第9話:夜の独白
深夜だった。
村全体が眠っていた。アイリスも、ガリスも。子猫——ここ数日で「ルカ」という名前がついた——もアイリスの用意した籠の中で丸まっている。
シフォンだけが起きていた。
珍しいことだった。シフォンは夜中に水を飲みに起きることはあるが、それ以外はほとんど眠っている。しかし今夜は違った。縁側の端に座り、外の夜を見ていた。
夏の夜だ。虫が鳴いている。月が出ていた。
吾輩はシフォンの後ろで、同じく夜を見ていた。
この村に来て、一月半が経つ。魔力は順調に回復している。ルカが来てからシフォンの昼寝が少し短くなったが、それでも着実に蓄積は進んでいる。状況は悪くない。
悪くない——はずだ。
しかし今夜、吾輩は何か落ち着かない気持ちでいた。前回のルカの行動を見てから、何かが引っかかっている。うまく言葉にならない何かが。
シフォンが、ゆっくりと吾輩の方を向いた。
正確には、自分の影の方を向いた。月明かりの中で、シフォンの影が縁側の板に伸びていた——吾輩だ。
シフォンは金色の目で、吾輩を見た。
じっと、見た。
いつもと違う目だった。いつもは食べ物を要求する目か、眠そうな目か、何かに興味を持った目か——だが今夜の目は、そのどれでもなかった。
ただ、見ていた。
吾輩はこの一月半で初めて、シフォンに語りかけたいと思った。
聞こえないことはわかっている。わかっているが——今夜だけは、誰かに話したかった。誰も聞いていないから、話せることがあった。
吾輩は影の中から、声を出した。
音にはならない。影が声を発することはできない。しかし意識の中で、言葉を形にした。
「シフォン」
シフォンは動かなかった。当然だ。
「吾輩はな、かつて本当に世界を征服しようとしていたのだ」
月が少し傾いた。虫の声が続いている。
「笑うか? 笑えばいい。今の吾輩の有様を見れば、笑うのが正しいだろう。三大陸を手中に収めた魔王が、猫の影になって農村で暮らしておる。世界広しといえど、これほど情けない話はあるまい」
シフォンが尻尾をゆっくりと動かした。
「しかし——」
吾輩は少し間を置いた。
「吾輩が世界を支配しようとしたのには、理由があった。最初から悪になりたかったわけではない。そういうものではなかった」
月明かりの中で、シフォンの白い毛並みが光っていた。
「吾輩が生まれたのは、アルクス大陸の北の果ての、小さな村だった。今のウェスパル村より、さらに小さい。魔族と人間の境界に近い土地で、どちらからも疎まれ、追われ、焼かれた」
それは、誰にも話したことのない話だった。
魔王城にいた時も、大魔将たちにも、誰にも語らなかった。過去は過去だ。弱さは見せない。それが吾輩の在り方だった。
「魔力を持って生まれたから、人間の村では化け物扱いされた。しかし魔族のところへ行けば、純血でないと蔑まれた。どこにも居場所がなかった」
シフォンが少し体を動かした。
吾輩の方へ——正確には影の方へ——わずかに近づいた。
「それで吾輩は決めたのだ。どこにも居場所がないなら、全部支配してしまえばいい、と。どこも自分のものにしてしまえば、追い出される場所がなくなる。そういう、子供じみた論理だった」
吾輩は自分でそう言いながら、それが事実だと改めて認識した。
三大陸征服の根本にあったのは——恐怖だった。また追い出されることへの。また居場所を失うことへの。
強くなれば、誰も追い出せない。誰も追い出せないなら、どこにでもいられる。そう思っていた。
しかし実際に強くなって、支配して、玉座に座ってみれば——。
「支配した場所に、居場所はなかった。おかしな話だろう。全部手に入れても、どこにもいられなかった」
虫の声が、少し遠くなった気がした。
「玉座の上は、孤独だ。誰もが恐れ、誰もが従い、誰も本音を言わない。笑っている者は全員、恐怖から笑っている。怒っている者も、悲しんでいる者も、吾輩の前では全員、一種類の顔をしていた。『魔王様の前』という顔だ。本当の顔ではない」
シフォンがまた少し近づいた。
今や、シフォンは影のすぐそばに座っていた。月明かりで、シフォンの体と影が重なりそうになっていた。
「お前はな、魔王城の玉座の足元で、いつも寝ておったな」
吾輩は思い出した。
「誰が来ても起きなかった。将軍が報告に来ても、刺客が忍び込んでも、吾輩が魔法を試していても。ただ寝ておった。おまえだけが、玉座の間で吾輩に『魔王様の前』という顔をしなかった。顔が、そもそもなかったからな。ただ寝ておるだけだった」
シフォンの喉が、かすかに鳴った。
