3-12 告白
「……る……!」
遠くでかすかに声がした、気がした。
俺は目線をずらした。
……いや、廊下の奥は暗いばっかりだ。人の気配はない。
さっきから、狩野さんがいつ帰ってくるか聞き耳立ててるせいだろうか。
それより問題は、すがるように見つめてくる四方田くんだ。
返事をしなくちゃ……。
でも、何て言えば……!?
(狩野さん、早く……帰って来て……!)
頭の中で叫んだとき、ふと嫌な予感がした。
狩野さん……ほんとに戻ってくるのかな……?
考えてみたら、俺は狩野さんのアイス休憩中に呼び出してしまったんだ。
消えたのは、まずアイスを食べてしまおうということだったのかもしれない。
アイスって、溶けちゃうし。その前にっていうことだったとしたら。
いや、それならまだマシかもしれない。
狩野さん、アイス休憩を邪魔されて、めちゃめちゃにやる気がなかった。
戻ってくる気がなかったら……?
(うわあああああ!)
俺は俺なりに頑張って自分の気持ちを言ったんだけど。
まさか食い下がられるとは思わなかった。
俺の見込みが甘かったんだろうか。
真剣な四方田くんの顔。
できない。
フラグを折るには、四方田くんの心を折らなきゃいけないんだ。
でも、俺にはこれ以上、四方田くんを傷つけるようなことは言えないよ……。
俺の心が先にポッキリ折れそうなのを、俺は感じていた。
崖っぷちだ。
(もし四方田くんが……仮婿ってことで……納得してくれるなら……仮婿に……なってもらってもいいかもしれない……)
ふらふらと、決意が傾いていくのがわかる。
俺は四方田くんの目を見られなくてうつむいた。
「……四方田くん……あの……もし……もしもなんだけど……」
弱々しい声は、雨にかき消されそうになる――そのときだった。
俺は口をつぐみ、耳をそばだてた。
今……?
顔を上げる。
「冬志さん……?」
「え?」
四方田くんの向こうに、なにかが動いた気がした。
あっちは昇降口だ。
「今、誰か……」
「春花?」
俺は昇降口に向かって小走りに駆けだした。
灰色の薄い光が差し込む昇降口は無人で、しめった雨の匂いが立ちこめている。ガラスのはまった観音開き戸は、施錠されてぴったり閉じている。
ガラス越し、広いポーチで傘を閉じている、背の高い人影が見えた。
冬志さんだ。
冬志さんは首だけ振り返って俺に気が付くと、こちらに向き直った。
どうしてか少し驚いてるように見えた。
近づいてきてドアに手をかけ、揺さぶる。
そうだ、鍵、しまってるんだ。
俺は駆けよって、ガチンと鍵を回した。すぐにドアが開いて、しめった風と一緒に急ぎ足で冬志さんが入って来た。
冬志さんは少し唖然としたように俺を眺めて、
「……本当だったか……」
「え……?」
不思議だ。
冬志さんの顔を見たらホッとした。
心臓も気持ちも、すうっと落ち着いていく。
――でも……。
「……あの、どうされたんですか?」
俺はキツネにつままれたような気持ちで聞いた。
冬志さんはグレイの私服のシャツだ。
足下は雨でぐっしょり濡れている。
一度家に帰ってから、わざわざこの特別教室棟に来たことになる。この雨の中を。
冬志さんは曖昧な顔をした。
「……あとで説明する。ともかく帰ろう。これから暴風雨になるぞ」
「はい。……あ、でも……」
冬志さんは俺を誘導するように身を引きかけて、とまった。四方田くんの足音が駆けよって来たんだ。ガラス戸からの光の中に足を止めた四方田くんは、ぽかんとしたように俺たちを見ていた。
四方田くんの耳が、さっと赤く染まるのが見えた。
俺が冬志さんを呼んだってわけでもないけれど、とっさに言葉が喉の奥につまった。
だって、冬志さんの顔を見て、ホッとしてしまった。
それってすごく、四方田くんに失礼だ。
俺の顔には、罪悪感が浮かんでしまったかもしれない。
気まずい沈黙が落ちた。
冬志さんは四方田くんを鋭く一瞥した。
事務的な調子で、テキパキと、
