表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
旅するわたしの、足音を聴く  作者: 久遠 睦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/4

第1章 27歳、夢をしまった引き出し

朝の電車は、いつも同じ匂いがする。

少し湿ったコートの布の匂い。

誰かの柔軟剤の甘い匂い。

コンビニのコーヒーを片手に持った人から漂う、苦い香り。

そして、まだ完全には目覚めきっていない人たちの、静かな疲れ。

そのすべてが混ざった空気の中で、藤沢紡は今日も吊り革を握っていた。

午前七時五十二分。

乗る車両も、立つ位置も、だいたい決まっている。

ドアから三歩ほど入ったところ。

目の前には、窓。

右側には、いつもイヤホンをしているスーツ姿の男性。

左側には、同じ駅から乗ってくるベージュのコートの女性。

名前も知らない。

話したこともない。

それでも、毎朝同じ場所で顔を見るうちに、妙な親近感だけが生まれていた。

電車が揺れる。

紡は吊り革を握る手に少し力を入れた。

窓の外には、見慣れた景色が流れていく。

駅前のコンビニ。

高架下の駐輪場。

朝日を反射するマンションの窓。

細い路地に並ぶ、小さな飲食店の看板。

何度も見ているはずなのに、どこか遠い場所の景色のようにも見える。

自分は毎朝ここを通っている。

でも、本当にここを生きているのだろうか。

そんな問いが、ふいに胸の奥で浮かび上がることがあった。

紡は二十七歳だった。

都内のIT関連企業で働いている。

入社して五年目。

仕事にも慣れ、後輩もでき、上司からは「安心して任せられる」と言われることも増えた。

生活は安定している。

毎月決まった日に給料が入り、家賃を払い、光熱費を払い、少しずつ貯金をする。

週に五日働いて、土日は洗濯と掃除と買い出しをして、余力があればカフェで本を読む。

大きな不満はない。

むしろ、誰かに話せば「ちゃんとしてるね」と言われるような暮らしだと思う。

仕事も嫌いではない。

人間関係にも恵まれている。

給料も、贅沢さえしなければ困らない。

だからこそ、紡は時々、自分の中にある焦りをうまく説明できなくなる。

不幸ではない。

でも、満たされているとも言えない。

苦しいわけではない。

でも、息がしやすいわけでもない。

毎日はちゃんと進んでいる。

けれど、自分自身だけが同じ場所に置き去りにされているような気がする。

電車の窓に、ぼんやりと自分の顔が映った。

薄く整えた眉。

控えめな色のリップ。

寝不足を隠すために、少しだけ明るめに塗った目の下。

悪くない。

疲れてはいるけれど、ひどく崩れているわけではない。

それでも、紡は自分の顔を見るたびに、どこか輪郭が薄くなっているような気がした。

私は、こんな顔をしていたっけ。

そんなふうに思う朝が、少しずつ増えていた。

スマートフォンが手の中で小さく震える。

友人たちのグループチャットに、新しい通知が届いていた。

『香織の結婚式、二次会も参加する人、今週中に返事ください!』

その下には、すでに何人かの返信が並んでいる。

『参加します!楽しみ!』

『旦那も連れて行くね』

『子ども預けられたら行けるかも』

『久しぶりにみんなに会えるの嬉しい』

紡は画面を見つめたまま、親指を動かせなかった。

香織の結婚は嬉しい。

大学時代からの友人で、明るくて、よく笑って、泣き虫で、恋愛に不器用だった香織。

その香織が、自分で選んだ人と結婚する。

本当に、おめでとうと思う。

けれどその一方で、胸の奥が小さく沈む。

また一人、先へ進んでいく。

そう感じてしまう自分が、紡は嫌だった。

祝福したいのに、焦ってしまう。

笑顔で「おめでとう」と言いたいのに、自分の足元を見てしまう。

二十七歳。

まだ若いと言われる年齢。

でも、何も考えずに「いつか」と言っていられるほど若くもない気がする年齢。

同級生の中には、結婚した人がいる。

子どもを産んだ人もいる。

昇進した人もいる。

転職して年収を上げた人もいる。

海外で働いている人もいる。

SNSを開けば、誰かの人生の節目ばかりが流れてくる。

婚約指輪。

新居の鍵。

海外出張の空港写真。

