5-11
……ここは……。
俺は呆然と立ち尽くしていた。
さぁっと爽やかな風が、俺の前髪を吹き上げていく。
潮っぽい匂いの……。
「……海……?」
足下のさくさくした砂。
打ち寄せる白い波。
波間にきらめく陽光。
岬の間の水平線まで、明るい青に輝く水面……。
俺は海にいた。
海……。
学校に行くはずだったのに……。
途中から学校と逆方向に走り出し、あわあわするうちに、海……。
「ききき桐谷さん! が、が、が、学校……!!」
「いちいちうるせえなあ」
桐谷さんは平然と道路から砂浜に降りていく。
浜、と言っても、海水浴場になっているようなにぎやかな場所じゃない。
町並みも切れた海沿いの一本道。ガードレールを越えて降りると浜辺に出た。
周囲を崖に挟まれた、ひとけもない小さな浜辺だった。
肩越しに振り返って、
「このへんは乗り合いバスもねえぞ。俺のバイクでしか帰れねえんだから、あきらめて俺の機嫌でもとってろって」
「そんな……!」
「あー、鞄なんてバイクんとこに置いてこい。教科書盗むやつなんていねえよ。ずっと乗ってて疲れたろ、手足伸ばせよ」
――確かに見渡すかぎり、民家もバス停もない。
バイクで一時間くらいかかったから、歩いて戻れるような距離じゃないし……。
(ああ……午後の授業、とっくに始まってるなあ……)
俺はしょぼしょぼと道を降りて、桐谷さんのあとを追った。
桐谷さんは肩越しに振り返って吹き出し、
「なんだよ、天変地異にでもあったような顔色じゃねえか。そんなにショックか?」
「……学校……さぼったことないんです……」
「だからさあ、いい子過ぎんだよ、あんた。今年、海見るの何度目だ?」
「……初めて……です……」
「そのせいで思い詰めた顔になるんだよ。ほら、見てみろって」
ぽん、と頭に桐谷さんの大きな手が置かれて、うながされるように海に視線を向けた。
昼下がりの真っ青な夏空と、その下で一段色を濃くしてきらめく海。
「きれいだろ?」
「……はい……」
色々言いたいことはあるけど、実際、海はきれいだった。
ふっと、胸の奥のつっかえが柔らかくなったような気がするくらい。
俺はうなずいた。
桐谷さんは小さく声を立てて笑い、砂浜に腰を下ろして、隣をたたいてみせた。
「座れ。少しやわらかい顔になって帰れるなら、学校行くより価値があるぜ」
――もしかして、俺が落ち込んでるのを察して、気を遣ってくれた……?
ちょっと距離を空けて座る。
一応、花婿候補だし、警戒はしなきゃ。
桐谷さんはその微妙な距離もむしろ面白がってるみたいに、ちらっとくちびるの端を持ち上げて、海に顔を向けた。
「感謝しろよ。今まで誰も連れてきたことねえんだぜ」
「え?」
「この場所。嫌なことがあったときなんか、バイク飛ばして海を見に来るんだ。あんま人もいねえしな」
「あ……」
(……どうして桐谷さんはこんなに気を遣ってくれるのかな……)
昨夜までは、恩人だから、という理由で納得できた。
でも今日は、もう度を超してる気がする。
……〈花婿候補〉だからだとすると……俺を好きだからってことになるけど……。
いや……う~ん……。
そんな感情が生まれるようなきっかけ、なかったよね……?
でもフラグが折れたかどうかは微妙だし……。
……ふんわりさせておくのが無難だけど……。
それは桐谷さんに対して不誠実かもしれない……。
そっと手を握りしめ、俺は目を上げた。
桐谷さんは海を眺めている。
「あの……桐谷さん」
「おお?」
「……どうしてこんなに、親切にして下さるんですか……?」
「……それは俺も、どうしてか考えてるところなんだが」
「……え?」
桐谷さんは脚に頬杖をついて、考え込むようにまじまじと俺を眺め始めた。
「……最初に会ったときから、あんた見てると、いつか会ったことあるなって気がすんだよな……」
「桐谷さんとですか? 学校で……でしょうか」
「いや、もっと昔だ。不思議な気持ちになる、守らなきゃいけねえような……癒されるような……」
「……えっ……」
桐谷さんは急にニッと笑った。
「考えてたらわかった」
「なんだったんでしょうか……?
「柴のハナコだよ。子犬の。小さいころ、家で預かってたんだ」
……子犬?
「ああ。あんたハナコに似てるんだよなあ、なんとなく」
そこはかとなく嬉しそうに、桐谷さんは大きな手で俺の頭をなでなでする。
「……良い意味……です……か……?」
「良い意味に決まってんだろ」
複雑だけど……恋愛感情ではない……ってこと……かな?
