第10話:聖獣祭が始まる
八月の半ばのことだった。
ベルン神父がアイリスの家を訪ねてきて、こう言った。
「来月の満月の夜、ウェスパル村にて第一回聖獣感謝祭を執り行うことになりました」
アイリスが目を丸くした。
「お祭り?」
「シフォン様が村においでになってから、井戸が修復され、麦が芽吹き、山賊が退散し、魔物が滅び、梅雨に晴れ間が差しました。これほどの御加護に、村として感謝の場を設けないわけにはいきません」
「それは……シフォンが喜ぶかな」とアイリスが言った。
シフォンは縁側で昼寝をしていた。
「聖獣様のご意向は、きっと賑やかなことをお好みになるはずです」とベルンが言った。
吾輩は影の中で、賑やかなことはまったく好まないということを知っていたが、言えなかった。
「ちなみに神父様、どんなお祭りにする予定なんですか」
「まず広場に聖獣様のお座りになる台座を設けます。村の全員が集まり、感謝の祈りを捧げます。それから聖獣様の御名のもとに宴を開き、歌い、踊り、夜明けまで賑わいます」
「夜明けまで」とアイリスが繰り返した。
「夜明けまでです」とベルンが力強く言った。
吾輩は深呼吸した。
それから約一ヶ月、村は祭りの準備で沸いた。
広場の中央に台座が作られた。大人の腰ほどの高さの石造りで、上には赤い布が敷かれた。村の職人が彫刻を施し、四隅に聖獣を示す紋章まで刻んだ。本格的だった。
旗が作られた。シフォンを模した白い猫の絵の描かれた旗が、村中に飾られた。シフォンの絵の出来は村人によってまちまちで、中には謎の生き物にしか見えないものもあったが、全員が善意で作ったものなので誰も指摘しなかった。
献上品が集められた。上等な食材、珍しい布、遠くの街から取り寄せた香料。それが全部、「シフォン様への捧げ物」として広場の片隅に積み上げられた。
「シフォン、有名になりすぎ」とアイリスが苦笑いしながら言った。
シフォンはルカと縁側でじゃれ合いながら、聞いていなかった。
ルカはすっかり家の一員になっていた。今やシフォンを「兄さん」と思っているのか「おもちゃ」と思っているのか判断に困る付きまとい方をしていた。
シフォンは時々本気で嫌そうな顔をしていたが、追い払う気もないらしかった。
吾輩は、ルカが来てからこの家が少し賑やかになったことに、悪い気持ちはしていなかった。
祭りの当日が来た。
満月の夜は、信じられないほど月が明るかった。広場に篝火が焚かれ、その明かりと月明かりで、夜なのに昼のように明るかった。村の全員が集まり——いや、噂を聞きつけた近隣の村人まで加わって、いつもの三倍の人間が広場に詰めかけていた。
吾輩は、その規模を見て溜息をついた。
アイリスがシフォンを抱えて広場に入ると、割れんばかりの歓声が上がった。
「聖獣様だ!」
「シフォン様がおいでになった!」
「ありがたや!」
シフォンは、その歓声を聞いてアイリスの腕の中で体を固くした。音が嫌いだ。騒がしいのが嫌いだ。
吾輩はシフォンの緊張を感じながら、これは長い夜になると悟った。
ベルンが台座の前に進み出た。
「皆さん、本日は第一回聖獣感謝祭にお越しいただき、ありがとうございます!」
歓声。
「この三ヶ月、シフォン様は様々な奇跡をもってウェスパル村を守ってくださいました!」
さらに大きな歓声。
「今宵は聖獣様への感謝を捧げ、村人一同で賑やかにお祝いいたしましょう!」
最大の歓声。
シフォンが吾輩の影を見下ろした。何かを訴えるような目だった。
吾輩には何もできなかった。影だから。
シフォンが台座の上に置かれた。
アイリスに促され、台座の上にそっと降ろされたシフォンは、まず赤い布の匂いを嗅いだ。それから台座の端まで歩いて、広場全体を見回した。
無数の人間が、シフォンを見ていた。
シフォンが固まった。
「シフォン様、台座にお座りになった!」とベルンが声を上げた。
「神々しい!」
「お美しい!」
シフォンは台座の上で、どうすべきか迷っている顔をしていた。吾輩にはわかった。逃げ場がないと思っているのだ。台座の上から飛び降りれば人間の波の中に入ることになる。それも嫌だ。
やがてシフォンは、一つの結論を出した。
台座の上で、くるりと丸まった。
寝た。
人々が息を呑んだ。
「シフォン様が、台座で御休みになった……」
「なんと神聖な……」
「祭りを見守りながら、お心安らかにしておられる……」
吾輩はこの上なく脱力した。
騒音から逃げるために寝たのだ。
神聖でもなんでもない。
しかしベルンが「祭りを始めましょう! 聖獣様の御前で!」と叫ぶと、村人が一斉に動き出した。歌が始まり、踊りが始まり、食べ物が運ばれ、酒が振る舞われた。