資格試験合格の報告。

おしゃれなカフェでの休日。

「自分らしく働く」を叶えた誰かの投稿。

その一つ一つに、紡は「いいね」を押す。

心からすごいと思う。

嬉しいとも思う。

でも、そのたびに、自分だけが何も形にできていないような気持ちになる。

紡の中にも、夢はある。

誰かに見せられるような立派な肩書きではない。

すぐに収入になる保証もない。

家族に胸を張って説明できるほど、現実的な計画だと断言できるわけでもない。

それでも、長いあいだ消えずに残っている夢がある。

日本中を旅しながら、その土地の歴史や文化、食を発信したい。

観光地として有名な場所だけではなく、古い商店街や、海沿いの小さな町や、山あいの集落を歩きたい。

土地に残る伝承を聞きたい。

昔から続く祭りを見たい。

市場で働く人の声を聞きたい。

地元の食堂で、そこに暮らす人たちが当たり前に食べてきた料理を味わいたい。

きれいに飾られた旅ではなく、誰かの日常の中にある美しさを、自分の言葉と写真で届けたい。

その夢を初めて意識したのは、二十四歳の頃だった。

仕事で疲れ切って帰った夜、たまたま見た地方の小さな町の特集番組。

有名な観光地ではなかった。

派手な絶景も、行列のできる名店も出てこなかった。

映っていたのは、古い木造の家並みと、朝の市場と、湯気の立つ鍋の前で笑う年配の女性だった。

その女性は、地元に昔から伝わる料理を作っていた。

茶色くて、素朴で、写真映えするような華やかさはなかった。

でも、彼女の手つきが忘れられなかった。

迷いがなく、丁寧で、長い時間を知っている手。

鍋から上がる湯気の向こうで、彼女は言った。

「これを食べると、帰ってきたなって思うんです」

その言葉を聞いた瞬間、なぜか紡の胸が熱くなった。

行ったこともない町。

会ったこともない人。

食べたこともない料理。

それなのに、画面の向こうにある暮らしが、ひどく愛おしく思えた。

自分は、こういうものを見たいのだと思った。

誰かにとっては当たり前で、でもその土地でしか生まれなかったもの。

消えそうで、けれど誰かが大切に守ってきたもの。

派手ではないけれど、確かに人の心を温めるもの。

それを、ちゃんと見たい。

ちゃんと聞きたい。

ちゃんと残したい。

その夜、紡は初めてノートに書いた。

「日本中を旅して、その土地の暮らしを発信する」

書いた瞬間、胸が震えた。

大げさな言葉だと思った。

自分には似合わないと思った。

それでも、消せなかった。

それから紡は、少しずつ準備を始めた。

毎月の給料から、決まった額を貯金した。

外食を減らした。

服を買う回数を減らした。

仕事帰りにコンビニで甘いものを買いたくなっても、できるだけ我慢した。

その代わり、写真の本を買った。

文章の書き方を学んだ。

SNSの発信方法について調べた。

旅を仕事にしている人の投稿を分析した。

休日には近場の古い商店街へ行き、写真を撮って、誰にも見せない文章を書いた。

何年もかけて、紡は夢に向かって少しずつ準備をしてきた。

けれど、まだ誰にも本気で話せていない。

家族にも。

友人にも。

会社の同僚にも。

口に出した瞬間、現実になってしまう気がした。

そして現実になった瞬間、誰かに否定されるのが怖かった。

「そんなので食べていけるの?」

「会社を辞める必要ある?」

「趣味でやればいいんじゃない?」

「二十七歳でそれは危なくない?」

「三十歳までに結婚とか考えないの?」

言われる前から、言葉が想像できてしまう。

そして厄介なことに、そのどれもが完全には間違っていない。

だから紡は、夢を胸の中にしまった。

まるで、きれいなハンカチを引き出しの奥にしまうみたいに。

汚れないように。

傷つかないように。

誰にも見つからないように。

電車が会社の最寄り駅に近づく。

車内アナウンスが流れ、人々が少しずつ出口の方へ体の向きを変えた。

紡もスマートフォンをバッグにしまい、吊り革から手を離した。

ホームに降りると、人の流れに押されるように改札へ向かう。

誰もが急いでいる。

まるで、遅れたら何か大切なものを失ってしまうかのように。

紡も足早に歩いた。

でも本当は、何に遅れないようにしているのか、わからなくなることがある。

会社に着くと、いつものようにパソコンを立ち上げた。

