第2章 通帳の数字と、行けない理由
土曜日の朝は、平日の朝よりも少しだけ静かだった。
アラームは鳴らない。
慌てて起き上がる必要もない。
スマートフォンの画面に表示された時刻を見て、まだ寝ていられると安心する必要もない。
カーテンの隙間から、白い朝の光が細く差し込んでいる。
紡はベッドの中でしばらく天井を見つめていた。
平日の朝なら、この時間にはもう電車に乗っている。
吊り革を握り、誰かの肩に軽く押されながら、同じ車両の同じあたりに立っている。
けれど今日は違う。
部屋は静かで、外から聞こえるのは遠くを走る車の音と、どこかの部屋で洗濯機が回る低い音だけだった。
紡はゆっくり起き上がった。
ベッドの横のテーブルには、昨夜置いたままの深い青色のノートがある。
いつもなら引き出しの奥に戻していたはずのノート。
けれど昨日の夜、紡はそれを戻さなかった。
夢をしまう場所から、目に見える場所へ出した。
たったそれだけのことなのに、朝起きて最初にそのノートが目に入った瞬間、紡の胸は小さく揺れた。
まだ、そこにある。
自分の夢が、隠されずにそこにある。
紡はノートの表紙にそっと触れた。
硬い表紙の感触が、指先に伝わる。
何かが始まったわけではない。
会社を辞めたわけでもない。
旅に出る日を決めたわけでもない。
SNSに投稿したわけでもない。
それでも、昨日までとは少しだけ違う朝だった。
顔を洗い、髪を軽くまとめ、キッチンに立つ。
一人暮らしのワンルームのキッチンは、料理を楽しむには少し狭い。
まな板を置くと作業スペースはほとんどなくなり、コンロは一口しかない。
それでも紡は、休日の朝だけはなるべく簡単な朝食を作るようにしていた。
食パンを焼き、卵を茹でる。
冷蔵庫に残っていたレタスを皿にのせ、インスタントではないコーヒーを淹れる。
豆を挽くところからこだわるほどではない。
けれど、少しだけ香りのいいドリップコーヒーを選んでいた。
贅沢をしない暮らしの中で、全部を我慢してしまうと、心が乾いてしまう気がしたからだ。
コーヒーの湯気がふわりと立ち上る。
紡はマグカップを両手で包み、テーブルについた。
目の前には、深い青色のノート。
その横に、ノートパソコンを開く。
画面が明るくなり、いつものデスクトップが表示される。
左下にあるフォルダ。
「旅の準備」
紡はその文字をしばらく見つめてから、クリックした。
フォルダの中には、いくつものファイルが整然と並んでいる。
「旅費計画」
「行きたい場所リスト」
「三十歳までの予定表」
「SNS投稿案」
「写真構図メモ」
「郷土料理リサーチ」
「退職後の生活費」
「地方移住・短期滞在メモ」
「取材したい人」
「アカウント名候補」
他人が見たら、驚くかもしれない。
ただの憧れにしては、あまりにも具体的で。
夢と言うには、少し現実的すぎて。
計画と言うには、まだ誰にも見せられないほど臆病で。
紡は「旅費計画」のファイルを開いた。
表計算ソフトに、細かく項目が並んでいる。
家賃。
光熱費。
通信費。
食費。
保険料。
交通費。
交際費。
予備費。
旅資金。
二十四歳の頃から、毎月欠かさず入力してきた数字だった。
最初の頃は、ただの思いつきに近かった。
一ヶ月でいくら残せるのか。
無理なく貯めるなら、どれくらいが限界なのか。
一年でいくらになるのか。
三年続けたら、どれくらいになるのか。
軽い気持ちで始めたはずだった。
けれど、気づけばそれは紡の生活の中心に入り込んでいた。
駅ビルで見かけたワンピースを買わなかった日。
友人に誘われた少し高いランチを断った日。
仕事帰りに疲れてタクシーに乗りたかったけれど、電車で帰った日。
新作のコスメを手に取って、棚に戻した日。
その一つ一つが、表の中の数字になっていった。
我慢した、というほど大げさではない。
でも、小さく選んできた。
今日の欲しいものより、いつか行きたい場所を。
今の便利さより、未来の自由を。
目の前のご褒美より、まだ見ぬ町の朝を。
