第二十二景「冷たい部屋」
第四幕「真夏の一月」
朝から沢山の社員の熱気を、空調の風が冷やそうとしていた。
広いオフィスルーム内に、大きな窓から陽の光が入ってくる。
零は、部屋の隅の一回り大きなデスクの前に立っていた。
目の前には革張りの椅子に座った上司。
いつもの涼しい微笑を、零は浮かべていた。
「神城くん。昨日の案件だけど、仕様変更ならリスケした方がいいんじゃないの?」
机にポンと書類を置かれる。
「…部長のご懸念はもっともですが、そこを外すと九月には間に合いません」
零は表情を崩さず続ける。
「僕の方で調整は続けます。ご安心を」
「ふむ…。で、MER:AIさんの方は?」
「はい、こちらは現在予定通りに結合テストに入っています」
「そうか、ま、君なら問題なくやってくれるだろう。引き続き任せたよ」
「ありがとうございます」
そう言って、零は一度頭を下げて自席に戻る。
プロジェクトのメンバーが慌ただしく動いている。
直ぐに零の側に若い男性社員がやってくる。
「リーダー、すみません。この間のクレームの件で先方が……」
頭を下げて申し訳なさそうに言葉を濁す。
「ああ、大丈夫。そこは僕が話をつけておくから」
零は言いながら若い社員の背中を軽く支える。
「あ、ありがとうございます!」
「無理はしないでくれ。フォローはするから」
「はい!」
-☂️-
応接室の向かいのソファに、40代ぐらいの女性が表情をこわばらせて座っている。
「今回は、大した障害にならなくて済みましたけど……」
女性はその目に苛立ちを隠そうともしない。
「AIONさんにしては珍しいミスじゃなくて?」
零は深々と頭を下げる。
「申し訳ございません。ご指摘痛み入ります」
顔を上げる。
「今、弊社でも全力で対応しております」
零は表情を一変させた。
女性の目をまっすぐに見るように、笑った。
「柳様のご負担を少しでも下げられるよう、努めさせていただきますので」
目の前の女性は目を丸くした。
「そ、そう言っていただけるのであれば、もう少しお待ちしますわ」
「寛容なお言葉、感謝いたします」
零はもう一度頭を下げた。
-☂️-
少し息を吐いてから、零はエレベーターに乗った。
壁際の鏡面に、自分の立ち姿が映る。
金茶の髪、グレーの瞳、他人からは羨望の眼差しを向けられる容姿。
けれど、零は目を背けた。
母の姿をそこに重ねたから。
エレベーターのドアが開く。鏡面には零の背中が映り、遠ざかっていく。
-☂️-
巨大なオフィスビルを出て、零は一人夜道を歩く。
生ぬるい風が通り過ぎ、夏の不快感が浮き立つ。
向かいから、数人の男性が歩いてくる。
様子から、少し酔っているようだ。
「マジで俺は言ってやりたいね!自分のやりたいようにやれって」
管を巻くように他の男に向かって言う。
「後悔だけはすんなよって、思うのよ!」
すれ違った。
背中越しに、男たちの笑い声が聞こえる。
立ち止まって、空を見上げる。
月の輪郭がぼんやりと滲んで光っている。
目を細めて、一人呟いた。
「……そんな風に生きられたら、楽なんだろうな」
-☂️-
マンションの自室の玄関を開ける。
中は、もちろん暗い。
零は部屋に入ると、まっすぐにキッチンに向かった。
グラスを一つと、冷蔵庫からボトルを一本取り出す。
グラスに氷を落とす。冷たく乾いた音が静かな部屋の中に響く。
琥珀色の酒を注ぎ、零はその表面に視線を落とした。
座りもしないで、その場で一口流し込む。
グラスを置くと、カランと、また乾いた音が鳴る。
ポケットに手を入れると、零の手に固いものが触れる。
取り出すと、それは部屋の合鍵だった。
零はその合鍵を見つめ、握ってから、もう一度ポケットにしまった。
グラスを持ってリビングのソファに座る。
ソファから見える窓の外の夜景を、しばらく見ていた。
遠い都会の光が零の瞳に映る。
ふと、ソファの空いたスペースを見る。
昔、一度だけ零したことがあった。
—時々、息苦しくなるよ。仕事も家のことも、ただ、離れたくなる—
—……大したアドバイスなんて私には出来っこないけど—
彼女は隣に座って言った。
—私は…いつも側にいるよ—
零のグレーの瞳が一瞬揺れた。
口を開きかけた瞬間、スマホの着信が鳴った。
画面の表示を見て、零は立ち上がった。
リビングの窓際に立ち、街並みを見下ろしながら電話に応じた。
「……お元気そうで何よりです。なかなか、家に帰れずにすみません」
「はい…心配は無用です。仕事の方は順調です」
「ええ。……はい、期待に応えられるよう、これからも努めます」
ピっと通話を切る音が小さく鳴る。
零はテーブルに置いたグラスを取って、琥珀色を一気に飲み下す。
グラスを置いてそのままその場を離れる。
ソファを通り過ぎて、真っ直ぐに。
グラスの中の氷が、溶けて水になっていく。




