第3章 オフィスの窓から見える遠い空
月曜日の朝、紡はいつもより少し早く目を覚ました。
アラームが鳴る五分前だった。
目を開けた瞬間、天井の白さが視界に入る。
部屋はまだ薄暗く、カーテンの向こうから朝の光が少しずつ滲んでいた。
平日の朝は、いつも少しだけ体が重い。
起きなければいけない。
支度をしなければいけない。
電車に乗らなければいけない。
会社へ行かなければいけない。
その「しなければいけない」が、まだ完全に目覚めていない体の上に、静かに積もっていく。
けれどその朝、紡は少し違う重さを感じていた。
胸のあたりが、落ち着かない。
昨日、初めて投稿した。
近所の和菓子店で買った豆大福。
五十年続く小さな店。
「同じことを毎日しているだけ」と笑った店主の言葉。
午後の光の中で撮った写真。
何度も書き直した文章。
たった一つの投稿。
それでも紡にとっては、ずっと引き出しの奥にしまっていた夢を、ほんの少し外に出した出来事だった。
寝る前にも、何度も見た。
反応はなかった。
いいねも、コメントも、フォローもない。
ゼロ。
画面に並んだ数字は、あまりにも静かだった。
でも、不思議と絶望はしなかった。
誰にも届かなかったというより、まだ誰にも見つかっていないだけだと思えた。
ゼロは、終わりではなく始まり。
昨日の夜は、そう思えた。
けれど朝になると、その言葉は少し頼りなくなる。
紡は枕元のスマートフォンに手を伸ばした。
画面をつける。
通知は、ない。
SNSアプリを開く。
昨日の投稿が表示される。
豆大福の写真は、昨夜見たときと同じように、柔らかい光の中にある。
文章も、そのままそこにある。
いいね、ゼロ。
コメント、ゼロ。
フォロワー、ゼロ。
紡は画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。
わかっていた。
新しく作ったばかりのアカウントなのだから、誰にも見られなくて当然だ。
プロフィール画像もない。
フォロワーもいない。
誰かに知らせたわけでもない。
それなのに、心のどこかで、ほんの少しだけ期待していたのだと思う。
誰か一人でも、見つけてくれたら。
知らない誰かが、いいねを押してくれたら。
自分の言葉が、画面の向こうにいる誰かの目に止まったら。
そんな都合のいい奇跡を、ほんの少しだけ待っていた。
「そんなに簡単なわけないよね」
紡は小さく呟いて、スマートフォンを伏せた。
起き上がり、カーテンを開ける。
窓の外には、いつも通りの朝があった。
向かいのマンションのベランダ。
細い道路を走る自転車。
駅へ向かう人たち。
まだ眠たそうに歩く高校生。
小さな犬を連れて散歩する年配の女性。
世界は何も変わっていない。
紡が投稿ボタンを押したことなど、当然ながら誰も知らない。
それが少し寂しくて、でも少し安心でもあった。
歯を磨き、顔を洗い、髪を整える。
鏡の中の自分は、いつもと同じ顔をしていた。
薄いメイク。
会社用のブラウス。
黒のパンツ。
控えめなピアス。
昨日、少し勇気を出した人には見えない。
夢に向かって一歩進んだ人にも見えない。
ただの、月曜日の会社員。
紡は鏡の中の自分を見つめた。
「行ってきます」
誰もいない部屋に向かってそう言い、バッグを肩にかける。
玄関を出る直前、テーブルの上に置いた深い青色のノートが目に入った。
引き出しの奥ではなく、目に見える場所にあるノート。
紡は少しだけ立ち止まり、その表紙を見た。
昨日よりも、その青が濃く見えた。
「帰ったら、また見るから」
誰に言うでもなくそう呟いて、紡は部屋を出た。
朝の駅は、いつも通り混んでいた。
ホームに並ぶ人々の顔は、それぞれ別の方向を見ている。
スマートフォンを見ている人。
目を閉じている人。
イヤホンをしている人。
小さくあくびをしている人。
電車が来る。
ドアが開く。
人が乗り、人が降り、また人が詰め込まれていく。