シフォンは台座の上で、その喧騒を全部ふさいだように眠り続けた。
猫の耳は音に敏感なはずなのに、どうやら「自分に関係ない音は聞かない」という技を持っているらしかった。
祭りは深夜まで続いた。
途中で子供たちが台座の周りを走り回り、誰かがシフォンを撫でようとするたびに村の大人が「聖獣様がお眠りの最中です!」と止めていた。
吾輩は子供たちを止める大人たちに、珍しく感謝した。
月が高くなり、篝火が少し小さくなった頃、アイリスが台座のそばに腰を下ろした。
周りの賑わいから少し距離を置いて、台座の上で眠るシフォンを眺めていた。
「シフォン」とアイリスが小さく言った。
「疲れてない?」
シフォンは眠っていた。
「みんな、シフォンのこと大好きだよ」
シフォンは眠っていた。
「私も」
アイリスがそう言って、台座に頬杖をついた。シフォンの白い毛並みを、そっと一度だけ指先で触れた。
「シフォンがうちに来てから、なんか色々変わったよ。村も、うちも。なんかさ、毎日が面白くなった」
シフォンがむくりと頭を上げた。
アイリスを見た。
「あ、起こした?ごめん」
シフォンは返事をしなかった。しばらくアイリスを見て、それからまた頭を下ろした。しかし今度は、頭をアイリスの手の上に乗せた。
アイリスが少しだけ驚いた顔をした。それから、静かに笑った。
「重い」と言いながら、動かさなかった。
吾輩はその光景を、影の中から眺めていた。
台座の上のシフォン。台座の横のアイリス。月明かりと篝火の混じった光の中で、二人は静かにそこにいた。
吾輩は、何かを感じた。
うまく言葉にならない何かを。
怒りではない。焦りでも、焦燥でも、征服への渇望でもない。
もっと——静かな何かだった。
夜明け近く、村人たちが一人また一人と家へ帰り始めた。
ルカはガリスに抱えられてとっくに家に連れ帰られていた。残ったのは、台座のそばで眠りかけているアイリスと、台座の上のシフォンだけになった。
ベルンが最後に広場を見回しながら、台座に近づいてきた。
「アイリスさん、今夜はありがとう」
「はい……」とアイリスが眠そうに答えた。
「シフォン様は——」とベルンが台座を見た。
「今夜も、お変わりない様子だ」
「お祭り、楽しんでくれてたかな」
「きっと」とベルンが言った。
「聖獣様は、いつもちゃんと見ておられる」
ベルンが帰った。
アイリスが「帰ろうか、シフォン」と言って、台座からシフォンを抱き上げた。
シフォンはされるがままに抱き上げられ、アイリスの肩に顎を乗せた。
家に帰る途中、広場の篝火が風に揺れた。シフォンの影が地面に伸びた——吾輩だ。満月の夜の影は濃く、くっきりと輪郭が出た。
アイリスがふと、影に目を向けた。
「ねえ、シフォン」とアイリスが言った。
「シフォンの影って、なんか……違うよね、形が。いつ見ても、なんか普通の猫の影じゃない気がして」
シフォンは答えなかった。
「気のせいかな」
アイリスが笑った。
「まあ、聖獣様だしね」
そう言って歩き続けた。
吾輩は——その言葉に、少しだけ動揺した。
気のせいではない。本当に普通の猫の影ではない。しかしアイリスは「気のせいかな」と言って、笑って、歩いていった。
追及しない。怖がらない。
ただ「そういうものか」と受け入れる。
なぜそうできるのか——吾輩にはわからなかった。
家に帰り、シフォンが敷物の上に下ろされた。ルカがすぐに寄ってきて、くっついて眠り始めた。アイリスがランプを消した。
村が静かになった。
祭りの賑わいが、嘘のように静かな夜になった。
吾輩はその静寂の中で、今夜のことをゆっくりと整理した。
三ヶ月が経った。
世界征服の計画は、ほとんど進んでいない。
魔力は回復しているが、まだ一割半だ。
しかし——確かに何かが変わってきている。吾輩の中で。
何がどう変わったのか、まだ言葉にならない。
ただ、ひとつだけわかることがある。
この村に来て、吾輩は初めて「居場所」というものに似た何かを、感じ始めているかもしれない。
玉座の上では感じられなかった、あの何かを。
吾輩はその考えを、すぐに打ち消した。
馬鹿げた話だ。居場所など、関係ない。
吾輩には計画がある。目的がある。
しかし——打ち消した後で、また浮かんできた。
シフォンの喉の音が聞こえた。ルカの小さな寝息も聞こえた。
吾輩はそれを聞きながら、第一章が終わるような感覚をおぼえた。何かが変わる前の、最後の静かな夜のような。
明日から、また新しいことが始まるのかもしれない。
今はまだ、眠ろう。