「猫だから、という話だ。わかっている。知性がないから恐れない、それだけの話だ」
吾輩はそう言いながら、本当にそれだけの話か、と思った。
昨日のルカが頭に浮かんだ。怖くても、唸られても、逃げられても、それでも近づいていった、あの子猫。
何が違うのか。
「しかし——」
言葉が、少し詰まった。
「お前が足元にいると、吾輩は少しだけ、落ち着いた。玉座の上でも、孤独ではない気がした。馬鹿らしい話だ。猫に慰められていた魔王など、世界の笑い者だ」
シフォンが、影の上にゆっくりと横になった。
吾輩の上に。
ふっくらとした白い体が、影の上に伸びた。尻尾が揺れた。目が細くなった。
「……お前は今、吾輩の話を聞いているのか?」
聞こえていないはずだ。
「まあいい。聞こえなくても構わん」
吾輩は続けた。
「今のウェスパル村が、吾輩の征服計画に組み込まれているとは言えぬ状況になってきた。正直に言えばな。アイリスは——あの子は、吾輩の存在を一度も恐れたことがない。知らないから、というのはわかっている。吾輩が魔王と知れば、恐れるだろう。しかしそれでも——」
月が頂点を過ぎた。少し傾いている。
「あの子が『シフォンが好きだよ、最初から』と言ったのを、吾輩はまだ覚えている。馬鹿げた話だ。なぜ覚えているのか、自分でもわからん。三大陸の戦略地図は完璧に頭に入っているが、農村の少女の一言がなぜ残っているのか、説明ができん」
シフォンが少し耳を動かした。
「神父のベルンも、厄介な男だ。『背負っておられるように見える』と言った。正確だ。吾輩は確かに背負っている。三大陸分の野望を。居場所のなかった少年の記憶を。何十年もかけて積み上げた支配の歴史を。それが今、猫の影の中に全部詰まっている」
吾輩は少し笑った。
笑い声にはならないが、概念として笑った。
「なんとも滑稽な話だ。そうは思わんか、シフォン」
シフォンの喉の音が、少し大きくなった。
「世界征服は、諦めていない。これははっきりしておく。吾輩はヴァルキスだ。諦めるような男ではない。必ず復活して、必ず——」
言葉が途切れた。
「……必ず、何をするつもりだったか」
吾輩は、考えた。
復活して。力を取り戻して。そして——何をするのか。また三大陸を征服するのか。また誰もが恐れる玉座に戻るのか。また、誰も本音で話しかけない、孤独な頂点に。
答えが、すっと出てこなかった。
以前は迷わなかった。目的は明確だった。征服し、支配し、恐れさせる。それだけだった。
なのに今は——ウェスパル村の夏の夜の空気の中で——その答えが、おぼろになっていた。
それが少し、怖かった。
揺らいでいる自分が、怖かった。魔王が揺らいでどうする。しかし同時に——揺らいでいない魔王の自分が、本当に何を目指していたのかも、わからなくなっていた。
シフォンが目を開けた。
月が大きく傾いていた。夜が深まっている。
シフォンは吾輩を——影を——もう一度見た。
それから、あくびをした。
大きく口を開けて、牙を見せて、目を細めて。そのまままた目を閉じた。
寝た。
吾輩はその寝顔を、しばらく眺めていた。
今夜吾輩が語ったことを、シフォンは何一つ聞いていない。聞いていないから、答えもない。何も変わっていない。
しかし不思議なことに——話してよかったと思った。
誰かに聞かせるためではなく、自分のために、言葉にしてみること。それが、こんなに久しぶりだったとは思わなかった。
玉座にいた時、吾輩は誰にも本音を言わなかった。言えなかった。弱さを見せれば隙になる。孤独を認めれば侮られる。そうやって何十年も、全部一人で抱えてきた。
今夜だけは、影の中で——誰にも聞こえない声で——少しだけ、降ろした。
シフォンが小さく「ぷるる」と鳴いた。眠りながら。
「うるさい」と吾輩は言った。
声にならない言葉で。
悪い気持ちではなかった。
夜明けが近づいていた。
東の空が、ほんのわずかに白み始めていた。
吾輩は今夜語ったことを、明日からも引きずるつもりはなかった。弱音は言った。それで終わりだ。明日からまた、計画を進める。魔力を蓄える。復活の道を歩む。
それが吾輩だ。
シフォンが、眠りながら少し体を動かした。影の上で、もぞもぞと。そして吾輩の上に、より深く収まるように位置を直した。
吾輩は何も言わなかった。
ただ、その温かい重みを——感じると言えば感じた気がする、という程度のことを——少しだけ、感じた。
夜明けまで、吾輩はそのままでいた。
計画の続きを考えながら。
シフォンの寝息を聞きながら。
それで十分だった。今夜は。




