む。ヒロインを好きだからっていうより、対面を傷つけられた怒りと、厳原家のために婚約を維持したいという計算のためだ。
でももう冬志さんは、俺との婚約が解消になるって知ってる。
桐原さんとは何の関係もない、家の事情だ。こんなことをする理由がない。
そう思ってたのに、まさか桐原さんのほうから決闘を申し込むなんて。
そして冬志さんが受けるなんて。
またちょっと展開が変わってる。
混乱と緊張で泣きそうだ。
冬志さんは俺から視線をそらし、無言のままでグッと腕に力を込めた。
上体を持ち上げ、屋根の上に身体を載せていく。
やめる気はないみたいだ。
「お……降りてください、話し合いましょう! ね!」
「いいんだよ、この傲慢ヤローに身の程をわからせるには、これくらいしかねえからな」
「身の程って、どういう……」
「あんたはこいつを好きでもなんでもないってことだよ」
「えっ……?」
俺は唖然とした。
なんの話?
「これから俺があんたを守る、って言った。あんたを好きなら決闘を受けろ、と」
「えええ!?」
頭が真っ白になる。
瑞樹兄さんの話はほぼ正しかった。
なぜ冬志さん……そんな決闘を受けたんですか……!?
「じゃあ聞くが、そもそもあんたはこいつを好きなのか? 尊敬してるとか何とか、自分をごまかす必要はないんだぜ」
「ご、ご、ごまかしてなんてないです……!」
一瞬、躊躇した。
いま俺がこう言っても、冬志さんを喜ばせることはできない。
わかってるけど、でも何とか冬志さんをフォローしたい……!
そしてふたりとも屋根から降りてほしい……!
「け、決闘なんて、する必要はありません!」
俺は勇をふるった。
「俺は、俺は、冬志さんを……好きです……! こんな決闘なんかしなくても、俺の気持ちは変わりません……!」
い、い、言った……!!
しん、と沈黙が落ちた。桐谷さんは口を引き締めた。
冬志さんの動きが止まる。顔は見えない。
風がひゅうっと吹き渡る音と、俺の心臓の音だけだ。
――その直後、足下から歓声と拍手、口笛が沸き起こった。
えっ?
ぎょっと見下ろすと、芝生広場だ。
風に乗って俺の声が聞こえていたらしい。
みなさんが拍手喝采しているんだ。
「すてきーっっっ!」
「感動ーっ、しましたーっ、わー!」
「お二人はー! 本当にー! 愛し合ってー! らっしゃいますのねー!」
「純愛ーー!!!」
な、なにか感動されてる……!?
俺は気を取り直して、冬志さんと桐谷さんに向かい合った。
「あの……ええと、そういうわけなので……! 桐谷さんが俺を恩人と思って、守ろうと言って下さるのはありがたいのですが……! 大丈夫ですので……決闘はもう……!」
「恩人とかそういうことじゃねえよ」
不意に桐谷さんが遮った。
「えっ?」
「俺が我慢ならねえんだ、こいつがあんたの隣でデカい顔してんのが」
「え?」
桐谷さんは険しい顔で屋根に這い上がろうとする。俺は咄嗟にその足下に駆け寄った。
「やめてください……!」
「見てろ、俺が勝つから!」
桐谷さんが足を振った拍子に、肩につまさきがあたった。
とっさに身を引く。そこからは長いようで短かった。
足がもつれて、柵に背中が倒れかかり、ふわっと足元が浮いた。
頼りない感じに、下腹がヒヤッとした。それきり、俺の身体は後ろざまに手すりを越えて、屋根めがけて落ちていった――何かをつかもうと腕を伸ばしたけど、指先には何の手応えもなかった。
俺の下には、傾斜した屋根しかない……!
(落ちる……地面に……!)
一瞬、リアルに思った。
そのときだった。
「……薫!」
冬志さんの叫び声がした。
そして、指先に痛いくらいの手応え。
ぱっと目を開ける。
宙に浮いていた俺の指は、しっかりと握りとめられていた。
冬志さんだ。
青ざめている。
塔屋の上から屋根の上に飛び降りたのか、と見る間もなく、俺は冬志さんに抱きしめられた。
一週間ぶりの温かい身体と、冬志さんのにおいに包まれていた。
(冬志さん……!)
次の瞬間、屋根の上に転がった俺たちは、傾斜に沿って落下し始めた。




