5-8 傷だらけの悪魔
桐谷さんは私服らしいシャツとジーンズに着替えている。
親指で何度も背後を示しながら、ぱくぱくと大きく口を動かした。
イ・ア?
いや……イ・ワ?
(……って、なんだろ……)
後ろを指してる……?
あっ、もしかして……?
(ニワ……庭?)
俺は急いで窓を開けた。
桐谷さんは手を下ろし、抑えた声でもう一度言ってくれた。
「待ってるから、庭に降りてこいよ」
「えっ……?」
ど……どうして……。
嫌な予感がした。
だって、いま会いに来るわけも、庭に出ろっていう理由もわからない。
桐谷さんがナイフで刺されるフラグ……俺が刺されることで回避したよね?
なんか言ってみるとすごく直接的な回避の仕方だけど。
まさかまた……フラグ回避に失敗した……?
思わずおびえた顔をしてしまったのか、桐谷さんが顔をしかめて、
「……あのな。見てくれがこうだからって馬鹿にすんな。あんたは恩人なんだ。俺は恩を仇で返すような真似はしねえよ、痛い目に遭わせようってんじゃねえんだ」
どきっとした。
しまった、俺、すごく失礼なことしちゃったのかもしれない。
桐谷さんは不良だけど、カツアゲに遭っていた俺を助けてくれた。
それに、〈はなこい〉でも、筋の通った一匹狼って設定だった。
だから俺は、「痛い目に遭わせ」られるんじゃないか、なんて心配してるわけじゃない。
でも、桐谷さんにはそれはわからないよね。
シナリオでは、桐谷さんは修陵院で恐れられていて、孤独だったはずだ。
俺の反応が桐谷さん本人を怖がってるように見えるのは当然だ。
俺は頭を下げた。
「……すみません、そういう意味じゃなくて……あの、俺、こんな時間に一人で外に出たことがないので……何事かと……」
「……マジかよ……たかが庭だぞ」
「……は……はい」
「……とんだお坊ちゃんだな」
呆れたみたいに観察されて、俺は急に恥ずかしくなってきた。
そ……そうかな……。
そうかも……?
「……あの……大丈夫です、俺、行きます!」
七月になったとは言え、この時間になるとちょっと肌寒い。
俺はシャツを一枚、パジャマの上から羽織って、ドアから滑り出した。
階段の電灯だけが灯されていて、うっすらと照らし出された家の中は静まりかえっている。
両親ももう寝たみたいだ。
お手伝いの登与さんは夜になったら裏庭の別棟に帰るから、見つかる心配はない。
こんな時間に、親の目を盗んで起きて外に出るなんて初めてだ。
ど……どきどきする……。
俺、ちょっと不良になったみたいだ……。
(いや、これくらい不良って言わないか……庭だし……)
俺は階段を降りて、居間に入り、掃き出し窓から降りてサンダルをつっかけた。
桐谷さんの白っぽい影が庭木の影に見える。
俺はそっちに頭を下げながら、急ぎ足にやわらかい芝生を踏んでいった。
途中で気がついた。
あれ?
桐谷さんの足下に何か……ある……。
大きな……黒っぽいずだ袋……かな?
目をこらしながらあと数歩のところまで近づいて、思わず足が止まった。地面にくたっと置かれたそれが何か、うっすらわかったんだ。
心臓が早鐘のように鳴り出した。
あれ、袋じゃなくて……。
……人間……?
人間がうずくまってる……?
うずくまってる、というか、あの、不良の人がよくやるしゃがみかただ。前世でもよく見た気がする。どうして不良の人はああいう座り方をするんだろう。
いや、いまの問題はそこじゃなくて。
「来たな」
かすかな外灯のあかりで、桐谷さんが目を剃刀の刃のように細くしてニッと笑ったのが見える。
俺は声を絞り出した。
「あの……あの……、そ……そちらは……?」
うっすらと照らされた、すねたような顔。
あれは……ナイフで俺を刺した不良の先輩では……?
どうしてここに?
そしてなぜ顔中がでこぼこなんだろう。夕方に見たときはあれほどの怪我じゃなかったような……?
呆然と立っていると、桐谷さんが先輩の背中を後ろから膝で蹴るように押した。
「おら。言ったとおりにしろ」
「……っせえんだよ」
先輩は舌打ちした――次の瞬間。
しゃがんでた先輩が、ガバッと土下座したのだ。
「刺してすんませんっした!」
「デカい声出すんじゃねえよ、低い声でやり直し」
「……刺してすんませんっした……」
「……え……」
「それだけじゃねえだろ。他に言うことは」
え、え、え?