紡もその流れに押されるように車内へ入った。
吊り革につかまりながら、スマートフォンを取り出す。
またSNSを開きそうになって、やめた。
どうせ、まだ反応はない。
そう思うのに、気になってしまう自分がいる。
たった一つの投稿に、こんなにも心を持っていかれるとは思わなかった。
紡はスマートフォンをバッグに戻し、窓の外を見た。
流れていく景色。
高架下の駐輪場。
マンションの壁。
朝日に照らされたビルの窓。
一瞬だけ見える川の光。
この景色も、誰かの土地の風景なのだと思う。
毎日見ているから、見慣れてしまっているだけで。
誰かが初めてこの町を訪れたら、何かを感じるのかもしれない。
昨日の豆大福もそうだった。
近所にある、いつも通り過ぎていた和菓子店。
そこに五十年の時間があった。
店主の言葉があった。
毎日少しずつ違うという、静かな哲学があった。
特別な場所へ行かなくても、見ようとすれば物語はある。
そのことに気づけたのは、たぶん昨日の小さな一歩のおかげだった。
でも、それと会社へ向かう現実は別だった。
電車が会社の最寄り駅に着く。
紡は人の流れに乗ってホームへ降りた。
改札を抜け、オフィスビルへ向かう。
月曜日の朝のビジネス街は、どこか無表情だった。
同じようなスーツ。
同じようなバッグ。
同じような速度で歩く人たち。
ビルの入口へ吸い込まれていく背中。
紡もその一人だった。
自動ドアが開く。
冷暖房のきいた空気が、外の朝の匂いを消していく。
エントランスの床はきれいに磨かれていて、受付横には季節の花が飾られていた。
エレベーターの前には、社員証を首から下げた人たちが並んでいる。
ここに入ると、紡はいつも自分が「社会の中の正しい形」に戻るような気がする。
会社員。
二十七歳。
入社五年目。
大きな問題もなく働いている人。
それは、悪いことではない。
むしろ、ありがたいことだ。
けれど昨日、投稿ボタンを押した指先の震えを思い出すと、この場所にいる自分が、少しだけ遠く感じた。
オフィスに入ると、隣の席の美咲がすでに来ていた。
「おはよう、紡」
「おはよう」
美咲はタンブラーの蓋を開けながら、紡を見た。
「週末、ゆっくりできた?」
紡は一瞬だけ言葉に詰まった。
ゆっくりできた。
そう答えればいい。
いつも通りの会話。
でも、昨日は紡にとって、少し特別な一日だった。
初めて投稿した。
自分の言葉を、外の世界へ置いた。
そう言いたい気持ちが、喉元まで上がってきた。
けれど、出てきたのは別の言葉だった。
「うん。近所を少し散歩したくらいかな」
「いいね。私、ほぼ寝てた」
美咲は笑った。
紡も笑った。
また、本当の全部は言えなかった。
でも、昨日までのように自分を責める気持ちは少しだけ薄かった。
近所を散歩したのは事実だ。
和菓子店に行ったのも事実だ。
その先にある投稿のことは、まだ自分の中で守っていたいのかもしれない。
パソコンを立ち上げる。
メールが何件も届いている。
取引先からの確認依頼。
上司からの共有事項。
後輩の真帆から送られてきた資料。
会議の予定変更。
仕事が始まると、紡の意識は自然と目の前のタスクへ向かっていった。
文章を読み、数字を確認し、誤字を直し、返信をする。
手は動く。
頭も動く。
仕事の流れは体に染みついている。
それが、少し怖くもあった。
何かに迷っていても、心の奥がざわついていても、会社に来れば仕事ができてしまう。
何事もないように、メールに返信できる。
資料を整えられる。
会議に出られる。
笑顔で挨拶できる。
大人になるというのは、そういうことなのかもしれない。
心の中でどれだけ揺れていても、外側を整えることができるようになる。
でも、その整った外側に慣れすぎると、自分が本当は何に揺れていたのかまで、わからなくなってしまう。
午前十時の定例会議。
紡は会議室の端の席に座り、資料を開いた。
