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4-6 恋のABC

「来たよ」


 その指先が、すうっと折れて観葉植物のほうを指す。

 宮くんは目顔でこくんとうなずいてみせた。

 み、見ろってことかな。


「う、うん……」


 なにが見えるのか、はっきり予想できていたわけじゃなかった。

 俺は、宮くんの真剣さに押されるようにしてうなずき、そうっとテーブルの上に頭を伏せるようにして、そちらをのぞきやった。


 新緑に沈む池と、そのふちをめぐる遊歩道が見える。

 その小径に、背の高い人影が見えた。


 俺は思わず「あ」のかたちに口を開けた。


(冬志さんだ……)


 まちがいない。

 遠目でも、スラッと高い背や、きびきびして抑制されたむだのない動きでそれとわかる。

 一度家に帰って着替えてきたのか、身につけているのは制服じゃなくて紺色の細身のシャツだ。


 何だか大人っぽい。

 保護者がいないはずだから、私服は校則違反なんだけど、それでもとてもよく似合っていた。


 近づくにつれて、冬志さんの端整な顔立ちも見分けがつくようになった。

 無表情と言っていいくらいのいつもの顔だ。それが、ふとやわらいだ。


(え……?)


 視線を追って顔を動かす。

 テラス席だ。


 さっき宮くんが教えてくれてた女の人だ。

 白いしなやかな手を持ち上げて、場所を示すように振っている。

 冬志さんは彼女に微笑みかけたのだった。


 心臓がどきんと打つのがわかった。

 あんなやさしげな冬志さん、もう何年も見てない……。


 冬志さんが身軽に歩み寄ってきながら、身体の向こうで見えなかった手を持ち上げた。

 花だ……。

 かわいらしい小さなバラの花束が、冬志さんの手の中にあった。

 慣れた足取りでテラスにのぼってくる。

 俺は慌ててノートの上に顔を伏せて、冬志さんに見つからないようにした。


 小心者なので、ドキドキする。

 多分、植物にかくれて俺は見えないと思うけど……。

 だから宮くん、鉢の位置を動かしたんだな。


 やがて、言葉の内容は聞き取れないけど、冬志さんの落ち着いた低い声と、女の人の明るい笑い声が混じって聞こえてきた。


 もう大丈夫かな……。


 そーっと顔を上げて見ると、葉越しに冬志さんの背中が見えた。

 俺からちょっと背中を向けるようにして立っている。かすかに耳や顎が動いていて、何か話しているのはわかった。

 女の人のほうは、冬志さんの動きに合せて向きを変えている。

 はっきり顔が見えた。


 すごくきれいな人だった。

 俺にはメイクのことは分からないけど、華やかな色合いのお化粧がすごくよく似合ってる。モダンな雰囲気で、しっかりとした賢そうな人だ。

 もしかして外国の血が入っているのかもしれない。くっきりした目鼻立ちで、ブラウスにスカートの優雅な身のこなしは、上品で知的な雰囲気がある。

 さっき冬志さんが手にしていた花束は、今はその人の胸に抱かれていた。

 かわいらしい赤い花が、とてもよく彼女の顔色を引き立てて、ぱっと日の光が差し込んだように輝いていた。


「……あれ? あの人……?」


 なにか記憶に引っかかった。

 どこかで見たことあるような……?

 無意識につぶやいてたらしい。宮くんがすかさず声をひそめて、


「気が付いた? あの人、有名なピアニストの設楽雅子さんだよ」

「あ……学校にポスターがある……」

「そうそう」


 昇降口の前で見た景色が蘇った。

 そう言えば、冬志さん、修陵院の卒業生だって言ってた。

 知合いだったんだ。そんなこと言ってなかったのに……。


 宮くんは、テラス席の方に聞こえないよう、低い声で、

 

「……犬の散歩で来るうちに、あの二人がちょこちょこお店にいるのに気がついたんだ。月に一回、水曜日って決まってるんだ。この三月くらいからかな。

 厳原冬志さんの顔は知ってたから、それでなんとなく印象に残ってた。そのうちに設楽雅子さんのポスターを見かけて、公園の女の人だって思って……。僕は、ずっと、ふたりは恋人なんだろうって思ってたんだ。