「君が、薫とレポートを書いていた同級生か」
「……はい」
「世話になった」
四方田くんの横顔に、一瞬、反抗的な色が動いた気がして、俺はあわてて声を立てた。
「と、と、と、冬志さん、四方田くんです! 四方田くん、二年の厳原冬志さん」
「……こんばんは」
「……家の車を出してもらってる。ふたりとも送っていこう。このあとはどんどん降りがひどくなる」
「ありがとうございます」
おもわず頭を下げた横で、四方田くんは急にきっぱりと、
「けっこうです」
「えっ?」
「一人で帰るよ。自宅までは歩いてすぐだから、大丈夫」
「そんな……この天気じゃびしょびしょになるよ。車のほうが……」
俺のせいで怒ってるのかな……。
そうだよね、話もまだ途中なのに、急に四方田くんを置いて飛び出してきたりして。
おろおろなだめようとすると、冬志さんも、
「……近いなら、車で回ってきみを置いていくくらい、すぐだ。遠慮は要らない」
「遠慮じゃありません」
四方田くんはぺこりと会釈をし、冬志さんの横をすり抜けて、小走りにエントランスに出た。
「四方田くん……」
申し訳ない。
どうしよう。俺が歩いて帰ればいいのかな? そしたら、四方田くんは車に乗ってくれる……?
そんなことを考えて、俺も四方田くんを追った。
「四方田くん、待って。車、乗った方が絶対いいよ」
「……春花。……俺さ」
振り返って言いかけて、四方田くんはちょっと言葉を切った。そして、仕方なさそうに笑った。泣いてるみたいに。
「……なんか、わかっちゃったな」
「え……」
「俺、春花のあんな安心した顔、見たことない。……その時点で、あんなこと言い出すレベルじゃなかった」
「……四方田くん……」
「ごめん。春花の気持ち、よくわかったよ。……一人にさせてくれ」
鼻の奥がつんとした。
言葉を思いつかなくて、俺はしおしおと下がった。
俺なんか……俺なんか、四方田くんにこんな顔させていいやつじゃ、ないのに……。
四方田くんは俺に背を向けた。
「春花」
「うん……」
俺は半分泣いていた。
「……春花を安心させられる男になるから、俺。見てて」
――……え?
顔を上げると、もう四方田くんの背中は雨の中に飛び出して、走り去っていくところだった。
雨は白いもやのように四方田くんの姿を隠していく。
その向こうから、雨音にかき消されない、大きな声がした。
「また来週な、春花!」
俺は、呆然と見送っていた。
今の……どういう……?
「……なんの話だ?」
気付くと、横に立っていた冬志さんがつぶやいた。
「……ええと……」
冬志さんに話すのは、四方田くんに悪いかな……。
「ちょっとしたことです」
「なんだそれは」
「ちょっとしたことで……」
……どうしようかなあ。
もう冬志さんに隠し事はしたくないんだけど……。
ポーチの屋根の下から出ると、雨が横ざまにぶつかってきた。風も普通の風じゃなく、渦巻くように駆け抜けていく。
でも、秋や冬の嵐とちがって、身体を冷たくする雨じゃない。風に熱帯のにおいがした。熱がこもっていて、人の身体を疼かせる。そんな。
もうすぐ季節が変るんだ。
夏が近づいてきてる。
「何やってる。坂の下の車止めで待たせているから、それまで同じ傘で我慢しろ」
冬志さんは傘を開いて、俺たちの上に開いた。
「すみません……」
俺は小さくなった。
濡れた身体で冬志さんに触ってしまったら申し訳ない。
前髪から水がぽたぽた垂れてきて、頬を伝い、くちびるの先からしたたり落ちようとする。
指先で何気なく拭ったとき、冬志さんに見られてる気がした。
目を上げると、冬志さんは目をそらし、咳払いをした。
しばらく無言で歩いた。
足もとはばちゃばちゃ濡れる。これはあきらめよう。修陵院の敷地は車両禁止だから、丘のふもとの車止めまでは歩いて行かないといけないんだ。
雨の中を歩きながら気がついた。
冬志さんの肩――俺と反対側、濡れてる。
俺は全身傘の保護下だ。
(かばってくれてる……?)