プロジェクターに映し出された数字。
上司の説明。
隣の部署の進捗報告。
来月の目標。
改善点。
スケジュール。
いつもの流れだった。
紡はメモを取りながら、ふと会議室の窓を見た。
高いビルに切り取られた、細い空。
その空は薄い青色をしていた。
昨日の午後、豆大福を撮ったときの光を思い出す。
白い皿。
湯呑み。
紙袋。
窓から差し込む柔らかい光。
あの小さな光の中に、自分が書きたいものがあった。
会議室の窓の向こうにも、光はある。
でもここでは、それをゆっくり見ることができない。
「藤沢さん、この部分どうですか?」
上司に呼ばれて、紡は現実へ戻った。
「はい。今回の資料ですと、既存顧客と新規顧客で訴求の内容を分けた方がいいと思います。今の表現だと少し全体向けすぎるので、ターゲットごとに言葉を変えた方が反応は取りやすいかと」
言いながら、自分の言葉に少しだけおかしさを感じた。
ターゲットごとに言葉を変える。
反応を取りやすくする。
仕事では、そんなふうに当たり前に言える。
誰に届けるのか。
どんな言葉なら届くのか。
相手は何を求めているのか。
それを考えることが、紡の仕事の一部でもあった。
なのに、自分の投稿になると、途端に怖くなる。
誰に届けたいのか。
本当は、わかっている。
日々の中で少し息苦しさを感じている人。
どこか遠くへ行きたいと思いながら、動けずにいる人。
有名ではない町や、名もなき暮らしの美しさに惹かれる人。
人生を変えたいけれど、急には変えられない人。
そんな誰かに、自分の言葉を届けたい。
昨日の豆大福の投稿も、本当はそういう誰かに届いてほしかった。
けれど、届かせたいと思うほど、届かなかったときの怖さも大きくなる。
会議が終わり、紡は自席へ戻った。
その途中で、後輩の真帆が小走りに近づいてきた。
「藤沢さん、朝送った資料、あとで見ていただけますか?」
「うん。午前中に見るね」
「ありがとうございます。すみません、いつも」
「大丈夫。最初はみんなわからないから」
真帆はほっとしたように笑った。
「藤沢さんって、説明がわかりやすいです」
「そう?」
「はい。ここが違うってだけじゃなくて、どうしてそうした方がいいか言ってくれるので」
その言葉に、紡は少し照れた。
「ありがとう」
真帆が席へ戻ったあと、紡は少しだけ考えた。
説明がわかりやすい。
それは、仕事の場では褒め言葉だった。
相手に伝わるように整理する。
相手が受け取りやすい言葉を選ぶ。
大切なことを、できるだけわかりやすく届ける。
もしかしたら、それは自分の夢にも繋がっているのかもしれない。
土地の歴史や文化や食を、知らない誰かに伝える。
ただ知識を並べるのではなく、そこにある人の温度ごと届ける。
自分が仕事で身につけてきたことは、全部無駄ではないのかもしれない。
そう思うと、ほんの少しだけ胸が温かくなった。
昼休みになり、美咲が声をかけてきた。
「紡、ランチ行く?」
「うん、行く」
二人は会社近くのカフェに入った。
ランチの時間帯で、店内は会社員で混んでいた。
ほとんどの席で、仕事の話や週末の話が飛び交っている。
紡は日替わりのプレートを、美咲はサンドイッチのセットを注文した。
席に着くと、美咲がスマートフォンを見ながら「あ」と声を上げた。
「香織の二次会、出欠今日までだって」
「あ、そうだった」
紡はスマートフォンを取り出し、グループチャットを開いた。
結婚式の案内。
二次会の詳細。
友人たちの返信。
参加します。
楽しみ。
久しぶりに会えるね。
旦那も一緒に行きます。
子どもは母に預ける予定。
その文字を見て、また胸の奥が少しだけ沈む。
香織の幸せは嬉しい。
本当にそう思う。
けれど、その画面には、自分以外の人たちが人生の形を作っていく気配があった。
結婚。
家族。
仕事。
新しい暮らし。
みんな、何かを選んでいる。
自分だけが、まだ選ぶ前の場所に立っているように思えた。