メールを確認し、タスク管理表を開き、今日の予定を確認する。

午前十時から定例会議。

十一時半までに資料の修正。

午後は取引先とのオンライン打ち合わせ。

夕方までに議事録の共有。

予定は隙間なく埋まっている。

忙しさは、便利だった。

余計なことを考えずに済む。

キーボードを打っている間は、夢のことも、不安のことも、二十七歳という年齢のことも考えなくていい。

仕事をしている自分は、ちゃんとして見える。

誰から見ても、社会の中で役割を果たしている人に見える。

それが安心でもあり、少しだけ苦しくもあった。

「藤沢さん、この資料、午後までに確認お願いできますか?」

後輩の真帆が、遠慮がちに声をかけてきた。

「うん、大丈夫。送っておいて」

「ありがとうございます。助かります」

真帆はほっとしたように笑った。

入社二年目の真帆は、まだ少し緊張が抜けないところがある。

けれど最近、仕事の覚えが早くなってきた。

紡は真帆の資料を確認しながら、赤字でコメントを入れていく。

ここは数字の根拠を添えた方がいい。

この表現は少し曖昧。

結論を先に出した方が伝わりやすい。

誰かの資料を直すことはできる。

足りない部分も、改善点も、見つけられる。

なのに、自分の人生の修正点だけは、いつも見て見ぬふりをしている。

そんな考えがよぎって、紡は苦笑した。

昼休み。

紡は一人でコンビニへ行った。

同僚に誘われることもあるけれど、今日は少しだけ一人になりたかった。

サラダとおにぎりを買い、会社の休憩スペースの窓際に座る。

窓の向こうには、ビルが並んでいた。

どこまでも続く窓。

窓。

窓。

その一つ一つの中に、きっと誰かの仕事があり、疲れがあり、生活がある。

紡はおにぎりの包装を開けた。

梅。

特別なものではない。

コンビニで何度も買ったことのある味。

それでも、ふと想像する。

旅先の小さな駅で食べるおにぎりは、どんな味がするのだろう。

地元の米で握られた、少し形の崩れたおにぎり。

手作りの梅干し。

海苔の香り。

売店のおばあちゃんの声。

まだ出会ってもいない景色が、頭の中に浮かぶ。

紡は一口食べて、ゆっくり飲み込んだ。

味はいつもと同じはずなのに、少しだけ胸が詰まった。

午後の会議では、来期の事業方針について話し合われた。

売上目標。

市場分析。

顧客満足度。

新しい施策。

会議室の大きな窓からは、空が見えた。

高層ビルに切り取られた、狭い青。

紡は資料に視線を落としながら、ときどきその空を見てしまう。

空は、どこにいても同じようにつながっている。

東京の空も、金沢の空も、瀬戸内の島の空も、北海道の冬の空も。

頭ではわかっている。

けれど、自分の足でそこに立たなければ、見えない空がある気がした。

「藤沢さん、どう思いますか?」

上司の声に、紡ははっと顔を上げた。

「はい。今回の施策については、既存顧客への訴求を少し分けた方がいいと思います。全体向けの文面だと、少し広すぎるので」

自分でも驚くほど、すらすらと言葉が出た。

仕事の場では、考えを言える。

意見を求められれば、答えられる。

資料を作り、説明し、誰かを納得させることもできる。

なのに、自分の夢についてだけは、いつも言葉が喉で止まってしまう。

会議が終わり、席に戻る途中、同期の美咲が声をかけてきた。

「紡、今日帰りちょっと飲みに行かない?」

「今日?」

「うん。軽く。真帆ちゃんの歓迎会の店、下見も兼ねて」

紡は一瞬迷った。

本当は、今日は早く帰って、旅のノートを開きたかった。

昨日の夜、途中まで書いたメモがある。

瀬戸内の島について調べたいこともあった。

でも、断るほどの理由もない。

「うん、行こうかな」

「やった。じゃあ定時後に」

美咲は明るく笑って席へ戻っていった。

紡はその背中を見ながら、少しだけ自分が嫌になった。

行きたくないわけではない。

美咲と話すのは楽しい。

飲みに行けば、きっと笑う。

でも、本当はやりたいことがあるのに、それを優先できない自分がいる。

夢に本気だと言いながら、いつもの流れに身を任せてしまう。

そのたびに、紡は思う。

私は、本当に旅に出たいのだろうか。

本当にやりたいことなら、もっと必死になれるはずではないか。

