5-14 どっこい生きてる
「薫」
背を向けたまま、ぽつんと冬志さんが言った。
「……冬志さん」
ほぼ同時に俺も言った。
「……お話があります」
「……話がある」
冬志さんが振り返る。
咄嗟に俺は身を引いてしまった。
待って待って。だめだ。冬志さんの顔を見たら、俺はきっと言えなくなる。
急いで顔を伏せる。
春にはやわらかい若緑の草が生えそろっていた川端の地面は、今はもう盛夏を前にした深緑の濃い雑草に覆われていた。
「……できたら、先に、俺にお話しさせてもらえませんか……?」
冬志さんは多少戸惑ったようだったけど、うなずいてくれた。
「……わかった。なんだ」
「ありがとうございます」
口がからからだ。
でも言わなくちゃ。
冬志さんの影が、俺の足まで届いていた。
それを見つめて、俺はありったけの勇気をかき集めた。
目を閉じて、口をひらく。
のろのろと言った。
「婚約を、解消、させて、ください……!」
……言った……!
俺はまぶたをゆっくり開けた。
冬志さんの影は動かない。
セミの声が一気に俺たちの間に割って入り、俺はやっとセミの存在に気がついた。
緊張して聞こえてなかったんだ。
心臓がはっきりわかるくらいどくどく胸をたたいている。
やっと少しだけ、冬志さんの影は身じろいだ。
「……どういうことだ」
低い声が落ちてくる。
「……この間、昼になにか言いかけていたのは、それか?」
「……はい」
「……そうか」
冬志さんは顔を背けた。
「……あいつのためか」
「あいつ?」
「あの不良だ」
「えっ?」
だ、だれ?
ぽかんとするあまり、顔を上げてしまった。
冬志さんは俺を見ていなかった。
胸の前で腕を組んで、顔を背けている。
怒ってる……ようにも見える……。
(あ、桐谷さんか)
そう言えば、緊張のあまり桐谷さんのことすっぽ抜けてた。
な、なんでここで桐谷さん?
おそるおそる答える。
「あの……桐谷さんは関係ない……です……?」
「……それ以外に理由があるのか」
冬志さんに早く説明しないと。
俺はうろたえながら、妹のことを説明した。
途中から、冬志さんは怪訝そうに俺に視線を当てていた。
「それで……妹が生まれるとなれば、後継者が俺ではなくなります。なのでお婿さんを選ぶ必要がなくなり……まして……」
「……だが、生まれてくるのが妹だと、なぜ決めつける?」
うん、それは質問されると思ってた。
この世界では、生まれる前の男女の診断がまだできない。
死神が教えてくれたなんて言うわけにはいかないので、ここは押し切るしかなかった。
「妹なんです」
俺はきっぱりと言いきった。
冬志さんは鋭いまなざしで俺を見つめている。俺は真っ直ぐに見つめ返した。
「理由は説明できません。でも……妹だと、わかってるんです」
少し、間があった。
冬志さんの表情が微かに動く。
ふっと力が抜けて、一瞬の間だけ、冬志さんは呆然としたように見えた。
でもすぐに視線がそれた。冬志さんは咳払いした。
「……そうか。……よかったな」
その声も、たたずまいも、いつもの氷の貴公子と評される冬志さんそのものだった。
急に目頭が熱くなる。
ああ。
どうしよう。
俺は、なにか取り返しのつかないことをしてしまったんじゃないだろうか。
ほんとうにこれでよかったんだろうか。
緊張で頭が熱くなってくる。
場を埋めたくて言葉を探した。
「あの……急すぎて驚かれると思います……。本当にすみません……。何もかもこちらの都合で、冬志さんには本当に申し訳ないです……。近いうちに、両親から正式に話させていただくと思います。ちゃんと自分でお詫びとお礼を言いたくて時間をもらって……俺、迷惑ばかりおかけしてしまいました……ごめんなさい」
――冬志さんはうっすら苦笑した。
「……そんなに謝るな。もともと期限付きで手を組んだだけだ」
「……はい……」
「……俺は了解した。あとはうちの両親が、婚約解消にどう対応するかだが……。ふたりにとっては縁談で春花家と連携しようというもくろみだったわけだから、そうそう簡単に納得するとは思えないが……俺からも口添えはする。なにか見返りさえ提示すればふたりは飲むはずだ」
「ご配慮ありがとうございます」
「話はそれだけか」
話が打ち切られそうな予感がして、俺は慌てて首を振った。
「あの、お伺いしたいことがあるんです。冬志さん、好きな方のために俺と手を組んだっておっしゃいましたよね」
