第11話:隣村への遠征
夜空の月が、満ちてはまた欠けていくように。
吾輩がただ時を待つだけだった日々は終わりを告げ、運命の歯車は音を立てて次の位置へと回り始めていた。ウェスパル村での平穏な暮らしは、ひとつの節目を迎えつつあったのだ。
秋が来た。
アルクス大陸の秋は早い。夏の終わりとともに空気が変わり、朝晩に冷え込みが来て、草原の草が黄色みを帯び始める。村では麦の収穫が終わり、保存食の準備が始まった。
シフォンの毛が、心なしか少し厚くなった気がした。
吾輩の魔力は、いまや討伐前の二割ほどまで回復していた。影の外への干渉ができるようになり、遠くの気配を探ることも、薄い魔力の幕を張ることも、以前より格段にやりやすくなっていた。
そして——世界の情報が、少しずつ入ってくるようになっていた。
勇者ライオスが「魔王の魂の痕跡」を探して大陸を回っているという噂。散り散りになった魔族の残党が、各地で小さな騒動を起こしているという話。王都では新しい王が即位し、「魔王なき新時代」を宣言したという報せ。
世界は動いていた。
吾輩だけが、農村で猫の影をしていた。
事の発端は、シフォンの気まぐれだった。
ある朝、シフォンが朝食を食べた後、いつもと違う方角へ歩き出した。
アイリスの家から村の中心部へ向かうのが日課だったが、その日シフォンはなぜか、村の南の出口へ向かった。村境の石積みの低い塀を軽々と飛び越え、南へ続く街道に出た。
吾輩は引きずられながら、状況を把握した。
南の街道を行けば、半日ほどで隣村のミルダ村に着く。その先は街道が分かれ、王都方面と港町方面に分岐する。シフォンがどこへ向かうつもりかは、吾輩にも見当がつかなかった。
おそらくシフォン自身にも、わかっていなかった。
ただ、今日は南へ行きたかっただけだろう。
「……まあ、いい」と吾輩は思った。
ウェスパル村だけにいては情報が限られる。外の世界を少し見て回るのも、計画のためには必要だ。
そういうことにした。
街道は整備されていた。
石畳が敷かれ、両脇に並木がある。秋の陽光が木の葉を透かして降り注ぎ、落ち葉が風に舞っていた。
シフォンは街道をのんびりと歩いた。急ぐ様子は全くない。匂いが気になれば立ち止まり、木の根元を調べ、道端の草をちょいちょいと叩き、また歩く。
吾輩はその歩みに付き合いながら、周囲の魔力の流れを探っていた。
この街道の地脈は、ウェスパル村のものより少し細い。しかし質が良かった。古い時代の魔力が蓄積した、熟成した流れだ。吾輩はほんの少しだけそこから吸収しながら、歩いた。
正午過ぎ、前方に人の気配がした。
街道を歩いてくる人物が三人。旅の商人のようだ。荷馬車を引いている。
商人たちはシフォンを見て目を丸くした。
「猫? 一人で歩いてる?」
「真っ白い猫だ。首輪もないな」
「迷子か?」
シフォンは商人たちを一瞥して、道を開けて脇を通り過ぎた。
商人の一人が思い出したように叫んだ。
「待って! もしかしてウェスパル村の……聖獣様では!?」
シフォンは振り返らなかった。
「聖獣様だ! 本当に白くてふわふわだ!」
「街で聞いた話と同じだ!」と商人たちがざわついている間に、シフォンはすたすたと歩き続けた。
吾輩は「街で聞いた」という言葉が気になった。村どころか、都市レベルまで噂が届いているということだ。
それは吾輩を守る盾になる——聖獣として広く知られるほど、勇者たちも手出しがしにくくなる。計画通りだ。
シフォンはその間もひたすら南へ歩いていた。計画など何もなく、ただ今日は南へ行きたかっただけだろう。
ミルダ村に着いたのは、午後の早い時間だった。
ウェスパル村より少し大きい村で、街道沿いに宿屋と小さな市場がある。村人が行き交い、荷馬車が往来していた。
シフォンは村の入り口でひとまず立ち止まり、匂いを嗅いだ。
この村の匂いを吾輩も探った。人の匂い、食べ物の匂い、家畜の匂い——そして、かすかに、魔物の匂い。
吾輩は意識を集中させた。
