5-10
「坊ちゃま、今日はお休み下さいませ。いくらお熱が下がったと言っても、お薬が切れたら……」
割烹着の胸元でしわしわの手をもむ登与さんに、俺は靴をはきながら笑顔を向けた。
「大丈夫です。今日はどうしても、学校に行かなきゃ」
「でも、失神なさったのも久しぶりでございましたし……。こんなとき、奥様か旦那様がいらしてくだされば止めていただけましたのに……」
登与さんは、いつも通り、落ち着いた色合いの着物に割烹着で、あがりかまちでおろおろしてる。
いわゆる「ばあやさん」だ。
亡くなったおばあちゃんが少女の頃、それよりいくつか年下だった登与さんが下働きとしてうちにやってきたらしい。
「あたしには男兄弟しかいませんでしたからね、登与は妹のようなもんですよ」
なんて、おばあちゃんは口癖のように言っていた。
それもあって俺たちにとっては家族みたいな人だ。おばあちゃんが「きりっとした祖母」なら、登与さんは「優しい祖母」ってところかな。
今日は、母さんは帝都婦人総会の役員会、父さんは帝国議会貴族院の委員会があって外出している。
華族は貴族院議員になることができる。
春花家は子爵なので、互選での選出だ。
本来なら当主である母さんが議員になるところなんだけど、議員になれる資格が「男性華族」にかぎられているため、父さんが春花家の代表として議員を務めている。将来的には俺もそうなる――のかもしれない。
それはともかく。
朝から薬を飲んで様子を見てたら、熱は下がってしまった。
ならば、と学校に行くことにした俺を引き留めようとして、登与さんは孤軍奮闘してくれてるのだった。
俺は登与さんをなだめようと、
「身体も軽いですし、大丈夫です」
「ですが……」
「登与さんも聞いてるでしょう? 俺の婚約の話……少しくらい無理してでも、早く冬志さんにお話ししないといけないんです」
「さようでございますか……?」
しぶしぶ登与さんがうなずいてくれたので、俺は「具合が悪くなったらすぐ帰る」と約束して家を出た。
七月にもなると日盛りだ。住宅街のひとけのない道は、まぶしいくらいだった。
自然と汗がにじんでくる。
救いは、じわじわ喉元を絞めるみたいな八月の熱気はなく、木陰を選んで歩けばまだマシってところかな。
でも俺の頭の中は、別のことでいっぱいだった。
(……帰りまでに冬志さんをさがして、一緒に下校する約束しないと……)
(いよいよだ……話せるかな……いや、話さなきゃ……!)
ぐるぐるそんなことを考えながら角を曲がって――俺は反射的に声を上げた。
「……桐谷さん?」
曲がったところは、小さな公園だ。
公園と言っても、北小森公園なんかとは違って、いくつか遊具があるちょっとした広場ってところだ。
ツツジやヤツデなんかの灌木が、夏の日差しに疲れたような褪せた緑を差し伸べた、柵に腰掛けた人が、スッと立ち上がった。
銀髪に上背のある男の人。
桐谷さんだ。
急いで俺はぺこんとした。
「こんにちは……? 昨夜はどうもありがとうございました……」
奇遇だなあ。
と、思っていると、じろりと迫力のある一瞥が飛んできた。
そうだ。
桐谷さんは不良だった。今は授業中のはずだし、もしかして俺、桐谷さんがサボっているところを目撃してしまった?
ええと、こういうの、前世の言葉で……「シメられる」……?
すくみあがってると、桐谷さんは、
「あんた……奇遇だな、とか思ったろ……?」
「は……はい……?」
「顔がのんきなんだよ。俺はな、おそらくあんたがそろそろ登校するだろうと見て迎えに来たんだ」
「迎えに……?」
「ああ。あんたみたいな大人しい優等生タイプは、多少無理しても登校するもんだろ」
なるほど……。
いや、待って。
なぜ?
なぜ俺を迎えにくる必要が……!?
昨夜以来の疑問がまた頭を持ち上げてきた。
(やっぱりフラグ、立ってる? で、でも、もしそうなら、判定が大雑把すぎじゃ……!?)
だって、
「俺をかばった桐谷さんがナイフで刺された」
結果として、その男気に感動したヒロインとの間にフラグが立つはずなんだ。
でも実際は、
「桐谷さんをかばった俺がナイフで刺された」。
それで、その男気に感動した桐谷さんとの間にフラグが立っている……?
(大雑把すぎませんか、認定が!)
俺は崩れ落ちそうになった。
誰が認定してるか知りませんけど、とりあえず誰かがナイフで刺されさえすればオーケーってこと……?
判定が甘すぎる。
いや、最初から乙女ゲームを楽しむのを希望してるプレイヤーなら、これくらいでいいのかもしれない。
けど、ヒロインになりたくない男子には、厳しい……!
第一、俺はフラグを折りたい一心しかなかった。
なのに、桐谷さんがそれを男気だと思って、恩に感じてくれてるとしたら、なんだか申し訳ないし……。
うろたえている俺をどう思ったのか、桐谷さんは舌打ちした。
すねたようにそっぽをむいて、
「……そりゃそうか。悪かったな。いい子ちゃんは俺みてーな不良とはつるみたくもねーよな」
「えっ、いえ、そんなことないです!」
ほんとに、そんなことじゃなくて……!