紡は通帳アプリを開いた。
残高が表示される。
その数字を見て、胸が少しだけ熱くなる。
簡単に貯まったお金ではない。
誰かにもらったものではない。
宝くじのように突然手に入ったものでもない。
毎月、少しずつ。
本当に少しずつ。
自分の手で積み上げてきた数字だった。
この金額があれば、しばらくは旅をしながら生活できる。
もちろん、贅沢はできない。
宿は安いビジネスホテルやゲストハウスになるだろう。
移動も新幹線ばかりは使えない。
外食も毎食好きなものを食べるわけにはいかない。
それでも、一年は動ける。
収入がすぐに生まれなくても、節約しながらなら旅を続けられる。
そう計算してきた。
何度も。
何度も。
何度も。
紡は表の一番下にある合計額を見つめた。
数字は、嘘をつかない。
少なくとも、準備してきたことだけは確かだった。
それなのに、心は少しも安心しなかった。
むしろ、数字が現実的になればなるほど、不安も具体的になっていく。
病気になったらどうするのか。
旅先で怪我をしたら。
スマートフォンやカメラが壊れたら。
宿が取れなかったら。
女性一人で知らない土地を歩く怖さに耐えられなかったら。
貯金が減っていく画面を見続けることになったら。
投稿が伸びなかったら。
誰にも読まれなかったら。
誰からも求められなかったら。
一年後、何も残らなかったら。
紡はマグカップを持ち上げた。
コーヒーは少し冷めていた。
一口飲むと、苦味が舌に残る。
数字はある。
でも、安心はない。
準備はある。
でも、勇気はない。
紡はパソコンの画面から視線を外し、部屋を見回した。
広くはないワンルーム。
でも、暮らすには十分だった。
窓際には小さな観葉植物がある。
本棚には、旅行記や写真の本、文章術の本、SNSマーケティングの本が並んでいる。
クローゼットには、会社用の服がきちんと掛かっている。
キッチンには、昨日洗った皿が伏せてある。
ちゃんと暮らしている。
それは、自分でもわかる。
誰かに迷惑をかけているわけではない。
仕事もしている。
税金も払っている。
家賃も滞納していない。
体調管理も、それなりに気をつけている。
二十七歳の会社員としては、きっと悪くない。
けれど、悪くない暮らしの中で、心が少しずつ眠っていくような感覚があった。
大きな不幸がないからこそ、苦しさを言葉にしづらい。
「つらい」と言うほどではない。
「辞めたい」と言うほどでもない。
「変わりたい」と言ったら、贅沢に聞こえるかもしれない。
だから紡は、いつも笑ってきた。
大丈夫。
普通。
特に変わりない。
そう言っていれば、日常は滞りなく流れていく。
でも、自分の本音だけが、少しずつ奥へ押し込められていく。
紡は本棚の前に立った。
何冊もの本の背表紙を目で追う。
『伝わる文章の書き方』
『スマホで撮る旅写真』
『地方の食文化入門』
『小さな町の歩き方』
『SNSで届ける言葉の作り方』
『日本の郷土料理』
『地域に残る祭りと祈り』
会社の同僚が見たら、意外だと言うかもしれない。
紡は普段、職場で自分の趣味をあまり話さない。
休日何してるの、と聞かれれば、「家でゆっくりしてる」「少し散歩してる」「本を読んでる」と答える。
嘘ではない。
でも、本当の深さまでは話していない。
本当は、休日のたびに知らない町について調べている。
古い街道の名前をメモしている。
郷土料理の由来を調べている。
地方の市場の営業時間まで確認している。
旅先で聞きたい質問のリストまで作っている。
それを言うのが、怖かった。
「すごいね」と言われるのも怖い。
「本気なの?」と聞かれるのも怖い。
「向いてそう」と軽く言われるのも怖い。
「でも現実は厳しいよ」と諭されるのも怖い。
どんな反応でも、自分の夢が誰かの目に触れること自体が怖かった。
夢は、見せた瞬間に評価される。
叶いそうか。
無理そうか。
現実的か。
甘いか。
仕事になるか。
お金になるか。
年齢的にどうか。
誰かが何気なく言う一言で、自分が何年も大切にしてきたものが傷つくかもしれない。