「紡、行くよね?」
美咲が聞いた。
「うん。行くよ」
紡はそう返信を打った。
『参加します。楽しみにしてます』
送信する。
そのあと、美咲がふと笑った。
「香織、結婚かあ。なんか不思議だよね」
「うん」
「大学のとき、あんなに恋愛で泣いてたのに」
「ね」
二人で笑った。
けれど笑ったあと、少しだけ沈黙が落ちた。
美咲はサンドイッチの包みを開きながら言った。
「最近さ、誰かの結婚とか昇進とか聞くたびに、嬉しいんだけど、ちょっと焦る」
紡は顔を上げた。
「美咲も?」
「も、ってことは紡も?」
紡は一瞬迷い、素直に頷いた。
「うん。少し」
美咲は安心したように笑った。
「だよね。別に結婚したいとか、今すぐ何かになりたいとか、はっきり決まってるわけじゃないんだけどさ。みんながそれぞれ何かを決めてるのを見ると、自分だけ保留にしてる気がする」
保留。
その言葉が、紡の胸に静かに刺さった。
自分だけ保留にしている。
まさに、そうだった。
夢はある。
準備もしている。
でも決めていない。
会社を続けることも、辞めることも。
旅に出ることも、出ないことも。
投稿を続けることも、やめることも。
全部、保留。
保留にしていれば、失敗しない。
でも、何も進まない。
「二十七ってさ」
美咲が続けた。
「まだ若いって言われるけど、何も考えなくていいほど若くはないじゃん」
紡はゆっくり頷いた。
「わかる」
「二十三とか四の頃は、まあそのうち何とかなるかなって思えたんだけど。最近は、そのうちっていつ?って思う」
そのうち。
いつか。
紡の中で、二つの言葉が重なった。
いつか旅に出たい。
そのうち発信したい。
いつか会社を辞めて挑戦したい。
その言葉で、何年も自分を宥めてきた。
でも、そのうちは自分から迎えに行かなければ、たぶん来ない。
「紡は、何かやりたいこととかないの?」
美咲が何気なく聞いた。
紡の指先が、フォークの上で止まる。
何度も聞かれてきたような質問。
けれど今日は、いつもより少しだけ胸が騒いだ。
昨日、投稿したからかもしれない。
自分の夢を、ほんの少しだけ外に出したからかもしれない。
言ってみようか。
日本中を旅したい。
その土地の歴史や文化や食を発信したい。
三十歳までに、会社を辞めて挑戦してみたい。
美咲なら、笑わないかもしれない。
美咲なら、聞いてくれるかもしれない。
そう思った。
けれど、言葉はやっぱり喉の手前で止まった。
「うーん」
紡は曖昧に笑った。
「まだ、ちゃんとは決まってないかな」
それは嘘だった。
ちゃんと決まっていないのではない。
決めたことを、まだ人に見せる勇気がないだけだった。
美咲は深く聞かなかった。
「そっか。まあ、焦るよね」
「うん」
ランチプレートのサラダを口に運びながら、紡は自分の中に小さな痛みを感じていた。
昨日、投稿ボタンは押せた。
でも、美咲に夢を話すことはできなかった。
一歩進んだと思ったのに、また立ち止まっている。
けれど、すべてを一度に変えられるわけではない。
そう自分に言い聞かせる。
初めての投稿も、昨日までできなかったことだ。
なら、誰かに話すことも、いつかできるようになるのかもしれない。
いつか。
その言葉を使いそうになって、紡は心の中で言い直した。
少しずつ。
午後の仕事は、思ったより忙しかった。
取引先から急ぎの修正依頼が入り、予定していた作業が後ろ倒しになった。
真帆の資料確認もあり、上司からは別件の数字を求められた。
気づけば、夕方になっていた。
集中している間、SNSのことは忘れていた。
それでも、ふとした瞬間に思い出す。
昨日の投稿、誰か見ただろうか。
反応は来ただろうか。
そう思ってしまう自分が、少し可笑しかった。
自分は、こんなにも誰かに見つけてほしかったのか。
定時を過ぎ、オフィスの人が少しずつ減っていく。
紡は資料の保存を終え、パソコンを閉じた。
「お先に失礼します」
