第十九景「忘れて下さい」
第十九景「忘れて下さい」
早朝の朝日が部屋を照らしていた。
姿見の前に立つ、未来の姿が映る。
自室で、未来は服を着替え、長い黒髪をブラシで整えていた。
ブラシが襟元の辺りを通る時、首筋で手が止まった。
未来の白い首元に、小さな紅い痕、そこに加わった歯の痕が見える。
未来は、その歯形を指でなぞるように確かめた。
小さく息が漏れる。
黒い瞳が、自分を見てた。
熱く、湿度のあるそれで見下ろしてた。
なのに、どこか寂しそうだった。
歯形で覆われた、紅い痕は、なおも消えない。
未来はそっとその痕を手で隠した。
-☂️-
PCのキーを打つ手が止まる。
駄目だ。集中出来ない。
悠吾はため息をついた。
気分直しにマグカップを手に取り、一口すする。
昨日の夜の事が、どうしたって頭をもたげる。
彼女の肢体と、高揚した熱、そして湿った肌の質感。
どれもまだ生々しく残っている。
もう一度マグの中身をすする。
彼女を抱いたという充足感。
そして、どこかで同時に感じていた空虚感。
悠吾は顔を上げて窓の外に視線をやり、少し遠くを見ていた。
空は、悠吾の気持ちとは裏腹に、やけに晴れていた。
「……雨宮さん」
後ろから、声が聞こえた。
胸が跳ねた。昨夜の声をつい思い出したから。
「——大空さん!?」
いつもより、少し声が大きく出てしまう。
明らかに動揺してる自分が恥ずかしかった。
「あ、あの、…すみません」
「あ、いや……」
「……」
「……」
二人とも俯いて、言葉を濁した。
先に口を開いたのは未来だった。
「あの、仕事終わりにお時間いただけますか?」
「わ、わかった」
悠吾の声が、少しだけ上擦った。
でも、その未来の表情を見た時、少し胸騒ぎがした。
-☂️-
夜の空高くに、小さな月が昇っている。
オフィス街の路面が淡く月光に照らされ、白く輝いていた。
会社の近くの外のベンチに、二人で並んで座った。
「大空さんは、温かいお茶で良かった?」
そう言って、悠吾は自販機で買った小さなペットボトルを未来に手渡した。
「……ありがとうございます」
受け取ると、未来は両手で指を温めるように持っていた。
月光に照らされた未来の横顔は、白く儚げで、悠吾は吸い込まれるように見ていた。
そんな自分に気づいて、我に返る。
「それで、その…話って……」
言いながら、悠吾は自分の分の缶コーヒーの蓋を開けた。
未来の顔をもう一度ちらりと覗いた。
「……」
ほんの少し間が開いた。
「ごめんなさい。私…雨宮さんに、酷いことしました」
未来の言葉が、静かに胸を突いた。
「……どうして?」
缶を持つ指が動いた。
「私、雨宮さんのこと、良いように利用してしまった」
そう言う未来の顔は、今にも泣きそうな表情だった。
「私の中では、終わってるつもりだったんです」
未来の視線が、彼女の手の中のボトルに落ちる。
「だから、雨宮さんに、告白しました」
そのボトルを掴む指にきゅっと力が入る。
「なのに、私、本当に酷くて……」
未来の声がわずかに震えている。
「過去を忘れたくて…あんな形を取ってしまった」
悠吾の缶を持つ手にも力が入った。
「私、雨宮さんのこと、好きになる資格ありません」
想像もしていなかった。そんな台詞。
「だから、昨日のことも、私の言ったことも、全て忘れて下さい」
そう言うと未来は立ち上がった。
「本当に、ごめんなさい……」
月の明かりが、彼女の頬を伝う一筋の涙を照らした。
そして、それ以上何も言わず、悠吾のもとから去っていった。
缶を持ったまま、悠吾は項垂れた。
その缶の中身は、既に冷たくなっていた。
-☂️-
未来がいなくなっても、しばらく悠吾はそこにいた。
「……なんだよ、それ」
独り呟いた。やりきれなさでいっぱいだった。
勝手に飛び込んできて、勝手に出てく?
そんな仕打ち、あるか?
悠吾は、さっきまで未来を映していた空の月を、悔しそうに見上げていた。
冬瀬澪です。
第三幕「熱に滲む夏」終了いたしました。
第三幕は色々私にとっては挑戦的な幕でした。
レイニートウキョウのビターな夏を感じてとっていただけたのなら幸いです。
次回、第四幕「真夏の一月」
季節は盛夏の東京へと移っていきます。
どのような展開が待っているか、是非次回も読んでいただけると嬉しいです。