紡はそれが怖くて、夢を話せなかった。
机に戻り、今度は「SNS投稿案」のファイルを開いた。
そこには、まだ一度も投稿していない文章がいくつも並んでいる。
休日に訪れた古い商店街のこと。
昔ながらの和菓子店で買った大福のこと。
下町の小さな神社に残っていた石碑のこと。
雨の日に入った喫茶店で聞いた店主の話。
近所の市場で見かけた、手書きの値札のこと。
紡は、すでに練習をしていた。
写真も撮った。
文章も書いた。
構成も考えた。
けれど、投稿ボタンだけが押せない。
「はじめまして」
その一言から始まる自己紹介文も、何度も書き直している。
最初は、こうだった。
「日本各地を旅しながら、その土地の歴史や文化、食を記録していきます」
でも、その言葉は大きすぎる気がして消した。
次に、こう書いた。
「旅と食と土地の物語が好きな会社員です」
少し柔らかくなった。
けれど今度は、本気を隠しすぎている気がした。
また書き直す。
「いつか日本中を旅しながら、土地に根づく暮らしを発信したいと思っています」
いつか。
その言葉を入れると、少し安心した。
今すぐではない。
まだ始めていない。
夢の途中にも立っていない。
そう言い訳できる気がした。
でも昨夜、深い青色のノートを開いたとき、紡はそのまま閉じることができなかった。
行きたい場所の名前。
怖いことのリスト。
「このまま何もしないで三十歳になるのも怖い」という一文。
それらを紙の上に書いてしまったことで、胸の奥にしまっていたものが、少しだけ外へ出てしまった気がした。
もう、何も考えていなかった頃の自分には戻れない。
戻れないというより、戻りたくないのかもしれない。
紡は、テーブルの上に置いたノートを見つめながら、そう思った。
いつか。
便利な言葉だった。
誰にも責められない。
自分も傷つかない。
まだ本気にならなくて済む。
けれど、いつかと言い続けているうちに、何年も過ぎていた。
二十四歳で書いた「いつか」は、二十七歳になってもまだ「いつか」のままだった。
このままいけば、三十歳の自分も同じ言葉を使っているかもしれない。
いつか、旅に出たい。
いつか、発信したい。
いつか、自分の人生を変えたい。
その「いつか」は、本当に来るのだろうか。
紡は画面の中の自己紹介文を見つめた。
そして、ゆっくりとキーボードを打った。
「はじめまして。日本各地を少しずつ旅しながら、その土地の歴史や文化、食を記録していきます」
少しずつ。
昨夜、心の中で繰り返した言葉だった。
大きな宣言ではない。
会社を辞めます、と言っているわけでもない。
旅人になります、と名乗っているわけでもない。
でも、「いつか」よりは前を向いている。
紡はその文章を保存した。
投稿は、まだしない。
それでも、保存しただけで少しだけ心臓が速くなった。
まるで、誰にも見られていない場所で、自分だけの小さな旗を立てたようだった。
午前十時を過ぎた頃、母から電話がかかってきた。
画面に表示された「母」の文字を見て、紡は少しだけ背筋を伸ばした。
「もしもし」
『紡?今、大丈夫?』
「うん。大丈夫」
『今日休みでしょ。ちゃんと食べてる?』
「食べてるよ。さっき朝ごはん食べた」
『そう。ならよかった』
母の声は、いつも通りだった。
少しだけ早口で、少しだけ心配性。
実家は地方の小さな町にある。
紡が東京に出てきてから、母は定期的に電話をくれる。
内容はだいたい決まっている。
体調はどうか。
仕事は忙しいか。
ちゃんと食べているか。
無理していないか。
帰省はいつできるか。
紡はそれに、いつも同じように答える。
元気だよ。
仕事は普通。
食べてる。
大丈夫。
また予定見て帰るね。
今日もそのつもりだった。
けれど、母は少し間を置いてから言った。
『そういえば、香織ちゃん結婚するんだって?』
「うん。来月式がある」
『そうなの。早いわねえ。あんなに小さかったのに』
香織は大学時代の友人だが、母も何度か会ったことがある。
