4-8 君が思い出になる前に
玄関を開けるころには、暮れなずんだ日差しがもう空から消えようとしていた。
古い洋館の玄関は、すっかり影に飲まれている。
足が重い……。
四月以来、いろんなことがありすぎだけど、今日はほんとに疲れた……。
(はやく一人になりたい……)
てきぱき動く気力がなくて、ゆっくりドアを閉めてたら、ぱちんと音がして玄関ホールが明るくなった。
振り向くと、廊下の奥のドアが開いて、母さんが居間から出てきたところだ。俺を見て目を丸くしている。
なんだか妙に後ろめたさがあって、俺はぴょんとはねてしまった。
「まあ、薫さん、帰ったの? 明かりもつけないで……びっくりしましたわ」
「あ、ごめんなさい……」
「謝ることじゃありませんわよ。なあに、具合でも悪いんですの?」
玄関が薄暗いせいかな。
近づいてくる母さんの顔色が、なんだかよくない。
「母さんこそ……お顔の色がすぐれないような……?」
「あら、わかりまして? 熱はないんですけど、何ですかしら、だるいんですの」
「よくないですね」
「そうねえ、今日は早めに休みますわ」
「俺も部屋でゆっくりしていますね」
母さんには申し訳ないけど、俺はちょっと心ここにあらずだった。
曖昧にほほえんで断りを入れ、部屋に向かう。
部屋に入って、電気もつけずにベッドにひっくり返ったら、どっと疲れが出た。
(……何から考えればいいのかな……)
宮くんのフラグが折れてなかったし。
一気に告白されちゃったし。
冬志さんには恋人がいたし……。
(緊急に考えなきゃいけないのは、宮くんだよね……)
多分、フラグは折り切れてない。
でも、考え出すといつもわからなくなるんだ。
だって、瑞樹兄さんにしても、四方田くんにしても、宮くんにしても、すごく魅力のある人たちだ。
絶対にモテる。そういうのに疎い俺にだってわかる。
俺なんて、そんな人たちから、好かれる理由がない。
多分ゲームの設定だから、好きになるように仕組まれてる……のかなあ。
なんというか……心ならずも俺を好きだと感じるように……暗示みたいな。
もしそれを解けたら、みんな、俺への気持がすっきり消えるってことにならないだろうか?
(……だったらいいな……)
狩野さんに相談してみようかな。
そう思ったときだった。
「あれ……」
ほっぺたに冷たいものが当たった。何気なく指先でぬぐう。
濡れてる。
なにかな。
……雨……は降ってなかったよね。
ぼおっと濡れた指先を見てたら、急に鼻がつんとして、次の瞬間、ぽろぽろぽろっと涙が散って、次の瞬間やっと悟った。
泣いてたんだ。
「え……どうして……?」
自分でも分からない。
でも胸の奥に、どんよりした重たいものがよどんで、心臓をぎゅっと握りしめられたみたいに苦しい。
なぜだろう。
何だろう、この気持ち。
どうしてこんなに悲しいんだろう。
理由はわからないのに、沈んだ気持ちだけは強烈だった。
「なんだろ……、やだなあ……やだなあ」
つぶやいてみても止まる気配はない。
俺は、徐々に夜に沈んでいく暗い部屋の中で、ひとり、わけもわからず泣き続けていた。
それから、じめじめした今年の梅雨とともに中間テストが始まって、俺もしばらくは花婿どころじゃなくなった。
「かおちゃん、よかったら教えるよ」
「春花、俺と勉強しないか?」
提案する瑞樹兄さんと四方田くんを、
「結構です。俺が教えることになってますから」
冬志さんが無表情にシャットアウトしてくれて、ありがたかった。
そのうえ本当に一緒に勉強してくれたんだ。申し訳なくて頭が上がらない……。
冬志さんの教え方は端的で、でも要点がわかりやすかった。
「今さら慌てて詰め込み勉強する必要はない。それより俺も復習になるからかまうな」
俺の部屋で勉強中に、そんなことを言ってくれる横顔がふと目に入ると、時々急にまたあの憂鬱な気持ちがよみがえることがあった。
もちろん冬志さんの前で泣いたりは、しないけど。
でも、自分で自分がわからない。
この気持ちは冬志さんに関係してるってことだろうか。
こっそりデートをのぞいてしまって、すごく後ろめたい。
そのせいかな。
置いてかれたみたいな寂しさも、ある。
でも、どうして?
どうしてそれだけでこんなに落ち込むんだろう。
(俺、どうしちゃったんだろう……?)