 なのに……厳原さんと薫さんが婚約したっていうでしょう? 僕すごく心配で……」


 宮くんの口調は、どこか憤然としてる。 


「調べてみたら、設楽さんは三月までヨーロッパに留学してたんだよ。戻ってきて、すぐに厳原さんと会うようになったってことだと思う。つまりもともと知り合いだったんじゃないかな」

「そっか……」


 俺は目を奪われていた。

 ふたりは、お仕着せの給仕さんに何か注文して、ゆったりと話し始めた。

 冬志さんが何か言って、設楽雅子さんが楽しそうに笑い声を立てた。ちらっと冬志さんの横顔が見える。

 あれ……冬志さん?

 間違いなく冬志さんだよね?

 あんなに優しい顔で笑うなんて……。


 やがて冬志さんが懐から何かを取り出した。

 リボンのかかった小箱だ。テーブル越しにすべらせる。設楽雅子さんは手に取って微笑んだ。鮮やかな赤のリボンをほどき、箱を開ける。持ち上げたのはペンダントだった。

 設楽さんの手元で、銀のチェーンにつややかなパールが何連か輝いていた。

 薔薇が開くように、設楽さんの頬が紅潮した。


 うわあ、と思った。

 どんなに恋愛にうとい俺でも、わかる。

 恋する女性の笑顔だ。


(や……やっぱり、これは……おつきあいしてらっしゃるのでは……?)


 そんな気がする。

 じゃあ、冬志さんの恋人っていうのは……。

 

 心臓の動悸が速い。

 俺はそっと手を握りしめた。


 冬志さんは潔癖だ。

 平気で何人とも付き合えるような(俺と付き合ってると言えるかは疑問だけど)タイプじゃない。

 設楽さんとあんなふうにしてるとしたら、間違いなく設楽さんが恋人なんじゃないかって思う。


(この間、冬志さんが守りたいって言ってたの、設楽雅子さんのことなのかな……俺と婚約することがどう関係するんだろう)


 冬志さんは、俺と婚約することが守りたい人のためになるって言ってた。

 設楽さんと俺が、どうつながるのかな……?


 考えながら、ふと寂しさが落ちてきた。


 俺、今の冬志さんのこと、全然知らないんだ。

 昔はあんなによく知ってた。俺にとって、たった一人の友達だった。

 でも、今は……。


 心臓がちくんとした。





 やがて冬志さんは店員さんに声をかけ、俺と宮くんが首を縮めて隠れてる間に支払いをすませると、二人は立ち去っていった。


 俺たちは、ほっと息をついて椅子に座り直した。

 紅茶はもう完全に冷え切っていた。


「……薫さん?」


 心配そうな声がした。

 宮くんが、気がかりそうに眉を寄せて俺をのぞきこんでいた。


「大丈夫?」

「……え……」

「ため息ついたから」


 気がつかなかった。

 俺は急いで微笑み返した。


「大丈夫だよ、ありがとう」

「……薫さん……」


 宮くんは何だか悲しそうにして、それから表情を改めた。


「……ごめんなさい、薫さん。本当に僕よけいなことしちゃったね」

「そんなことないよ、宮くん、僕のこと心配してくれたんだよね」


 急いで首を横に振って、笑みを浮かべたけど、宮くんはしょぼんと肩を落としてしまった。


「……それもあるけど」


 宮くんは、悲しそうに長いまつげを伏せた。


「……怒ってるのが先だったかも知れない。僕、頭に来ちゃったんだ。図書館で薫さんが悲しい顔してたから。

 あんなに寂しそうな顔させるなんて許せないって思って、勢いで話しちゃったけど……。今は、こんなことするんじゃなかったって思ってる……」

「宮くん……」

「僕、薫さんのこと大好きだから……。そんな顔してほしくないよ。……大人の男だったら、大好きな人にこんな顔させたりしないよね。……僕がバカだった」


 ――ふと、ひやっとした。


 大好きっていうのは、「花婿候補」の意味だろうか。いやいや、と首を横に振る。


 宮くんのフラグは、四月で折れてるはずだ。

 人類愛ってことだよね。純粋な好意も疑っちゃうの、よくないぞ。

 うん、そうだ。


 言い聞かせて、俺は精一杯ほほえんだ。


「ありがとう、宮くん。本当に大丈夫だよ」

「ごめんね。落ち込まないで。悪いのはあいつだよ。僕、許せないよ。なんなら僕が問い詰めたっていいよ」


 宮くんは一生懸命だ。


(いい子だなあ……)


