3-3 蝶はまだ飛ぶ
「……かおちゃん」
急に瑞希兄さんから笑顔を向けられて、俺はぎくんとした。
「は、はい!?」
視界の右隅。
冬志さんの動きがぴたっと止まる。
もうお弁当は食べ終わっていて、脚を高い位置で組んで落着かない感じで揺すってみたり、眉をひそめてそっぽを向いたりしていたんだけど。
左隣には、瑞希兄さん。こちらはまだ食事中。
優しい顔にいつもの笑みを浮かべてるけど……、なんか、こわい。
あれ以来――瑞希兄さんの本当の性格が分って以来、もう昔のような無垢な気持では、瑞希兄さんの笑顔を見られなくなってしまった……。
ランチタイムのサンルームだ。
ガーデンパーティ後、瑞希兄さんもサンルームのランチに加わるようになった。
「僕もいいかい?」
そう笑顔で言われたとき、間髪入れず断わるべきだったんだろうけど、思わずうなずいてしまった。
ガーデンパーティの件で気が引けてたせいもあるけど、あくまで普通のつきあいを保ちたい。
瑞希兄さんはやっぱりお兄さんだから。
俺と冬志さんが婚約を解消しそうにない、とわかれば、いずれあきらめてくれるだろうし……。
「今日、一緒に帰らないかい? かおちゃんちにうかがいたいんだけど……おじさんの蔵書を読みかけなんだ」
「今日ですか……?」
俺は瑞希兄さんを見上げ、それからちらりと冬志さんを見た。
冬志さんは露骨に眉をしかめている。
帰り道はいつも冬志さんと二人だ。表情だけで、何を考えているかわかる。
「ええと……三人でってことですか……?」
「三人でってことは……厳原くんも?」
瑞希兄さんは驚いた顔をしてみせた。
「厳原くんが来る必要ないと思うよ。厳原くん、今日は僕がかおちゃんを送るよ。いつもありがとう。これからは毎日僕が送ってもかまわないけれど」
にっこりする瑞希兄さん。冬志さんは無表情に、でも切って捨てるみたいにして、
「……お気遣いは結構です。これは俺の義務ですから」
「義務、なんだ? 君にとっては? 僕にとっては楽しみだから、そんなに嫌なら無理しないでほしいな」
冬志さんの凍るような冷たいまなざし。
こんなときでも崩れることがない、瑞希兄さんの温かい微笑み。
はったと対峙した。
こ……この緊張はいったい……?
普通なら口を挟めなかったかもしれない。
でも! 今日は言い訳があるんだ!
俺は箸を置いて、ぎゅっと膝の上でこぶしを握り合わせると、全力を振り絞って口を開いた。
「す、すみません! 待ってください! なかなか切り出せなかったんですけど、今日は約束があるんです!」
「約束?」
ぴたっと二人の視線が俺に向けられた。思わずびくっとしながら、俺はかいつまんで、国語のレポートの話をした。
「それで、クラスメートと、放課後の約束をしてるんです……」
冬志さんの眉間のしわはさらに増えたけど、瑞希兄さんは素早く、
「そう……それじゃしょうがないね。残念。また時間があるときにでも」
「あ、いえ、父も、本の話ができて喜ぶと思いますので、俺には構わずいらしていただいて……」
ホッとして相槌を打つと、
「ありがとう、嬉しいな。僕も、かおちゃんのおうちは本当に自宅に帰ったみたいで、うかがうのが楽しみなんだ」
そっかぁ……瑞希兄さんはおうちを離れて寮生活だから、家庭的な空気にいやされるのかもしれないなあ……。
俺はついしみじみした。
「あ……あの……母も、瑞希兄さんがいらっしゃるときははりきってお夕飯を用意してますから……ご遠慮なくいらしてください」
「本当かい? おばさんの食事いつもおいしいよ。登与さんも、僕の好物の浅漬けをいつも用意してくれて……あれ大好きなんだ」
「母も登与さんも喜びます。伝えておきますね」
瑞希兄さんは笑顔を冬志さんにも向けた。
「厳原くんはどうなんだい」
「……なにがでしょう」
冬志さんの返答は永久氷壁だった。
瑞希兄さんはめげずに温かく、
「かおちゃんのお宅に遊びに伺ったりするのかい?」
「……いいえ」
「そうか。僕はよくお邪魔してるんだ。家族みたいに思ってるよ」
「……」
「おばさんから、かおちゃんのお婿さんになんて言われたりもしてね」
瑞希兄さんは爽やかに笑った。
「み、瑞希兄さん、その話は……」
「ああ、ごめん」
爽やかに笑う瑞希兄さんに向けられた冬志さんの目が怖い。
(冬志さん、どうしてこんなに不機嫌なんだろ……? 瑞希兄さんとそりが合わないのかな……)
胃がキリキリしそうになってきた。
いや。もしかして。
冬志さんも明日のことが気がかりなのかな。
(考えてもしょうがないし……早く食べ終って、教室に帰ろ……)
俺は急いで里芋の煮っ転がしをもぐもぐした。