『紡は、そういう話ないの?』
予想していなかったわけではない。
けれど、その言葉が胸に当たると、やはり少しだけ息が詰まった。
「ないよ」
『そう。まあ、焦ることはないけどね。でも、いい人がいたら考えてもいい年齢でしょう』
母は悪気なく言っている。
わかっている。
母にとってそれは、娘を心配する自然な言葉なのだ。
『仕事は安定してるんだから、あとは体を壊さないようにして。無理しすぎないでね』
「うん」
『今の会社、ちゃんとしてるんでしょう?』
「うん。ちゃんとしてるよ」
『ならよかった。今の時代、安定して働ける場所があるのはありがたいことよ』
その言葉に、紡は黙った。
安定。
また、その言葉だった。
母の声は優しい。
だからこそ、苦しい。
会社を辞めて旅に出たい。
日本中を歩いて、歴史や文化や食を発信したい。
三十歳までに挑戦したい。
その言葉を、今この電話で言えたらどうなるのだろう。
母は驚くだろう。
心配するだろう。
反対するかもしれない。
泣くかもしれない。
『何かあった?』
黙り込んだ紡に、母が尋ねた。
「ううん。何もない」
反射的に答えていた。
『そう?声が少し疲れてる気がしたから』
「大丈夫。ちょっと寝起きだから」
嘘は、すらすら出る。
夢のことは、少しも出てこないのに。
電話を切ったあと、紡はしばらくスマートフォンを握ったまま動けなかった。
母は、紡の幸せを願っている。
それは間違いない。
でも、母が安心する幸せと、紡が本当に欲しい幸せは、もしかしたら少し違うのかもしれない。
それを伝えることは、親不孝なのだろうか。
安定した会社を辞めたいと言うことは、これまで心配して育ててくれた母を裏切ることになるのだろうか。
二十七歳。
大人のはずなのに、親の言葉にこんなにも揺れてしまう。
自分の人生なのに、誰かを安心させるための選択をしてしまいそうになる。
紡はため息をついた。
窓の外では、洗濯物が風に揺れている。
向かいのマンションのベランダに、小さな子どもの服が干されていた。
その隣には、白いシャツと、タオルと、靴下。
誰かの暮らし。
ちゃんと続いている生活。
紡はふと思った。
旅に出たいと言いながら、自分は本当は暮らしに惹かれているのかもしれない。
観光地の特別な瞬間よりも、誰かが毎日繰り返していること。
朝ごはんを作る手。
市場に品物を並べる人。
雪の日に店先を掃く人。
祭りの準備をする町内の人たち。
昔からの味を、何も特別なことのように語らず作る人。
そういうものを見たい。
そういうものを残したい。
きっと紡が探しているのは、遠くのきらびやかな世界ではない。
誰かの生活の中に根を張っている、静かな強さなのだ。
それなのに、自分自身の生活は、どうしてこんなに宙ぶらりんなのだろう。
紡はノートを開いた。
空白のページに、母との電話で感じたことを書いた。
「母は私の安定を願っている。私はその優しさをわかっている。だから苦しい」
続けて書く。
「誰かを心配させない人生と、自分が本当に生きたい人生は、同じとは限らない」
書いたあと、少し怖くなった。
まるで、言ってはいけないことを書いてしまったような気がした。
でも消さなかった。
本音は、書かなければすぐに見えなくなる。
昼前、紡は近所のスーパーへ買い物に出た。
いつもの休日と同じように、エコバッグを持ち、薄手のコートを羽織る。
外の空気は少し冷たかったが、日差しは柔らかかった。
マンションを出ると、近所の公園から子どもの声が聞こえた。
ベビーカーを押す女性。
犬の散歩をする年配の男性。
自転車で通り過ぎる高校生。
パン屋の前に並ぶ人たち。
何気ない土曜日の午前。
その中を歩きながら、紡は不思議な感覚になった。
この町で暮らして、もう五年になる。
駅までの道も、スーパーの場所も、安いクリーニング店も、日曜に混むカフェも知っている。
それなりに馴染んでいる。
けれど、この町に深く根を下ろしている実感はなかった。
いつか出ていくかもしれない場所。