 でも問い詰めたってしょうがないんだ。

 多分、もともと設楽雅子さんが冬志さんの本当の恋人なんだ。

 俺とは互いの損得のために手を組んでるだけだ。

 いま俺にできるのは、黙っておくことしかないんじゃないだろうか。


 宮くんをなだめるために、俺はほほえんだ。


「冬志さんは悪くないんだよ。かばってるわけじゃなくて、本当にそうなんだ」

「薫さんはお人好しすぎるんだよ。だめだよ、ちゃんと悪いことは悪いって言わなきゃ」

「ええと……」

「……そんなにあいつを好きなの……?」


 俺は思わず苦笑した。――好きだから婚約したってわけじゃないんだ。


 ……でも。

 ふと思った。――そうなのかもしれない。

 俺はずっと冬志さんのこと好きだったのかもしれない。

 恋とかじゃないけど。

 だから、頼っちゃったのかもしれない。


 俺を見つめていた宮くんは、淋しそうな顔をした。それから急にばさばさと勉強道具をバッグに詰めだして、すねたように言った。


「……帰ろう、薫さん」


 宮くんは俺のぶんも払うって言い張ったけど、まさか後輩にお金を出させるわけに行かない。

 宮くんは俺にとって、弟みたいなものなんだから。

 むしろ俺が払うつもりだったけど、結局折り合いがつかなくて、それぞれ自分のぶんを払って店を出た。


「薫さん、真っ青だよ。大丈夫?」

「え?」


 そう言えば、指先がなんだか冷たい。

 座って、とうながされて、俺は池の畔のベンチに腰を下ろした。

 宮くんも隣に腰を下ろす。もう叱られた子犬みたいな顔をしていた。


「ごめんなさい、僕が連れてきたから……」


 肩に手を感じて、顔を上げる。

 な、なんだ?

 視界いっぱいに、宮くんの泣きそうな顔。


「薫さん……僕ならそんな顔させないよ。僕……弟なんかじゃない」


 風が吹いて、宮くんの明るい茶色の髪が揺れる。水面のさざ波がきらきら輝いた。


「僕は薫さんのことずっと……!」


 宮くんの顔がさらに近づいてくる。

 えっ!?

 なにこれなにこれなにこれ!?

 頭の中に選択肢が見えた。


 ▽眼を閉じる

 ▽ひっぱたく


 フラグ……折れてない……!


 俺は絶望的になった。

 いや、そんな場合じゃない。なんとか逃げなきゃ。


 選択肢なんて出されたって、こんな急に選べないよ! 

 目を閉じるわけにはいかないけど、ひっぱたくのもかわいそうだし……!


 俺は必死で宮くんのひたいとほっぺたに手を当てて、宮くんを押しのけようとした。

 むぎゅうっと宮くんの顔が歪む。


「痛い……薫さん……」

「だ……だって」


 手を離すと、宮くんは溜息をついて、肩を落とした。


「そんなにあいつを好きなの……?」

「え」


 そんなことじゃ――ない。

 んだよな。

 だって俺は男で、冬志さんも男の人だから、俺が冬志さんを好きになるはずがないんだ。

 まさかそうとも言えずうつむくと、


「……絶対に、僕のほうが薫さんを好きなのに」

「み……宮くん……」

「薫さん。薫さんから弟としか見られてないのは知ってたよ。断られるのも覚悟してる。でも、薫さんの口からちゃんと聞きたいんだ。薫さん、僕は、僕はね」


 宮くんは真剣だった。


「僕は、あなたを、好きです」





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