第十五景「誘う合鍵」
第三幕「熱に滲む夏」
第十五景「誘う合鍵」
給湯室で沸かしたお湯で、未来は自前のハーブティーを入れていた。
壁の隅に飾られたカレンダーが目に入る。
7月7日。七夕の日。
年に一度、恋人同士がめぐり逢う日。
普通だったら、素敵な願い事でもして過ごす一日なのだろう。
未来は、そっと襟元に手をやる。
目を瞑って唇を噛んだ。
嫌でも思い出された、先ほどの資料室での出来事。
羞恥と、抗いきれない甘美と、過去の痛み。
未来は両手で頬を挟んで、軽くぴしゃりと打つ。
「……集中」
-☂️-
デスクに戻ると、隣の席には悠吾がいた。
目が合った。
未来の身体に緊張が戻ってくる。
「大空さん、今日のAIONとの打ち合わせの議事録、もう出来た?」
「あ、いえ、まだ。あともう少しお時間下さい」
「わかった。まだ、大丈夫だから」
自席に座る瞬間、悠吾の視線が自分の襟元を向いているような気がした。
「あっ…」
思わず、片手で襟元を押さえる。
「…どうかした?」
「いえ、何でもないです」
未来は誤魔化すように手を振った。
-☂️-
未来は未だ慣れない手つきでPCを操作する。
退社時間も迫っている。
そういえば、今日AION側から受け取るはずの資料が一部見当たらない。
デスクに積んだ書類やクリアファイルを一つ一つ確認してみる。
どうしよう、と未来は焦りを募らせる。
このままでは仕事にならない。
未来はちらりと隣の悠吾を見る。
声を掛けたくても、喉の奥に引っかかって出なかった。
その時、机の上のスマホが振動した。
手にとって画面を見ると、メッセージが来ていた。
〈君に渡したいものがある〉
-☂️-
未来は、静謐なマンションの自動ドアの前に立っていた。
冷たい風がマンションの間を抜けていく。
空を見上げると少し雲行きが怪しい。
一度深呼吸をしてから、入口の側のインターホンを鳴らす。
『どうぞ』
たった一言が返ってきた。
傘を持つ手に力が入る。
コンクリートのホールに、大理石の床と絨毯敷。
洗練された共用部に、間接照明と観葉植物が並ぶ。
未来は、マンションの一角の扉の前に立つ。
ほんの数年前に、何度も見た扉。
もう、来ることはないと思っていたのに。
でも、行かなきゃいけない。
唇をきゅっと結んで、レバーハンドルをひねった。
-☂️-
小綺麗に片付いたリビングのソファに、零は座っていた。
未来が入ってきたのを見て、零は笑った。
—おかえり、未来—
胸が一瞬熱くなった。
あの頃の、優しかったグレーの瞳と重なった。
零の部屋に残るコロンの香りが鼻をくすぐる。
未来の全身が反応してしまう。
「悪いね、来てもらって」
そう言って、零は未来に書類を差し出す。
未来の肩が震えた。
用事を思い出して、それを奪うように受け取った。
「……零さん、わざと、ですよね」
零の冷たい瞳が、未来を捉える。
「こうでもしないと、君は来てくれないだろう?」
「……」
未来は悔しくて、唇を噛んだ。
「それでは、私これで失礼します」
踵を返して、その場を後にしようとした。
「雨宮くん、知ってるよ」
未来の背中越しに、零の声が聞こえた。
「昼間の、資料室でのこと」
思わず未来は振り返った。
零は、相変わらず微笑を浮かべている。
「どんな気持ちで、見てたんだろうね」
グレーの瞳はガラスのように冷ややかだった。
「そ、そんな……」
未来は、遅れてやってきた羞恥と困惑で、足が震えていた。
零は、ポケットから銀色の鍵を一つ出して、ガラスのテーブルに滑らせる。
「おいで、未来」
当然のことのように言う。
「君は、俺を、選ぶことしかできないよ」
未来は震える足でそのまま後ずさる。
「わ、私…私……」
そのまま逃げるように零の部屋を出ていった。
-☂️-
扉が閉まる音が聞こえたあとも、零は一人静かにリビングで、ソファに寄りかかっていた。
「今日は、ここまで、かな」
そう言って扉の方を見つめながら、零はテーブルの鍵を取り、ポケットにしまった。
-☂️-
未来は夜の道を一人歩いていた。
ぽつぽつと、冷たい雨が降り始める。
虚ろな瞳で暗い空を見上げる。
雨の雫なのか、流れる涙なのか、もう分からなくなっていた。
雨が激しくなっていく中、未来は傘も差さず走り出した。