ずっと、そう思っている。
だから家具も増やさなかった。
大きな家電も買わなかった。
部屋に合うカーテンを探すことも、何度も後回しにした。
いつでも動けるように。
そう言えば聞こえはいい。
でも本当は、どこにも本気で根を下ろせていないだけなのかもしれない。
スーパーで必要なものをかごに入れる。
卵。
豆腐。
ほうれん草。
鶏むね肉。
ヨーグルト。
食パン。
特売の札を見ながら、紡は自然と計算していた。
今週の食費。
今月の残り。
旅資金に回せる額。
癖になっている。
レジを済ませ、袋に詰めながら、隣の台で小さな女の子が母親に話しかけているのが聞こえた。
「ねえ、春休み、どこ行くの?」
母親は笑いながら答えた。
「おばあちゃんのところに行こうか」
「電車?」
「そう、電車」
女の子は嬉しそうに跳ねた。
「やった、遠く行くんだ」
遠く行く。
その言葉に、紡は手を止めた。
子どもの頃、遠くへ行くことはただ嬉しかった。
新幹線に乗るだけで特別だった。
駅弁を選ぶだけで楽しかった。
知らない駅のホームに降りるだけで、世界が広がった気がした。
いつからだろう。
遠くへ行くことに、理由が必要になったのは。
休みが取れるか。
お金が足りるか。
仕事に支障がないか。
将来に繋がるか。
意味があるか。
無駄ではないか。
大人になるということは、自由になることだと思っていた。
自分でお金を稼ぎ、自分で住む場所を決め、自分で好きなところへ行ける。
でも実際は、選べることが増えた分、選ばない理由も増えた。
紡はエコバッグを肩にかけ、スーパーを出た。
帰り道、いつもは通らない細い道を選んだ。
少し遠回りになるけれど、古い家が残っている道だった。
木の格子戸。
小さな鉢植え。
手書きの貼り紙がある八百屋。
昔ながらの和菓子店。
ガラスケースの中に、豆大福と草餅が並んでいる。
紡は店の前で立ち止まった。
旅行に行かなくても、土地の時間は身近にある。
そう思うことがある。
この町にも、きっと歴史がある。
誰かが何十年も続けてきた店がある。
昔から変わらない味がある。
紡は和菓子店の引き戸を開けた。
「いらっしゃい」
店の奥から、年配の女性が顔を出した。
紡は少し緊張しながら、豆大福を二つ買った。
「今日はいい天気ですね」
思い切ってそう言うと、女性はにこりと笑った。
「そうねえ。こういう日はお客さんも少し歩いて来てくれるから、ありがたいわ」
「このお店、長いんですか?」
尋ねたあとで、少し踏み込みすぎたかもしれないと思った。
けれど女性は、嬉しそうに答えてくれた。
「もう五十年くらいかしら。父の代からだから」
「五十年……すごいですね」
「すごいってほどじゃないのよ。同じことを毎日してきただけ」
同じことを毎日。
その言葉が、紡の胸に残った。
女性は、豆大福を紙袋に入れながら続けた。
「でもね、同じように作ってるつもりでも、毎日少しずつ違うの。気温も湿気も、お豆の様子も。だから飽きないのかもしれないわね」
紡はその言葉に、思わず聞き入ってしまった。
同じことを毎日しているだけ。
でも、毎日少しずつ違う。
それは、暮らしそのもののようだった。
紡は店を出てから、しばらく紙袋を見つめた。
温かさはもうない。
けれど、手の中に小さな物語を持っているような気がした。
家に帰ると、買ってきた食材を冷蔵庫にしまい、豆大福を皿にのせた。
お茶を淹れ、テーブルに座る。
そして、深い青色のノートを開いた。
「近所の和菓子店。五十年。父の代から。毎日同じように作っているけれど、毎日少しずつ違う」
紡は急いで書いた。
忘れたくなかった。
その言葉の温度が残っているうちに、書いておきたかった。
続けて、投稿の下書きのように文章を書いてみる。
「旅に出なくても、町には物語がある。今日買った豆大福は、五十年続く小さな和菓子店のもの。店主さんは『同じことを毎日しているだけ』と笑った。でも、同じ日なんて本当は一日もない。気温も湿気も、豆の様子も、訪れる人も、毎日少しずつ違う。その違いに気づきながら続いてきた味を、私はとても美しいと思った」