もっと大胆に動けるはずではないか。

会社を辞める人は、きっともっと強い人なのではないか。

自分はただ、今の生活に少し飽きているだけなのかもしれない。

夢というきれいな言葉で、現実から逃げたいだけなのかもしれない。

そう考えると、胸の奥が冷たくなる。

定時後、美咲と一緒に会社を出た。

店は会社から少し歩いたところにある居酒屋だった。

まだ早い時間で、店内はそれほど混んでいない。

二人は奥のテーブル席に座り、軽く料理を頼んだ。

「最近どう?疲れてない?」

美咲がビールを一口飲んでから聞いた。

「普通かな」

「紡の普通って、あんまり信用できないんだよね」

「どういう意味?」

「しんどくても、普通って言いそう」

紡は笑った。

「そんなことないよ」

「あるよ。紡って、ちゃんとしてるから」

また、その言葉だった。

ちゃんとしている。

紡は曖昧に笑いながら、グラスの水滴を指でなぞった。

ちゃんとしているように見えるのは、ちゃんとしていない部分を見せていないだけだ。

本当は、引き出しの奥に夢を隠している。

本当は、通帳の数字を見ながら会社を辞める日のことを考えている。

本当は、いつか旅に出るために、何年も前から準備をしている。

でも、それを言ったら、美咲はどう思うだろう。

驚くだろうか。

応援してくれるだろうか。

それとも、現実的な心配をするだろうか。

「紡はさ」

美咲が唐揚げを取り分けながら言った。

「この先、どうしたいとかある?」

心臓が、少しだけ跳ねた。

「この先?」

「うん。仕事とか、生活とか。ほら、うちらももう二十七じゃん」

うちらももう二十七。

その言葉が、胸に静かに落ちた。

「来年、二十八でしょ。その次、二十九。で、三十。なんか急に現実味ない?」

美咲は笑っていたけれど、その目には少しだけ不安があった。

紡は驚いた。

美咲はいつも明るく、器用で、前向きに見える。

自分とは違って、人生をうまく進めている人だと思っていた。

「美咲でも、そういうこと考えるの?」

「考えるよ。めちゃくちゃ考える」

美咲はグラスを置いた。

「仕事頑張りたい気持ちもあるけど、このままずっと会社中心でいいのかなとか。結婚したいのかもよくわからないし。周りがどんどん決めていくと、焦る」

その言葉に、紡は少しだけ息を止めた。

自分だけではないのかもしれない。

みんな、それぞれ焦っている。

ただ、それを見せないだけで。

「紡は?」

美咲が聞いた。

今度こそ、言ってしまおうかと思った。

日本中を旅したい。

歴史や文化や食を発信したい。

三十歳までに、会社を辞めて挑戦したい。

喉元まで言葉が上がってきた。

けれど、そこで止まった。

「私は……」

紡はグラスの中の氷を見つめた。

「まだ、よくわからない」

そう答えた。

嘘ではない。

でも、本当の全部ではない。

美咲は責めることなく頷いた。

「そっか。まあ、わからないよね」

その優しさが、かえって少し痛かった。

帰宅したのは、夜十時過ぎだった。

部屋の鍵を開けると、暗いワンルームが紡を迎えた。

靴を脱ぎ、バッグを床に置き、部屋の明かりをつける。

白い光に照らされた部屋は、朝出ていったときと何も変わっていなかった。

小さなテーブル。

壁際の本棚。

ベッド。

洗濯物を畳んだままのかご。

流しに置いたマグカップ。

一人暮らしの部屋は、誰かがいない分、すべてが自分に返ってくる。

散らかっているのも自分。

片付けるのも自分。

泣いても気づく人はいない。

笑っても、声は壁に吸い込まれる。

紡はコートを脱ぎ、ハンガーにかけた。

そのままベッドに倒れ込みたい気持ちを抑えて、テーブルの前に座る。

引き出しを開けた。

一番奥に、少しだけ角が丸くなったノートがある。

紡はそれを取り出した。

表紙は、深い青色だった。

二十四歳の冬に買ったものだ。

文房具店で見つけたとき、夜明け前の空の色みたいだと思った。

旅のノートにするなら、これがいいと直感で思った。

けれど買ったその日、すぐには何も書けなかった。

夢を言葉にするのが怖かったから。

最初の一行を書くまでに、三日かかった。

今ではページの半分以上が埋まっている。

紡はノートを開いた。

行きたい場所の名前が並んでいる。

「金沢の朝市」

