5-3 ヒミツノカオリ
石畳の道には、木漏れ日が網の目のように揺れていた。
日差しには夏の強さがあるけど、木陰は涼しい。
中庭から購買部のある主校舎へ向かう近道だ。
主校舎は、職員室や校長室、来客用玄関などがあるいちばん正面の校舎で、一般教室がない。だから、特別教室棟の裏を抜ける小道には、ほかに人影はなかった。
小走りに影をくぐりながら振り向いてみると、サンルームのガラスの壁越しに、瑞希兄さんたちが残念そうにこちらを見ているのがわかる。
宮くんからぶんぶん手を振られて、俺はほっと息をついて手を振り返した。
よかった。無難に脱出できた……。
冬志さんのおかげだ。
(まだ見られてるから、購買部、行っておこうかな……ノート買いたかったし)
つつんだお弁当箱をぶらぶらさせて、冬志さんの背中を追う。
背の高い冬志さんを見上げると、パリッとアイロンのかかった真っ白なシャツの背中を、木漏れ日がよぎっていた。
感謝の気持ちももちろんだけど、暗い気持ちが落ちてくる。
(婚約解消のこと……早く話さなきゃ……)
「えと……ありがとうございました、冬志さん」
「……なにがだ」
「困っているところを助けてくださって……」
「……手を組んだ以上は、これが俺の仕事だ。気にするな」
ちらりと俺を横目で見て、冬志さんは素っ気ない声を返す。
でも目は優しい。
「……ありがとうございます」
心臓がドキドキしてきた。俺は手の中のお弁当包みをぎゅっとした。
……今がチャンスだよね。
冬志さんに話さなきゃ。
婚約解消のこと。
俺は、自分で冬志さんに打ち明けるつもりでいた。
婚約解消は家と家の話なので、両親に任せてしまうやりかたもあった。つまり、仲人の阿東男爵を通じて、厳原家に伝えてもらうってことだ。
実際、両親からはそうするよう勧められたけど、自分で説明したかったんだ。
俺から頼んで手を組んでもらったんだから、解消も俺が切り出すべきだって、思った。
――あなたがそこまで言うならかまいませんけれど……早めに打ち合わせさせていただかなければいけないから、あまり遅くなると、こちらでお話ししてしまいますわよ。そうね……待ててギリギリ、今週いっぱい。いいですわね?
母さんからはそう言い渡されている。
話すなら、今だ。
でも――どうしても気になって仕方ないことがある。
昨夜のことだ。
俺のことを嫌いじゃないって、冬志さんは言った。
昨夜は動揺してつい涙ぐんでしまって、すごく恥ずかしかったけど。
(……冬志さん、俺のこと嫌いじゃないんだ……!)
そう思ったらホッとして、身体が軽くなったような――羽が生えたみたいな感じさえした。
じゃあどうして三年前友達じゃないと言われたのかは気になるけど……いつか話すって冬志さんが言うなら、待つつもりだ。
考えてみれば、そのあたりはゲームのシナリオと違うんだ。
ゲームでは、〈かおる〉と冬志さんは嫌い合ってるはずだった。
そもそも、ゲームのヒロインと冬志さんは幼なじみでさえなかった。
俺が男に生まれたから、冬志さんと友達になるきっかけができたのかもしれない。
それなら、俺は男でよかったな。
狩野さんが慌てて転生させてくれて、よかった。
素直にそう思えた。
前世の記憶が戻るようになってから――ううん、物心ついて、跡取りのことを考えるようになってから初めてだ。こんなふうに前向きな気持ちになれたのは。
正直、「跡取りじゃなくなる」なんて、今まで考えたこともなかった。俺はいつかこの一生が終わるまで、春花家を守るんだと思ってた。
それが不意になくなって、足下がふわふわするような、戸惑いもある。これからどうするか、俺はいっぱい考えないといけない。
でも、――不安より安堵が強いのは、冬志さんがああいうふうに言ってくれたあとだったからかもしれない。やってみようって思えた。
俺が跡取りじゃなくなるって聞いたら、冬志さんは何て言うだろう。
少なくとも冬志さんも、手を組んで「婚約者」を演じなくてよくなることには、ホッとしてくれるんじゃないだろうか。何しろすごく迷惑かけてるのは間違いないし。
良いことづくしみたいだけど、俺の心にはシミみたいな影があった。
ひとつは、冬志さんの「好きな人」のことだ。
(俺と婚約することが何かの役に立つって言ってたけど……どういうことかな……? まさか婚約解消のせいで、なにか冬志さんの邪魔をすることになったら嫌だな……)
冬志さんにとってできるだけ役立つ条件を教えてもらいたい。
両親に話して、厳原家との話し合いの時に俎上に載せるようにしてもらうつもりだった。
もうひとつ、心に引っかかってるのは――うん、それは、いい。
大して重要なことじゃないから。
それより冬志さんの気持ちだ。
真面目に付き合ってくれてたから、急に方針が変わることでムッとされる可能性はあるよね。
怒られるなら素直に受けよう、と俺は決めていた。
考え込んでいると、スッと通る声に呼ばれた。
「どうした。考えごとか」
「え? なにも……」
顔を上げると、少し先で、立ち止まった冬志さんが振り返っていた。
しまった。
考え込んでいるあいだに、遅れてたんだ。
慌てて小走りになると、
「おまえは本当にわかりやすいな」
「……す、すみません……」
でも、これは絶好のチャンスなのでは……?