書き終えたあと、紡はしばらくその文章を見つめた。
悪くない。
そう思った。
派手ではない。
バズるような言葉ではないかもしれない。
でも、自分が感じたことに近かった。
紡は豆大福を一口食べた。
餅はやわらかく、豆の塩気がほんの少しあって、あんこの甘さは控えめだった。
おいしい。
素直にそう思った。
有名な観光地ではない。
行列のできる店でもない。
写真映えする豪華なスイーツでもない。
でも、こういうものを自分は届けたいのだと思った。
誰かの暮らしに長く寄り添ってきた味。
派手ではないけれど、確かに残ってきたもの。
その土地で生きる人の手から生まれるもの。
旅に出たい気持ちは、遠くへ逃げたい気持ちだけではない。
むしろ、ちゃんと出会いたいのだ。
人に。
土地に。
時間に。
暮らしに。
そう思った瞬間、胸の奥に小さな明かりが灯った。
紡はスマートフォンを手に取った。
豆大福の写真を撮る。
白い皿。
湯呑み。
窓から入る午後の光。
紙袋に書かれた店名。
何枚か角度を変えて撮った。
そのうちの一枚が、とてもよく見えた。
特別な写真ではない。
けれど、やわらかい光が豆大福の素朴さを引き立てていた。
紡は写真を見ながら、さっき書いた文章をスマートフォンのメモに移した。
投稿画面を開く。
写真を選ぶ。
文章を貼りつける。
指先が、震えた。
あとは投稿ボタンを押すだけだった。
心臓がうるさい。
誰も見ないかもしれない。
見られても、何も反応がないかもしれない。
それどころか、知り合いに見つかったらどうしよう。
急にこんな投稿を始めたと思われたら。
何を目指してるの、と聞かれたら。
紡は投稿ボタンの上で指を止めた。
ほんの数センチ。
それだけの距離が、ひどく遠い。
会社を辞めるわけではない。
顔を出しているわけでもない。
ただ、豆大福について書いた文章を投稿するだけ。
それなのに、怖い。
紡は深く息を吸った。
そして、画面を閉じた。
投稿はできなかった。
スマートフォンをテーブルに置き、両手で顔を覆う。
情けない。
本当に、情けない。
旅に出たいと言っているくせに。
日本中を発信したいなんて思っているくせに。
近所の和菓子店の投稿さえできない。
何が三十歳までに挑戦したい、だ。
紡は唇を噛んだ。
目の奥が熱くなる。
泣くほどのことではない。
誰かに怒られたわけでもない。
何かを失ったわけでもない。
ただ、投稿ボタンを押せなかっただけ。
でも、その小さなできなさが、紡の中では大きな失敗のように感じられた。
夢は大きいのに、行動は小さい。
その小さい行動すらできない自分を見せつけられたようで、苦しかった。
紡はしばらくテーブルに突っ伏していた。
窓の外から、午後の光がゆっくり傾いていく。
部屋の中に、静かな時間だけが流れた。
どれくらいそうしていたのか、わからない。
ふと顔を上げたとき、視線の先に通帳アプリの画面がまだ開かれていた。
積み上げてきた数字。
何年もかけて貯めてきたお金。
その隣には、投稿できなかったスマートフォン。
紡は思った。
私には、お金の準備はできたのかもしれない。
でも、人に見られる準備ができていない。
旅に出るには、交通費や宿泊費が必要だ。
でもきっと、それだけでは足りない。
自分の感じたことを、誰かに差し出す勇気。
反応がなくても続ける覚悟。
笑われるかもしれない場所へ、一歩出る力。
それが、まだ足りない。
紡はノートを開き、空白のページに書いた。
「足りないのは、お金だけじゃない」
少し考えて、次の行に続けた。
「人に見られる勇気」
その文字を見たとき、胸が静かに痛んだ。
でも、同時に少しだけ楽にもなった。
怖さの正体が、少し見えた気がしたからだ。
自分は、旅そのものだけが怖いのではない。
自分の夢を誰かに見せることが怖い。
自分の言葉を世の中に置くことが怖い。
自分の好きなものを、誰かに否定されるのが怖い。
それがわかると、全部が少しだけ具体的になった。