その横には、小さな文字でメモがある。

朝の市場の活気。

海の近さ。

加賀野菜。

地元の人の朝ごはん。

「長野の山の宿」

古い街道。

囲炉裏。

山菜料理。

冬の保存食。

「瀬戸内の小さな島」

夕方の港。

古い民宿。

島のおばあちゃんのごはん。

船の音。

「北海道の冬の町」

雪の朝。

湯気の立つ汁物。

寒い土地の暮らし。

春を待つ人たち。

「東北の祭り」

祈り。

地域の誇り。

受け継ぐ人。

消えない火。

紡は、ページをめくるたびに胸が少しずつ熱くなるのを感じた。

ここには、本当の自分がいる。

会社では言えない自分。

友人にも見せていない自分。

結婚式の招待状を見て焦る自分でもなく、会議で資料を説明する自分でもない。

もっと静かで、もっと確かな自分。

行きたい。

見たい。

聞きたい。

書きたい。

その気持ちだけは、何年経っても消えなかった。

紡はノートの後ろの方を開いた。

そこには、旅資金の記録が手書きで残っている。

二十四歳、一月。三万円。

二十四歳、二月。五万円。

二十四歳、三月。七万円。

最初は小さな数字だった。

でも、月を重ねるごとに少しずつ増えていった。

二十五歳。

二十六歳。

そして、二十七歳。

コツコツ積み上げてきた金額は、今では簡単に無視できないものになっている。

夢のために我慢した服。

断った飲み会。

買わなかったバッグ。

外食せずに作った簡単な夕飯。

休日に家で勉強した時間。

それらが、数字になって残っている。

紡は指先で、その数字をなぞった。

何もしてこなかったわけじゃない。

自分は、ちゃんと準備してきた。

でも。

準備してきたからこそ、怖い。

ここまで積み上げてきた夢に、本当に踏み出したとき、もし失敗したらどうなるのだろう。

会社を辞めて、旅に出て、投稿して、それでも誰にも届かなかったら。

お金が減っていくだけだったら。

親に心配され、友人に気を遣われ、元同僚に「やっぱり戻ってきたんだ」と思われたら。

そのとき、自分は平気でいられるだろうか。

紡はノートを開いたまま、しばらく動けなかった。

スマートフォンが、テーブルの上で光った。

通知ではなかった。

画面が少し触れただけで明るくなったらしい。

紡は何気なくSNSを開いた。

タイムラインには、今日も誰かの人生が流れている。

友人の婚約報告。

同期の昇進祝い。

知らない誰かの旅行写真。

「好きなことを仕事にしました」という投稿。

「会社員を辞めてフリーランスになって一年」という笑顔の報告。

紡は画面をスクロールする。

すごい。

羨ましい。

眩しい。

でも、少しだけ苦しい。

誰かの幸せが、なぜ自分の痛みになってしまうのだろう。

そんな自分を責めたくなる。

祝福できないわけではない。

応援したい気持ちもある。

それなのに、画面を閉じたあと、自分の部屋の静けさが急に重くなる。

紡はスマートフォンを伏せた。

そして、小さく呟いた。

「私は、どうしたいの」

声は部屋の中に落ちた。

誰も答えない。

答えられるのは、自分だけだ。

でも、その自分が一番わからない。

紡はノートの空白ページを開いた。

ペンを持つ。

しばらく迷ってから、ゆっくり書いた。

「二十七歳。会社員。夢は、日本中を旅しながら、その土地の歴史と文化と食を発信すること」

そこまで書いて、手が止まる。

こんなふうに書くと、まるで誰かのプロフィールのようだ。

でも続きは、もっと格好悪い。

「でも、怖い」

その一行を書いた瞬間、胸の奥がじんとした。

紡はさらに書いた。

「お金がなくなるのが怖い」

「失敗するのが怖い」

「親に心配されるのが怖い」

「友人に笑われるのが怖い」

「会社を辞めたことを後悔するのが怖い」

「何者にもなれないまま終わるのが怖い」

文字が少しずつ乱れていく。

最後に、紡はこう書いた。

「でも、このまま何もしないで三十歳になるのも怖い」

その一文を書いたとき、目の奥が熱くなった。

そうだ。

失敗するのも怖い。

でも、何もしないまま時間が過ぎていくことも、同じくらい怖い。

もしかしたら、それ以上に怖い。

このまま会社に通い、仕事を覚え、後輩を育て、少しずつ責任が増えていく。

悪い未来ではない。