校舎と校舎のあいだの谷間のような場所だ。誰もいない。
俺は駆け寄りながら、ぎゅっと弁当の包みの結び目を握りしめた。
「と、と、冬志さん……お話があるんですが……!」
「なんだ」
振り返った冬志さんの前で、俺は立ち止まって、深呼吸した。
「……もしも……ということなのですが……」
「……ああ」
「これ以上俺と婚約していなくてもいい、となったら……冬志さんはどうしますか? なにか困りますか?」
「……なに?」
冬志さんの眉間にしわが刻まれた。思わず心配になる。
もしかしたら近い将来、眉間のしわが取れなくなってしまうのでは……?
指先でマッサージしたら取れるのかな……?
「……なぜ人のひたいを見つめている?」
「す、す、すみません……」
俺は目を泳がせた。
冬志さんの眉間をむにっと押すところを想像してたとは言えない。
「……ええと、話を続けますが……」
「……ああ」
「あの、冬志さん、大切な人を守るために婚約をしたとおっしゃったでしょう? だったら、婚約解消ということになったりしたらご迷惑をおかけするのでしょうか……? もしそうだったら、できるだけ回避する方法はありますか……?」
「……なぜそんなことを聞く?」
低い声が落ちた。
「婚約解消の話があるのか」
「えっ」
す、鋭い。
はい、とうなずこうとして、――ふと、俺は口ごもってしまった。
「何というか……」
冬志さんの顔から視線を落としてしまう。
言えばいい。
視界のなかで、俺の手が、お弁当包みの水色の袋を、かたくなに握りしめている。どうしたんだろう。急に動かなくなった。
言わなきゃ。
言わなきゃ。
言わなきゃ……。
「……それはおまえの希望か? 俺では不足が?」
「え」
「……まさか他に婚約したい男が?」
「え?」
「あいつらの誰かか? いやそれはないな……それじゃあ……例えばクラスの誰かとか」
「えっ?」
予想しない話の展開になってる。
思わず顔を上げた。
冬志さん、だんだん目が据わってきている。しまいにグッと肩をつかまれて、俺は押されるように下がった。背中に校舎の壁がドンと当たる。
もう下がれない姿勢で、唖然として冬志さんを見上げた。
「と……冬志さん?」
「はっきり言え、薫」
「な、なにをですか?」
「婚約したい相手ができたのか」
「そ、そんな人、いません」
「いない?」
「冬志さん、いったいどうしたんですか……?」
「いや……」
つぶやいて、冬志さんは手を離し、下がった。自棄になったような、乱暴な口調だった。なんとなく気まずい空気になる。
情けなくて、俺はまたお弁当の袋をぎゅっとした。
やっぱり、急に一方的な婚約解消の話なんて、不快だったのかもしれない。
俺が婚約解消したいって部分だけ察して、それを「冬志さんに不満があるから」って思われてしまった……?
ちゃんと妹の話をすれば冬志さんもきっと納得してくれるのに、俺はためらってしまった。
今、この瞬間も。
俺は今はまだ、「もしかしたら」って仮定の話しか言ってない。
でも、妹のことを伝えれば、婚約解消は決定的になる。
そしたら。
そしたら、俺と冬志さんは、――もう接点がなくなってしまうかもしれない。
「あの……すみません。俺……」
自分が何を言いたいかもわからないままで、俺は口の中でもごもごと謝罪した。
頭の上で冬志さんが溜息をついた。ぽつんと返事が落ちてきた。
「……ダメだな、俺は」
「え?」
「……だんだん、欲が出ている」
何の話だろう。
俺は瞬きした。
冬志さんは顔を背けている。
やっぱり言えない。
俺、まだ決心できてない。
俺はじゃり、と横にずれた。
「……ごめんなさい、少し時間を下さい……! ちゃんと……ちゃんとお話ししますから……!」
頭を下げて絞り出して、俺はいっさんに逃げ出した。