具体的になれば、もしかしたら向き合えるかもしれない。
夕方、紡はもう一度投稿画面を開いた。
写真を選ぶ。
文章を貼る。
そして、公開範囲を見た。
誰にも知らせない、新しく作った小さなアカウント。
フォロワーはゼロ。
プロフィール画像もまだ設定していない。
アカウント名も仮のままだ。
紡はしばらく迷い、投稿ボタンを見つめた。
今日、押せなくてもいい。
そう思おうとした。
でも、もう一人の自分が言った。
今日押せなかったら、明日も押せないかもしれない。
明日押せなかったら、来週も押せないかもしれない。
そうやって、また一年が過ぎるかもしれない。
紡は目を閉じた。
母の声が浮かぶ。
安定して働ける場所があるのはありがたいことよ。
美咲の声が浮かぶ。
うちらももう二十七じゃん。
和菓子店の女性の声が浮かぶ。
同じことを毎日してきただけ。
そして、自分の声が浮かぶ。
このまま何もしないで三十歳になるのも怖い。
紡は目を開けた。
指先は震えていた。
それでも、ゆっくりと投稿ボタンに触れた。
画面が切り替わる。
投稿が完了しました。
その文字を見た瞬間、紡は息を止めた。
世界は何も変わらなかった。
部屋の中も、窓の外も、テーブルの上も、何も変わっていない。
スマートフォンが光り輝くこともない。
誰かから拍手が届くこともない。
すぐに反応が来ることもない。
でも、紡の中では何かが確かに変わっていた。
たった一つの投稿。
近所の和菓子店の豆大福について書いただけの、小さな文章。
それでも、紡は初めて、自分の感じたことを外の世界へ置いた。
誰かに見られるかもしれない場所に。
怖かった。
今も怖い。
投稿を消したくなる気持ちもある。
でも、画面の中にある自分の文章を見て、紡は小さく息を吐いた。
「できた」
声に出すと、急に涙が滲んだ。
大げさだと思う。
たかが投稿ひとつで泣きそうになるなんて、と思う。
でも、紡にとっては、引き出しの奥にしまっていた夢が、初めて外の空気に触れた瞬間だった。
紡はノートに今日の日付を書いた。
その下に、ゆっくりと書く。
「初めて投稿した。豆大福。五十年続く和菓子店。怖かった。でも、消さなかった」
書き終えて、ペンを置く。
窓の外は、夕方から夜へ変わろうとしていた。
ビルの向こうの空が、淡い紫色に染まっている。
紡は窓を開けた。
冷たい風が入ってくる。
遠くで電車の音がした。
その音は、昨日よりも少しだけ遠くへ続いているように聞こえた。
旅は、まだ始まっていない。
会社も辞めていない。
行き先も決めていない。
母にも話していない。
貯金が不安でなくなったわけでもない。
それでも今日、紡は一つだけ進んだ。
誰にも知られないほど小さな一歩。
でも、自分だけは知っている一歩。
通帳の数字は、夢に向かって積み上げてきた時間だった。
そして今日の投稿は、夢を誰かに届けるための、最初の小さな声だった。
夜になり、紡は何度もスマートフォンを見た。
反応はなかった。
いいねも、コメントも、フォローもない。
それなのに、不思議と前ほど落ち込まなかった。
もちろん、少し寂しい。
でも、ゼロから始まることを、紡は初めて実感していた。
ゼロは、何もないことではない。
ここから始まる場所なのかもしれない。
ベッドに入る前、紡は投稿をもう一度見返した。
写真の中の豆大福は、午後の光を受けて静かにそこにあった。
文章は少し硬いかもしれない。
もっと上手く書けた気もする。
でも、そこには確かに、今日の自分がいた。
怖がりながらも、消さなかった自分。
紡はスマートフォンを伏せ、灯りを消した。
暗い部屋の中で、深い青色のノートがテーブルの上に置かれている。
引き出しの奥ではない。
目に見える場所に。
夢はまだ小さい。
誰にも気づかれていない。
でも、確かに息をしている。
紡は目を閉じた。
胸の奥で、また足音がした。
昨日よりも、少しだけはっきりと。
それは、遠くへ向かう音ではなく、今いる場所から始まる音だった。