ちょっとホッとしたとき、桐谷さんがふと眉をひそめた。
「……なんだそれ」
「え?」
「それ」
桐谷さんは、俺の首筋を指先で突いた。
ちょうど制服のシャツで隠れるあたりで、首を曲げても俺には見えない。
「何かついてますか?」
「いや、……アザっつーか……キスマーク?」
「キスマーク?」
思わずきょとんとして繰り返した。
キスマークって……女の人が口紅を塗ってチュッとしたらくちびるの跡が残る、あれ……?
「え、くちびるの痕なんかついてますか?」
「いや……、って、あんたキスマーク知らねえの?」
「え?」
桐谷さんは俺を眺めて、面白そうな顔をした。
その手が俺の肩から腕に滑り降りる。やわらかく握って、
「……ちょっと、じっとしてろ」
「はい?」
俺はぽかんとして見つめていた。
腕が持ち上げられ、やわらかい二の腕の内側を表にするように、軽く半回転させられた。
かぶさっている半袖がめくりあげられる。
桐谷さんの銀髪が伏せられる。肌に、桐谷さんの息を感じた。
桐谷さんはためらいなくそこにくちづけた。
あたたかいくちびるの、濡れた感覚が肌に触れて、そこからじんわりと総毛立つような感覚が広がる。
「え、え、え」
離れようにも、もう片腕がうしろから肩に回されていて、逃がしてくれない。
心臓がものすごく早く打っている。外に聞こえるんじゃないかと思った。
次の瞬間、肌を強く吸い上げられてちくっと痛みが走った。
「……っ! あの……!」
思わず俺は腕を引いた。
今のは、どういう……?
呆然と桐谷さんを見つめていると、桐谷さんは口元を拭って、笑った。
「見てみ」
「……え……?」
俺は動揺しつつ、くちづけられた腕に目を落した。
肌に、じわっとにじむように赤いあとが浮かんでくる。
「あざ……」
「それがキスマーク。実地がわかりやすいだろ」
「わ、わ、わかりやすいですけど……でも」
赤くなるのはおかしいだろうか。
俺はこんなことされたことないから、すごく動揺してしまうけど、桐谷さんは平然としてる。
わからなくなってきた。俺が気にしすぎなのかな?
友達がいない弊害で、いまいち基準がわからない。
「あの、あの、ありがとうございました……わかりましたので、離……」
そっと桐谷さんの身体を押しやろうとすると、逆に桐谷さんの力が強くなった。
「なあ」
桐谷さんはあの頼もしい笑みを浮かべている。
でも子どもらしい無邪気さはなくて、熱っぽい――まるでこちらの気持ちを見透かしそうに強い視線だった。
俺は肩を抱かれたまま、きょとんと桐谷さんを見上げていた。
「……俺にしろよ。俺ならあんたを怖がらせたりしねえ。あんたを自由にしてやる」
え?
桐谷さんの顔が近づいてくる。
俺は目を丸くしたまま、避けようとして身体を引いた。
それでもまだ顔は近づいてくる。
あれあれあれ?
さらに下がると、重心が崩れて、俺と桐谷さんは砂の上に倒れ込んだ。
仰向けで倒れる俺。
上からのぞきこむ桐谷さん。
……ん?
ん?
んんんんんんん?
俺は呆然と、目の前の桐谷さんの顔を見つめていた。
砂の上に横たわってる俺と。
俺の身体を囲うように手をついて、上からのぞき込む桐谷さんと。
こ……この姿勢は……。
「……あっ、す、すみません、俺……滑っちゃっ……」
「ちょうどよかった」
一重まぶたのその奥の、桐谷さんの瞳が見えた。
真剣な色――なんというか……「男」の目つきって言うんだろうか。
こっちを射貫いて、動けなくさせるような……。
あれ?
首元でしゅるっと音がして、ネクタイがほどかれたのがわかった。
桐谷さんの手のひらが俺の頬をくるんで、ゆるりとなでる。
鼻と鼻はもうぶつかってしまいそうだ。
スウッと背中が冷たくなった。
とまっていた頭が動き始める。
これは……もしかしなくても……やばいのでは……?
我に返ると同時に、夢中で俺はじたばたし始めた。
でも、それも軽々と押さえ込まれてしまう。
「は、離して下さい……!」
「あの跡、あいつがつけたのか?」
「ち、ち、違います、なにかわかんないけど冬志さんはそんな人じゃ……!」
「俺じゃダメか」
「そういう、問題じゃ……っ!」
そうだ。
冬志さんはそんな人じゃない。
冬志さんは俺を好きじゃないし、婚約も形だけだし、それももうすぐ解消だし。
それでも冬志さんは精一杯俺を助けようとしてくれた。
不器用なやりかたで、でも誠実に俺のそばにいてくれた。
そういう人だ。
急に目の中が熱くなって、目の前の桐谷さんの顔が揺れた。
泣いてる、と思う前に、俺は桐谷さんを精一杯にらみつけて、声を励ましていた。
「冬志さんはこんなことする人じゃありません! 離して下さい……!」