「……ああ」
「それで俺、考えたんです。ご迷惑をおかけしないために、その方のために俺にできることがあれば、何でもしたいんです。春花の名前がお役に立つなら使っていただけるように取り計らいますし、なにかあったらおっしゃってください」
「わかった、考えておく。……悪いが、あとは一人で帰ってくれ」
急に冬志さんは我慢できなくなったように俺に背を向けた。
「あ……」
「今日は少々疲れた。一人にしてくれ」
――それきりだった。
背中は頑なだった。
追いかけることはできなかった。
冬志さん、俺にお話って、なんだったんだろう。
いまさら呼び止めて聞けるような空気じゃない。
冬志さんは真っ直ぐに、疎水沿いの柳の並木道を遠ざかっていく。
俺は呆然と見送っていた。
セミの声がうるさかった。
ゆっくり膝から力が抜けて、俺は柳に手を添えるようにして身体を支えた。
(……なんだろう……ふらふらする……)
やっと言えた。
やっと終わったんだ。
これで全部丸くおさまった。
もう俺は男性との婚約で悩まなくてもいい。
俺と冬志さんの婚約が解消された以上、冬志さんが俺の誕生パーティで糾弾されるイベントもおきない。
何もかも終わったんだ。
夢みたいな良いことづくし――の、はずなのに。
考えるのを先延ばしにしてきたことが、のしかかってくる。
俺は冬志さんを好きなんだろうか。
恋愛感情として。
だから今まで言うのを引っぱって、こんなに淋しいんだろうか。
でも俺は男で、冬志さんも男なのに、そんなことあるんだろうか。
冬志さんには好きな人だってちゃんといるのに。
……じゃあ瑞樹兄さんたちに好かれてるのはどうなのかって話だけど、でも……俺は、みんなが本当に俺を好きなわけはないと思ってる。
なにもかもシナリオのせいだ。洗脳されてるというか。
シナリオが終わればきっと夢から覚めるようにみんな冷静になるはず。
(……そう言えば、冬志さんが三年前に俺から距離を置いた理由も、聞けないままになっちゃったな……)
ちらりと思ったけど、追いかけていって聞く勇気はなかった。
どうしてだろう。
冬志さんの冷たい横顔は、ひどく傷ついて見えた。
俺が悪い。一方的に冬志さんを利用して、振り回してしまった。きっとそのせいだ。
こんな俺が、冬志さんからまた話しかけてもらえるか、俺にはわからなかったけど。
(……せめて、冬志さんの好きな人のために俺ができること……なにかありますように……)
朝の洗面所の鏡のなかには、なんとなくげっそりした顔の俺がいた。
夏の朝の白い光のなかでは、目の下のくまが目立つ。
ため息をついて蛇口をひねり、水を出した。
(……なんだか変な夢を見たような……)
寝付きと寝起きが良いのが、俺の数少ない取り柄のはずなんだけど――。
あのあとすぐに試験週間が始まってる。
試験勉強で夜更かしすることも多いから、多少寝不足の顔をしてても目立たない、とは思うんだけど。
わかってる。
眠れないのは、試験勉強のせいだけじゃない。
冬志さんは、やっぱり俺に距離を置くようになった。
「はあ……」
ため息をついてばしゃばしゃ顔を洗ったときに、それに気がついた。
「……あれ?」
朝の光が差し込む鏡の中から、濡れた顔が俺を見返している。
その下の、夏用パジャマのひろく開いた胸元に、ぽつんと赤い色が浮かんでいた。
首をひねると、その少し上についたあの「キスマーク」も見えた。
「増えた……」
そっくりだけど、せっかく最初のがだんだん薄くなってきたのに。
(……キスマーク……)
急に、桐谷さんのいたずらを思い出して顔が熱くなり、俺はぶるぶる首を振った。
もう、あれは考えるのはやめよう。
俺には考えなきゃいけないことがまだまだたくさんあるんだ。
このあざだって、変だ。
(血液の病気とかじゃないよね……最近病気しなくなってきたのに、またなにかあったらいやだなあ……)
気が重くなった。タオルに顔を埋めて水気を拭き取る。
もし身体の他の部分にもできたら、お医者さんに相談したほうが良いかもしれない。
そんなことを考えながら、手早く制服への着替えをすませて、俺はダイニングへ降りていった。
「薫さん、冬志さんとの婚約破棄の件、厳原様とお話いたしましたわよ」
母さんがのどかに切り出したのは、朝食の席だった。