長いゆるやかな坂を下ってたどり着いた晴屋さんは、噂通り学生で混みあっていた。
晴屋さんは、甘味屋だ。
修陵院の裏門を出ると、ゆったりした疎水端の道だ。
道の中央に緑地帯が延びて、そこを澄んだ水が流れている。膝くらいまでの流れの底には細かな砂利が揺らめいて、のびやかな水草の茎には星のような白い花がそよいでいる。
この疎水端の道には、何軒かの雑貨屋さんや文房具屋さん、仕立屋さんなんかが立ち並んでいる。
小さな通りの外れに、しだれ柳の枝の下に腰かけるように、黒ずんだ壁の古いこぢんまりした家があって、「晴屋」ののれんがかかっていた。
クラスメートと帰りにお店に寄るなんて、初めてだ。
どきどきしながらのれんをくぐると、十席ほどテーブル席が並んだのんびりした雰囲気の店だった。席はほとんど修陵院の制服と笑い声で埋まっている。
幸い一席空いていて、俺たちはすぐにお汁粉にありつくことができた。
「おいしい」
「な、だろ!?」
顔を見合わせる四方田くんと俺。
「話をするにしても、何か食わねーと腹減ってやってらんねー!」
……という四方田くんの主張だった。
なんだか、普通の友達って感じのことしてる。
今まで友達が一人もいなかった俺が。
四方田くんのおかげだ。こんな俺にもかまってくれて、四方田くんは神様なんじゃないだろうか。
(……今日は、別のことを考えたかったし……)
俺は心から感謝した。
レポートというのは、口実だ。
あとは、それぞれの担当部分を家で書き上げるだけでいい。
だけど、四方田くんが「内密に」という希望だったから、レポートにかこつけることにしたんだ。
それに人気があるだけあって、お汁粉も、おいしい。
甘いんだけど、砂糖のどぎつい甘さじゃなくて、小豆のほろっとした甘さをひきたてるような、そんな味だ。
俺は店を見回しながら、ふと思った。
それにしても、こういう店って、ゲームなんかにはつきものだけど、〈はなこい〉にもあったのかな。
――ん?
引っかかった。俺は新しい頼りない記憶をじっとたどってみた。
甘味処――〈はなこい〉にもあったような……?
もしかして、そうだとすると……。
(……イベントの舞台……!?)
ざーっと血の気が引いていく。
お汁粉から味がなくなった。俺は匙をとめた。
もし晴屋さんで何かのイベントがあるんなら……。
今――では……?
(そしたら……相手は、四方田くん……ってことになるけど)
俺はこっそり向かいをうかがった。
四方田くんは勢いよく汁粉の白玉を口に運んでいる。
この人は、〈花婿候補〉なんだろうか……?
(いや、でも……もしそうなら、スチル絵が出てくるはずだから、出てこないってことは四方田くんじゃないはず……!)
自分に言い聞かせる。四方田くんは俺の視線に気付くと、きょとんとして、
「どした、春花? 口に合わなかった?」
「う、ううん!」
急いで笑みを顔に貼り付けた。
きっと四方田くんじゃない。四方田くんじゃない。大事なことなので二回言った。
そうだよ。スチルが出てこないし。
それに、嫌だ。
せっかく友達になれそうなのに、花婿候補だったら、四方田くんとぎくしゃくしてしまう。そんなの悲しいよ。
俺の無言を、四方田くんは違う意味にとったらしい。
「いや、そうだよな。俺から誘ったのに、本題にも入らないで……。悪い悪い。よし……先に話すよ」
四方田くんは、気合いを入れるように大きく息をついた。
俺も首を横に振って、背筋を伸ばし、四方田くんを見つめた。
気分を変えよう。
なにもかも全部ゲームのシナリオなんて、そんなわけがないよ。もしそうでも、俺は冬志さんと婚約しているんだから。
瑞希兄さんはちょっと特殊なタイプだ。内幕を知ってるから引かないだけ。
他に〈花婿候補〉がいても、婚約者がいるとわかれば、あきらめてくれるはずだよ。
(うん、きっとそう……)
俺はひそかにうなずいた。
その間、四方田くんは周囲のテーブルを見回していた。
「まず、誰にも見られてないのを確認してからでないとさ……」
「どうしたの? 秘密っぽいね」
「っぽいんじゃなくて、秘密なんだ」
「え?」
「春花なら大丈夫だと思って」
四方田くんは、バッグを膝に載せた。
ごそごそ取り出したのは、図書館の庭で落としてしまった文庫本だった。
これが、どうしたんだろ……?
「……じゃじゃーん」
四方田くんは口で効果音を奏でながら、その本を持ち上げて、人好きのする顔に並べてみせた。
声がぐっと低くなる。
「……これさ。朝、春花に見られた本だけどさ」
「あ、う、うん?」
「なんと、この作者……」
かわいい表紙にならんだ四方田くんの顔が、照れくさそうにくしゃっと崩れた。
「……俺なんだ」