「お疲れさま」
いつもの挨拶。
いつものエレベーター。
いつものビルの出口。
けれど外へ出た瞬間、紡は思わず足を止めた。
夕焼けが、ビルの間に広がっていた。
オレンジと薄紫が混ざった空。
高層ビルの黒い輪郭。
ガラス窓に反射する光。
遠くを流れる雲。
それは、どこにでもある東京の夕方だった。
でも今日は、少し違って見えた。
紡はバッグからスマートフォンを取り出した。
空に向けて、写真を撮る。
一枚。
もう一枚。
少し角度を変えて、さらに一枚。
周りには、同じように会社を出た人たちが歩いている。
誰も空を見上げていない。
少なくとも、紡の近くでは誰も立ち止まっていなかった。
けれど紡は、どうしても撮っておきたかった。
今日の空。
オフィスの窓から見えていた空。
会議室で切り取られていた空。
会社を出た瞬間、ようやく広く見えた空。
紡は写真フォルダを開き、撮ったばかりの一枚を見た。
ビルの隙間から、遠くへ続くような光が差している。
東京にいるのに、どこか知らない町への入口のように見えた。
そのまま、メモアプリを開く。
指が自然に動いた。
「会社の帰り、ビルの間に夕焼けを見た。毎日通っている道なのに、今日は遠くの町へ続く入口みたいに見えた。」
少し考えて、続きを打つ。
「旅は、遠くへ行くことだけではなく、見慣れた場所をもう一度見つめ直すことから始まるのかもしれない。」
書いたあと、紡は画面を見つめた。
これは、投稿できるだろうか。
昨日よりは、少しだけ怖くない気がした。
けれど、まだ押せない気もした。
紡は投稿画面を開き、写真を選んだ。
文章を貼りつける。
一度、読み返す。
硬いかな。
少し格好つけすぎかな。
誰かに見られたら恥ずかしいかな。
また不安が湧いてくる。
でも、昨日と違うのは、紡がその不安に少しだけ慣れていたことだった。
怖さは消えない。
でも、怖いままでも押せることを、昨日知った。
紡は深く息を吸った。
そして、投稿ボタンを押した。
投稿が完了しました。
昨日と同じ文字。
でも今日は、昨日より少しだけ静かに受け止められた。
二つ目の投稿。
豆大福と、夕焼け。
旅はまだ始まっていない。
それでも、紡の小さな発信は始まりかけている。
電車に乗って帰る途中、紡は何度もスマートフォンを見そうになった。
けれど、途中で思い直す。
反応を待つために投稿したのではない。
もちろん、届いてほしい。
誰かに見つけてほしい。
読んでほしい。
でも今は、まず自分が続けること。
自分の感じたことを、消さずに外へ置くこと。
そう思いながらも、結局、最寄り駅に着く前にアプリを開いてしまった。
通知が一件あった。
紡は息を止めた。
心臓が、どくんと鳴る。
画面を見る。
昨日の豆大福の投稿に、いいねが一つ付いていた。
知らないアカウントだった。
プロフィール画像は、小さな花の写真。
名前も本名ではなさそうだった。
たった一つ。
それだけ。
でも紡は、電車の中で泣きそうになった。
誰かが見た。
誰かが、あの豆大福の写真と文章を見て、指を止めてくれた。
たぶん、ほんの数秒。
深い意味はないかもしれない。
間違えて押したのかもしれない。
すぐに忘れてしまうかもしれない。
それでも、ゼロではなくなった。
紡の言葉が、一度だけ誰かの画面に届いた。
その事実が、胸の奥に小さく灯った。
家に着くと、部屋は朝出たときのままだった。
テーブルの上には、深い青色のノートがある。
紡はバッグを置き、コートを脱ぐ前に、そのノートを開いた。
今日の日付を書く。
そして、その下にゆっくりと書いた。
「いいねが一つ付いた」
たったそれだけの文章なのに、書いた瞬間に少し笑ってしまった。
大げさかもしれない。
でも、自分にとっては大きなことだった。
紡は続けて書く。
「誰かが見てくれた。たぶん一瞬。でも、その一瞬が嬉しかった」
ペン先が止まる。
そして、もう一行。