「考えてみりゃ、あんたみたいな良いとこのボンボン、煮干しなんかいらなかったろうし」
「あっ、煮干しはいただきました」
お十時のときにかじった。
ぽりぽりして、おいしかった。
「……あ、マジで? 食ってくれたの?」
「はい!」
「……へえ」
桐谷さんは、顔をそらしたまま、くしゃっと笑った。
あ。
昨日も思ったけど、そうやって笑ったら、桐谷さんは全然怖い雰囲気じゃなくなる。
俺は思わず気を緩めながら、
「……そうじゃなくて……、あの、昨日のことは、お気になさらないでいただきたいんです。桐谷さんをかばって身を挺したとかじゃなくて、ほんとにたまたま当たり所が悪かっただけなんです。どうかご心配なさらず……。煮干しだけで俺には充分です」
「んな言い方、すんなよ。あんなこと、誰にでもできるもんじゃねえぜ。あんた謙虚なんだな」
桐谷さんはフッと笑った。
え、いや、謙虚とかじゃなくて……。
「まあそれに、あいつらがまたくるといけねえからな」
「あいつら?」
「あんたを昨日襲った連中だよ。一応シメといたけど、逆恨みしねえともかぎらねえだろ」
「えっ?」
「あいつらの根性は甘ったれたお坊ちゃんだからな。とにかく体面が大事だから、何しでかすかしれねえんだよ。……ほら、貸してみろ」
俺が反応する前に、桐谷さんは俺の鞄をひったくるようにとりあげ、公園に入っていく。
え……なぜ……?
茂みの陰までついていって、俺は声を上げた。
「うわあ」
そこにとめてあったのは、大型バイクだった。
真っ黒でつやつやしていて、バイクなんか詳しくない俺の目にもかっこいい。
「これ……?」
「おう。オヤジの形見だ」
桐谷さんは俺の鞄を小脇に抱えたまま、ポンとバイクをたたいた。
子どもみたいな誇らしそうな笑みが浮かぶ。
形見……?
「うちの親父とお袋な、俺が小五のときに事故に巻き込まれて死んじまったんだ。それから、俺と妹は、母方のじじいん家に世話になってる。
じじいは人がよくて、一生懸命働いてくれてっけど、なんせもう年だからよ。あんま無理はさせたくねえし。
俺も、夜間はバイトしてんだ。で、バイト先かけもちの日なんかに、こっそりバイク通学してんだよ」
「……そうだったんですか……」
「……ま、割の良いバイトがあると学校サボっても行くけどな。俺は、結局はこういう上品なとこより、下町のが性に合ってんだ」
にやりとして、桐谷さんはヘルメットを取り上げ、
「本当は、高校も行く気はなかったんだ。
けど中三の担任が、もったいないってじじいを説得してな。俺は頭が良いんだとさ。
そんときに、修陵院を紹介されてよ。ここなら、成績次第で学費や諸経費が完全に無料になる制度があって、大学にも行けるし、その後の就職にも役立つからっつってな。そっちのほうがじじいに楽させてやれっかなって思ってな。
まあ貧乏人のワルには居心地悪りいんだが……信じられねえだろうが、俺は今でも成績だけは必要な基準を満たしてるんだぜ」
桐谷さんの声はあくまで明るかった。
目からうろこが落ちるみたいだ。
俺、不良だからって決めつけちゃいけない、って頭では思ってたけど……。
どこかで、ただ乱暴な人だと思い込んでたんだな。
桐谷さん、ものすごく家族思いなんだ。
不良って聞いてたけど……おうちのために働いてたなんて。
それにご両親を亡くすなんてつらかったはずなのに、さらっと話してくれる……。
心が強いんだ。きっと、すごく。
「昨日、助けていただいたばっかりですけど……桐谷さんのこと、怖くなんてないです」
俺は心の底から言った。
恋愛相手は無理だけど、俺、この人のこと結構好きだ。
桐谷さんは、くちびるの端を持ち上げて、ちかっと笑った。
「サンキューな。俺も、修陵院の連中はケンカのひとつもできねえクソばっかだと思ってたぜ。あんたみてえなやつもいるって知れて良かった」
「桐谷さん……」
「うしろに乗れよ。送ってやる」
「え……いえ、それは」
「なんだよ。やっぱり俺が不良だから怖……」
「ち、ち、違います!」
フラグのためなんだけど……断りづらい……。
俺は精一杯の理由を探し、おずおずと、
「ふ……二人乗りは、法律違反なのでは……?」
「法律違反? メットさえかぶってれば大丈夫だぜ」
桐谷さんが怪訝な表情になった。
しまった。ちょっとどきっとする。
前世の記憶とごっちゃにしてたのかな?
(ツッコまれたらいけないかも……)
結局、俺はおとなしくヘルメットを受け取ってしまった。
「バイク……初めてなんですけど……」
「まあそうだろうな……。ここにまたがって、後ろからしっかりつかまってろ」
言われるがまま、シートにまたがった桐原さんの後ろに腰を据えて、腰に腕を回す。
背中にほっぺたを当てると、がっちりした身体のぬくもりが伝わってくる。
ぎゅっと腕に力を込めたら、くっくっという笑いが、身体越しに響いてきた。
「あんたさあ、やっぱボンボンなんだよなあ」
「え?」
「だまされやすい」
「……だまされ……?」
「ま、良い方の意味だから気にすんな」
ドルン、とエンジンを吹かして、桐谷さんは楽しげに言った。
「学校なんてつまんねえだろ。このままふたりで……いいことしようぜ」