因数分解しながら、俺は何度も、冬志さんにわからないようにため息をかみ殺していた。
やがて試験期間が終わって、梅雨も明けた。
衣替えも完了して、校内は夏服で目にも爽やかだ。
七月晴天のお昼。
サンルームに飛び込んできたのは、宮くんだった。
「薫さん!」
中等部の宮くんが突然あらわれたので、俺は食べかけのハンバーグを喉に詰まらせて盛大にむせるところだった。
「かおちゃん!?」
「春花!」
いっせいに背をさすられるやら飲み物を差し出されるやら、それを「大丈夫です」とお断りするやら忙しくなりながら、俺は涙目で宮くんを見た。
「宮くん!? どうしたの!?」
「うわあ……何この空間」
宮くんは嫌そうな顔をして、メンバーを見渡している。
瑞樹兄さんがにっこりして、
「……君は?」
「……もう~、質問した方が先に名乗るのが礼儀ですよ、学生会長」
宮くんは負けないくらいにっこりしながら、俺の背中に添えられていた瑞樹兄さんの手をさりげなく外すと、俺を中庭に連れ出した。
俺の手を握って、
「やったよ! 約束取り付けた!」
「え、えっ? 何の?」
「あっ、ごめん、言ってなかったね!」
宮くんは高揚した顔で俺の手を振りながら、ぴょこぴょこ跳ねている。
かわいい。
思わず笑ってしまった。
「あのね、今週末! 金曜日の午後!」
「今週末……?」
「うん、講堂で設楽雅子さんのコンサートあるでしょ」
「あ、うん、そうだね」
そう。
今週はいよいよ設楽雅子さんのコンサートなんだ。
だから金曜日は、午後の授業はない。お昼を食べたらそのあと、全学が講堂に集まり、設楽雅子さんの凱旋公演、ってことになっている。
宮くんはにんまりした。
「お昼の時間、抜け出してこられる?」
「え?」
「待ち合わせ! ぜ~ったい誰にも内緒だよ!」
俺は不安な顔をしたらしい。
だって宮くんは花婿候補だし……待ち合わせして、どうするんだろ……?
「なにをするの……?」
「大丈夫、そんな心配そうな顔しないで! 悪いことじゃないから! すごくいいこと! ね、お願い!」
宮くんは目を潤ませた。
「……そんなに僕のこと、信用できない……? 恋人には思えなくても、後輩としては信じてくれるでしょ……?」
「……そ、そ、それは……信じて……ますけど……」
告白をお断りしたことを思うと、罪悪感で断れない。
口ごもってしまった俺に、宮くんはあの輝くような笑顔になった。
「やった、嬉しい! ね、絶対だよ! 三十分前に講堂の南出口に来ておいてね!」
「ちょ、ちょっと待って。やっぱり何をするのかだけは……」
「あっ、ごめ~ん! もう戻らないと、今日は僕、まだお弁当食べてないんだ! あとで絶対教えるから、今はごめんね! じゃあまた、薫さん!」
慌てて呼び止めたけど、宮くんはぶんぶん手を振りながら中等部の方に駆け戻っていった。
中庭にぽつんと取り残された俺は、腕を差し伸べたまま呆然としていた。
……また、涙にだまされた……かな……?
「……あれはなんだ?」
首を傾げながらサンルームに戻ると、三人のいぶかしげな目が待っていた。
「はあ……」
説明しようかとも思ったけど……。
内緒って言われたし……。
特に冬志さんに対しては、宮くんと一緒にデートを見てしまった罪悪感があるから、目をまっすぐ見ることもできない。
俺はそろっと視線をそらしながら、
「中等部の……図書委員で後輩だった宮くんです。……あの、ちょっと、はい……」
「春花、そう言えば図書委員だったよな。今年は何もしてないんだっけ」
嬉しそうに四方田くんが口を開いた。
す、すごい、よく知ってるなあ……。
でもおかげで、話が変った。
「かおちゃん、何も仕事がないなら、学生会の手伝いに来ないかい」
「それよりさ、バスケ部のマネージャーとかどう!?」
「う、ううん、勉強で手一杯だし……でもありがと……」
俺は愛想笑いで首を横に振りながら箸を手に取ったけど……。
宮くん、一体何だろう? 気になって食事が喉を通らない。
ひとり無言の冬志さんが、胡乱げな目をしているのは気が付かないことにした。
その週いっぱい、冬志さんは何か考えているように黙りがちだった。
金曜日。
俺は午後の授業が終わると、四方田くんに「ちょっと用事があるから」とランチのメンバーに伝言してくれるように頼み、ひとりでアイリス館に向かった。
言ったとおりの場所に、宮くんの小柄な立ち姿を見て、小走りに駆け寄る。
「宮くん、お待たせ」
「時間ないから、こっちこっち!」
腕をつかまれて引っ張られ、講堂に入った。
コンサート準備で慌ただしい横をすり抜けて、宮くんは「楽屋」のプレートがあるドアを開けた。
学祭で演劇などの出し物をする人や、今日のコンサートの出演者だけが出入りする場所だ。俺は入ったことがない。狭い廊下が奥へ続いている。
「待って、宮くん、どこ行くの……? さすがにもう説明してくれるよね?」
さすがに、俺はキョロキョロしながら尋ねた。
宮くんは笑顔になった。
「設楽雅子さんの楽屋だよ!」




