第十一景「優しい記憶」
第二幕「零れる過去」
玄関のドアを閉じると、未来はしばらく動けずにいた。
雨に濡れた身体で寄りかかった鉄の扉が、冷たく感じた。
ドア越しに、外の雨の音が聞こえる。
未来は、自分の手でもう一度左耳に触れた。
会議室での、ひやりとした指の温度を思い出した。
俯いて、唇を噛んだ。
どうして、今頃になって、あの人に遭うんだろう……。
-☂️-
——4年前
未来は少しそわそわしていた。
銀のトレーを持って、お店の出入り口をずっと見ていた。
鈴の音と一緒に、古い木製の扉が開いた。
いつもの時間だった。
一人の男性が入ってくる。
金茶の髪。涼やかなグレーの瞳。端正な顔立ち。
男性は窓辺の席に座って、未来の方を見てくる。
今日も、来てくれた。
未来は早く鳴る鼓動を感じつつ、注文票を持ってテーブルに近づく。
「いらっしゃいませ。ご注文は——」
「いつものでいいよ」
テーブルに肘をつきながら、軽やかに言う。
-☂️-
未来は男の座るテーブルにブレンドコーヒーを置く。
「今日も、いい天気だね」
窓の外を見ながら、男は言う。
「そう、ですね」
そんな短いやりとりでも、未来にとっては嬉しかった。
「……あのさ、仕事上がりって何時かな?」
男は未来の方に向き直って言う。
「このあと、もしよかったら少し時間もらえる?」
「え、あの、お客様…!」
突然の台詞に未来は狼狽えた。
「——神城零。零って呼んでいいよ」
-☂️-
「零さん…。その、私…初めて、で……」
未来は、この後の事を考えると、恥ずかしすぎて思わず両手で顔を隠してしまう。
白い素肌がピンク色に染まっている。
「大丈夫。大切に、するから。だから、こっちを向いて」
零はそっと、その手に口づけを落とす。
グレーの瞳が未来を覗く。
未来は震える手を顔から離し、零の背中にそっと回した。
——大切に、するから。
零の言葉に間違いはなかった。
-☂️-
「まだレポート終わらないのかい?」
そう言って、リビングのテーブルに座る未来に、零はカップを一つ差し出す。
ふわっと香るそれはカモミールのハーブティーだった。
「……うん、まだあとこれを英訳しないと」
未来はカップを受け取る。
零は未来の隣に座ってじっと顔を見てくる。
「……? 何?」
「いや、あんまり寝るのが遅いと、肌が荒れてしまうよ」
そう言って、未来の頬に一度キスを落とす。
「もう。零さんってば、邪魔しないで」
未来は顔を真っ赤にしていた。
「ははは。じゃあ、先に休んでいるよ」
——そんななんてことのない日々が、本当に温かかった。
-☂️-
けれど、それはいつまでも続くことはなかった。
いつの間にか、お互い忙しくなって、会う時間も限られていった。
別れは、零から告げられた。
「ごめん、未来。これ以上、君を傷つけたくない」
静まり返ったリビングは無性に冷えて感じた。
零は続けた。
「だから……もう、終わりにしよう」
どこかで、未来はそれを分かっていた。
零の生い立ちを、これからの人生を考えれば、それは仕方のないことだった。
零がどれだけ今の仕事に、必死で打ち込んでいるかも知っていた。
だから、未来はそれを受け入れるしかなかった。
そうやって、終わっていくしかなかった。
-☂️-
外の雨の音が戻ってきた。
未来はずっと、玄関の扉に寄りかかっていた。
身体が冷えていく。
未来は、濡れた身体に掛けられた、黒いジャケットを思い出していた。
彼の、逸らした黒い瞳と、少し不器用な気遣い。
冷たい身体を抱えながら、未来の頬には涙が伝っていた。