でも、その未来の中で、引き出しの奥にしまったノートを思い出す自分を想像すると、胸が苦しくなる。

三十歳の自分。

三十五歳の自分。

四十歳の自分。

その自分たちが、今の紡に問いかけてくる気がした。

本当に、それでよかったの。

紡はペンを置いた。

涙がこぼれたわけではない。

でも、泣く少し手前のような呼吸になっていた。

夢を持つことは、もっと明るいものだと思っていた。

未来を想像して、胸が躍って、前向きになれるものだと思っていた。

でも本当は、夢は時々、痛い。

自分の現在地を突きつけてくる。

動けない弱さを見せてくる。

選ばないまま過ぎていく日々を、静かに責めてくる。

それでも、消えてくれない。

諦められる夢なら、もうとっくに諦めている。

忘れられる憧れなら、忙しさに紛れて消えていたはずだ。

でも、紡の夢は消えなかった。

何度も引き出しにしまった。

何度も「今じゃない」と言い聞かせた。

何度も「現実を見なきゃ」と自分を納得させた。

それでも、夜になるとまた呼吸を始める。

知らない町の朝の光。

市場の声。

湯気の立つごはん。

古い石畳。

雪の日の駅。

海沿いのバス停。

地元の人が何気なく話してくれる、その土地の記憶。

それらが、紡の中で静かに手を振っている。

来て。

そう言っているような気がする。

紡は立ち上がり、窓を開けた。

夜の空気が部屋に流れ込んでくる。

遠くで電車の走る音がした。

毎朝乗っている電車。

会社へ向かう電車。

同じ日常を運ぶ電車。

でも、電車は本当は、どこへでも行ける乗り物でもある。

同じ線路の先に、乗り換えがあり、駅があり、知らない町がある。

紡は窓辺に立ったまま、しばらく夜の街を見下ろした。

マンションの窓に、いくつもの明かりが灯っている。

それぞれの部屋に、それぞれの生活がある。

夕飯を食べている人。

子どもを寝かしつけている人。

仕事の続きをしている人。

恋人と電話している人。

一人で泣いている人。

明日の準備をしている人。

みんな、何かを抱えて生きている。

紡だけが迷っているわけではないのかもしれない。

でも、自分の迷いは、自分で抱えるしかない。

紡はテーブルに戻り、ノートを閉じた。

いつもなら、そのまま引き出しの奥に戻す。

誰にも見つからないように。

自分でも見なくて済むように。

でも、その夜は違った。

紡はノートを、テーブルの上に置いた。

目につく場所に。

朝起きたとき、必ず見える場所に。

たったそれだけのことだった。

会社を辞めたわけではない。

旅に出る日を決めたわけでもない。

SNSに投稿したわけでもない。

でも、紡にとっては小さな事件だった。

夢を、隠す場所から出した。

それだけで、部屋の空気が少し変わった気がした。

ベッドに入っても、すぐには眠れなかった。

天井を見つめながら、紡は今日一日のことを思い返す。

朝の電車。

友人の結婚式の通知。

会社の会議。

美咲との会話。

ノートに書いた、怖いことのリスト。

特別なことは何も起きていない。

誰かに告白したわけでもない。

大きな決断をしたわけでもない。

それでも、胸の奥で何かが少しだけ動いていた。

それは、まだ音にならないほど小さい。

けれど確かに、そこにある。

紡は目を閉じた。

明日もまた、同じ朝が来る。

同じ電車に乗り、同じ駅で降り、同じオフィスで働く。

けれど、テーブルの上にはノートがある。

引き出しの奥ではなく、目に見える場所に。

誰にも言っていない夢。

何度もしまい込んできた願い。

怖くて、でも捨てられなかった未来。

それは今、静かに紡の部屋の中で息をしている。

胸の奥で、小さな音がした。

それは、まだ歩き出していない足音のようだった。

紡はその音を、今夜は聞こえないふりをしなかった。

まだ遠い。

まだ頼りない。

まだ震えている。

それでも確かに、自分の中から聞こえてくる音だった。

いつか、ではなく。

少しずつ。

紡は心の中で、その言葉をそっと繰り返した。

少しずつ。

そして眠りに落ちる直前、紡はぼんやりと思った。

もし私が本当に旅に出たら。

最初に見る朝の空は、どんな色をしているのだろう。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