浮かんだのは、いつかの図書館でのことだった。
いつだって俺を守ってくれてる。
冷たい顔をして。
でも必ず俺が困ると一緒にいてくれる。
胸がきゅっとして、ぽかぽかした。
それは、でもすぐにひゅっと冷たくなった。
俺の知らない誰かのためなんだ……。
(……どうしてこんなに淋しいんだろう)
こんなの、なんて自分勝手な感情なんだろう。
俺、どうしちゃったんだろう。
ふと冬志さんは、俺の顔を見つめて眉をしかめた。
「……なんだ、落ち込んでるのか」
「……すみません」
俺はうつむいて、寂しさをそっと胸の中に折りたたんだ。
「俺は大丈夫なので、傘……あの、冬志さんのほうに寄せてください……」
「……いいから、黙って入っておけ」
「ですが……こんな雨の中、わざわざ来ていただいて申し訳ないですし……」
ぼそりと冬志さんが言った。
「……妙なことがあった」
「妙なこと?」
「部屋にいたら、急にだれかの声が聞こえた気がした。子どもの声だ。驚いて探してみたが、俺のほかには誰もいなかった」
「え」
俺は目を丸くして冬志さんを見つめた。頭の中に狩野さんの顔が浮かぶ。まさか……。
冬志さんは半信半疑の表情で、
「声は言った。薫が、特別教室棟で困っている、と。……わけがわからなかったが……ただごとじゃない気がした」
「それで……」
「……なんだったんだ……来てみれば実際に薫は特別教室棟にいるし」
冬志さんは眉をひそめて黙った。
狩野さん……!
助けてくれるって、こういうことだったんだ……!
ちょっと雑というか……すごく不審がられてるけど……。
冬志さんでなければ、スルーされてたかもしれないけど……。
「それで来て下さったですか? この雨の中……」
「……いや、これは……なんだ、その……手を組んだからな」
うん。きっとそうなんだろう。
それでも、俺は感動していた。
胸にあたたかいものが湧き起こって、手足の先まで流れて行くみたいだった。
冬志さん、そんな曖昧な出来事で、様子を見にきてくれたんだ。こんな雨の中、びしょ濡れになって。
心配してくれた。
なんでだろう。泣きたい。
さっきとは違う涙だった。
冬志さん。
やっぱり、話そう。
話せる範囲だけど。
俺は考えをまとめながら、しばらくびしゃびしゃの地面を見つめて歩いた。
「……冬志さん」
「なんだ」
「……詳しく話すと、迷惑をかける人がいるので、迷ってたんですけど……」
冬志さんがこちらに顔を向けたのがわかった。
狩野さんと約束したから、前世やゲームのことは話せない。
それでなくとも荒唐無稽と思われそうなのに、詳細を話せないとなると、ますます信用してもらえなくなりそうだけど。でも、やれるだけやってみたい。
俺のなかには、さっきの四方田くんの言葉も残っていたと思う。
お父さんと向かい合いたい、って四方田くんは言った。
かっこよかった。
四方田くんの告白には応えられない。
でも、打ち明けてくれた、信頼してくれた気持ちには応えたいんだ。
「……信じられないと思います。すごくおかしなことを言っていると、思われそうなんですけど。……ですから、これからの話は、聞き流して下さってかまいません」
「……話してみろ」
俺は、ひとつ傘の下で冬志さんを見つめた。
できるだけ、俺が真剣なことが伝わるように。
「仮婿の発表が、七月の俺の誕生日だってことはお話ししましたよね。二ヶ月ほど先です」
「ああ……?」
「……事情はご説明できませんが、俺、……それまでの間に、複数の男性から、……求愛されることに、なってるんです」
言いながら、自分でも突拍子もなさ過ぎて、顔が赤くなるのが分った。
冬志さん、きっと奇異なものを見る目をするんじゃないだろうか。
――でも、ちがった。
冬志さんは、恐ろしく真剣な表情になった。