「私は、誰かに見つけてほしかったのだと思う」
その一文を書いたとき、胸の奥が少しだけ痛んだ。
夢は、自分のためだけのものだと思っていた。
自分が行きたいから。
自分が見たいから。
自分が書きたいから。
もちろん、それは本当だ。
でも、それだけではなかった。
紡は、届けたかった。
自分が美しいと思ったものを。
心が動いた瞬間を。
誰かの暮らしの温度を。
名もなき町の小さな光を。
誰かに、見つけてほしかった。
そしてたぶん、自分自身のことも。
会社では「ちゃんとしている人」として見られている。
友人には「安定している人」と思われている。
母には「無事に働いている娘」として心配されている。
どれも間違っていない。
けれど、本当の紡はそれだけではない。
まだ知らない場所へ行きたい。
人の暮らしに触れたい。
言葉で何かを残したい。
怖いけれど、変わりたい。
その自分を、誰かに少しだけ見つけてほしかった。
紡はスマートフォンを開き、夕焼けの投稿を見た。
まだ反応はない。
でも、消したいとは思わなかった。
昨日投稿した豆大福も、今日投稿した夕焼けも、どちらも今の自分の足跡のように見えた。
まだ小さい。
まだ頼りない。
でも、確かに残っている。
夕飯は、冷蔵庫にあるもので簡単に済ませた。
ほうれん草を茹で、卵を焼き、豆腐の味噌汁を作る。
一人分の食卓。
テレビはつけなかった。
静かな部屋の中で、ごはんを食べながら、紡は今日の美咲との会話を思い出していた。
自分だけ保留にしている気がする。
美咲の言葉。
紡は、自分の人生を保留にしている。
でも今日、ほんの少しだけ保留を解いた気がした。
会社を辞めるとか、旅に出るとか、大きな決断にはまだ遠い。
それでも、投稿を二つした。
いいねが一つ付いた。
オフィスの窓から見える空を、ただの背景ではなく、自分の言葉に変えた。
それは小さいけれど、確かな変化だった。
食器を洗い、シャワーを浴び、髪を乾かす。
いつもの夜の動作を終えたあと、紡はもう一度ノートを開いた。
今日、書いておきたいことがあった。
「私は、まだ会社員だ。毎朝同じ電車に乗って、同じオフィスで働いている。けれど、同じ日々の中に、少しずつ違う光を見つけ始めている」
そこまで書いて、紡は少し考えた。
そして続けた。
「旅は、会社を辞めた日から始まるのではないのかもしれない。自分の心が動いたものを、なかったことにしないと決めた日から、もう始まっているのかもしれない」
書き終えたあと、紡はペンを置いた。
窓の外では、夜の街が静かに光っている。
遠くで電車の音がした。
朝は会社へ向かう音に聞こえたその音が、夜にはどこか遠くへ向かう音に聞こえる。
同じ電車の音なのに、心の向きで違って聞こえる。
紡はベッドに入り、スマートフォンを枕元に置いた。
寝る前にもう一度だけ、SNSを開く。
豆大福の投稿には、いいねが一つ。
夕焼けの投稿には、まだ何もない。
それでも、画面の中に二つの投稿が並んでいるのを見て、紡は小さく笑った。
何も始まっていないようで、始まっている。
誰にも気づかれていないようで、誰か一人には届いた。
明日になれば、また会社へ行く。
仕事もある。
会議もある。
美咲との何気ない会話もある。
香織の結婚式の準備も進んでいく。
現実は何も急には変わらない。
でも、紡の中で、現実の見え方が少しずつ変わり始めていた。
オフィスの窓から見える空。
それは、ただの勤務時間の背景ではなかった。
遠くの町へ続く、細い細い入口だった。
紡は目を閉じた。
胸の奥で、また足音がする。
昨日よりも、少し近い。
まだ小さい。
けれど、確かに聞こえる。
その足音は、遠くへ行きたいと急かす音ではなく、今いる場所からでも始められると教えてくれる音だった。
紡はその音を聞きながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。