桐谷さんが革靴のつま先で先輩の背中を蹴る。
先輩はあきらめたように、俺に向かって、
「……もう二度とあんたには手を出さねえ……」
「んん? そんな言い方でいいのか?」
「……もう二度とあなた様には手を出しません! これでいいだろ!」
え……。
声も出ない俺の前で、桐谷さんはにやりと笑い、
「多少はすっきりしたろ。あんたに謝らせようと思って探してきた」
「ま、ま、待って下さい……」
いや待って、怖い怖い怖い!
先輩がボコボコなのって、もしかして……!?
俺は思わず先輩の前の芝生に膝をついて、腕を伸ばした。
ちょっと怖かったけど、肩に手を添えて引き起こす。
「あの……ありがとうございます、もうわかりました……何もしないって言っていただけたら大丈夫です……」
「……本人がこう言ってんだ、もういいだろ!」
「そ、それから……俺だけじゃなくて……、他の生徒にも何もしないでもらえますか……?」
「わあったよ!」
先輩は急に吐き捨てて立ち上がった。
ふん、と捨て台詞みたいに残して、両手をダボダボのズボンのポケットに突っ込み、がに股で去って行く。
それを見送って立ち上がると、桐谷さんが肩をすくめた。
「……お優しいこって」
皮肉な口調だ。
「ああいうやつは完璧につぶさねえと、図に乗るぜ」
「で、でも……怪我をされてましたし……」
ドギマギと答えると、桐谷さんはそっぽを向いた。
外灯の近くで、寝ぼけたセミがじいじいと鳴いて、しんと静かになる。
「……んだよ。迷惑だったか」
つまらなさそうな声がぽつんとした。
俺は慌てて首を横に振った。
「ち、ちがいます! すみません、せっかくご厚意でしてくださったのに……」
「……迷惑だったんだろ」
「そんなこと……わざわざ考えて下さったんですよね、お気持ちはありがたいんです、でも……」
なんて言えば良いんだろう?
でもやっぱり、俺にはああいうのは怖い。怖いというか、すごく残酷に思える。
俺は勇気を出して、ぺこんと頭を下げた。
「どうか、俺のために誰かを殴ったりしないでください……」
「……」
桐谷さんの視線が俺をねめつけているのがわかる。
どうしよう、怒られるかな……。
うつむいたまま身体を硬くしてると、頭上で「あーあ」とめんどくさそうな声がした。
「わかったわかった。お坊ちゃんはとんだお人好しだぜ」
「す……すみません」
「……こっちは受け取れよ、ほれ!」
え、と顔を上げると同時に、胸元に何かが飛び込んできて、咄嗟に受け止めた。
紙袋?
ガサガサ言ってる……?
「見舞いだ」
「お見舞い?」
驚いて見上げて、一瞬ためらった。
どうしよう。
これ、受け取っていいのかな。
土下座の衝撃が落ち着いてきて、やっと少し頭が働き始めた。
本来の展開なら、「ヒロインが桐谷さんをお見舞いに通ううちに恋が始まる」はずだ。
今の状況はちょうど逆になってる。
これは……どう考えれば良いんだろう?
でも……。
ちょっと桐谷さんのご厚意をひとつ無にしてしまったあとだから、これまでお断りするのは気が引ける。
「ありがとうございます……」
結局、俺は精一杯にっこりして、頭を下げてしまった。
桐谷さんは満足そうに、
「血がなくなったあとだから、そいつをかじっとけ」
「……これは……?」
紙袋をあけて覗いてみる。
胸に一抱えくらいある袋は、口まで「あるもの」でいっぱいだった。
「に……ぼし?」
「これでも店の中でいちばん高級なやつにしたんだぜ」
「あ……ありがとうございます」
にぼしのことは好きでも嫌いでもないけど、でも強面のこの人が、乾物屋さんでわざわざ買ってきてくれたんだ……。
想像するとなんだか肩から力が抜けた。
ほっとして、俺はほほえんだ。
にぼし、あんまりかじったことないけど、しばらくおやつにしよう。
せっかくいただいたし。
「あんたは恩人だからな。あんたのおかげで刺されずにすんだ」
「い、いえ、俺の方こそ助けていただいて……」
「一般人を寄ってたかってやる連中が好きじゃねえだけだよ。……名乗ってなかったよな。俺は桐原月人。あんたは」
「あ……春花薫と言います」
そうか、俺が前世の記憶のおかげで一方的に知ってるだけだった。
俺は煮干しを膝に載せて会釈した。
「あんた、気が弱そうなわりに、勇気あんじゃねえか」
「たまたまです……」
ほんとに、フラグを折りたくて必死だっただけで……。
「あの、助けていただいた上にこんな気を遣っていただいて……」
俺もにぼしの袋を胸に抱いてお礼を言った。
桐谷さんは、ふ、と笑った。
「……なんかあんたって……面白れえな」
ぎくっとした。
その台詞……聞いたことある……。
……定番のやつでは……?
俺を見る桐谷さんの目が、熱いような。
(き、気のせい、気のせい……! 図々しいぞ、俺……!)