東の方角だ。村の外れの、森に近い場所。複数の気配がある。ウェスパル村で遭遇したゴブリン種とは少し違う——より凶暴な系統の小型魔物だ。数は七、八体か。
村人たちはそれに気づいていないのか、それとも気づいていて怯えているのか——市場を行き交う人々の顔に、確かに緊張の色が見えた。
シフォンが、東の方角に歩き始めた。
吾輩は、また溜息をついた。
また匂いを嗅ぎつけたか。シフォンの鼻は、吾輩の魔力探知に劣らず鋭い。
「……今回は、制御する」
吾輩は決意した。前回のように暴走させない。魔力を慎重に絞り込み、狙いを定めて、必要最小限の力だけ使う。そうすれば誤発射も起きない。シフォンが余計なことをしても、吾輩がきちんと制御すれば問題ない。
練習だ。魔力制御の練習。
シフォンが森の手前で立ち止まった。
低い茂みの向こうから、うごめく気配がした。
シフォンが低い姿勢をとった。耳が前を向いた。
吾輩は魔力を集中させた。慎重に、丁寧に、細く絞り込んで——。
茂みから、魔物が飛び出してきた。
予想より速かった。三体が同時に跳躍した。
シフォンが反射的に飛び退いた。
その瞬間、吾輩が絞り込もうとしていた魔力が、衝撃で僅かに散った。
僅か、だった。前回の「くしゃみ一発で全滅」に比べれば、比較にならないほど小さな乱れだ。しかし乱れた魔力は——やはり暴走した。
ドン、という鈍い音が三回した。
三体の魔物が、それぞれ別の方向に吹き飛んだ。残りの五体が、それを見て森の奥に逃げ込んだ。
「……」
吾輩は沈黙した。
制御した。ほぼ制御した。三体だけ吹き飛んで、五体は逃げた。死者も出ていない。これは、改善だ。前回より遥かに良い結果だ。
シフォンは飛び退いた姿勢のまま、飛び去った魔物の方向を見ていた。それから何事もなかったように尻尾を立て、村の方へ引き返し始めた。
ミルダ村に戻ると、騒ぎになっていた。
森の方角で音がしたのを聞いた村人が、何人か集まっていた。
「何の音だ?」
「魔物か?」
「白い猫が……森の方から帰ってきた!」
最後の一声で、全員がシフォンに注目した。
「あの猫、ウェスパル村の聖獣じゃないか?」
「聖獣様がミルダ村に来てくださった!」
「魔物を追い払ってくださったのか!?」
シフォンは騒ぎを無視して、市場の方へ歩いていった。市場には食べ物の匂いがする。それだけが目的だった。
吾輩は引きずられながら、ミルダ村の村人たちの顔を見た。
怯えが薄れていた。
さっきまで緊張していた顔が、少し緩んでいた。魔物の気配が——厳密には三体が吹き飛び、残りが逃げたことで——薄くなったのを感じているのかもしれない。
市場では、シフォンが干し魚の屋台の前で立ち止まり、屋台のおやじを見上げた。
おやじが呆気にとられた顔でシフォンを見た。
「……聖獣様?」
「ミャア」とシフォンが言った。
おやじは何も言わずに、干し魚をひとつまみ、シフォンの前に差し出した。
シフォンが食べた。
「ありがたや……」とおやじが手を合わせた。
吾輩は何も言わなかった。
帰り道、夕暮れの街道を歩きながら、吾輩は今日の収穫を整理した。
魔力制御の改善:確認できた。前回より遥かに精度が上がっている。暴走の規模を限定的に抑えることができた。
情報収集:聖獣の噂が街道沿いの都市レベルまで広まっていることを確認。これは吾輩の守りになる。
ミルダ村の魔物の脅威:暫定的に軽減。ただし根本解決ではない。
収穫は多かった。
しかしそれとは別に——予期していなかったものが、今日の吾輩の中に残っていた。
空だ。
街道を歩きながら、吾輩はずっと空を見ていた。正確には空を見る目がないが、意識として、上を向いていた。秋の空は高く、雲が薄く長く伸びて、夕日に染まって橙と紫が混じっていた。
吾輩はかつて、この大陸の全てを地図として見ていた。制圧すべき土地。利用すべき地脈。駆逐すべき人間の国々。それが吾輩の世界の見方だった。
しかし今日の帰り道、吾輩は地図ではなく、景色を見ていた。
秋の街道。黄色く染まった並木。遠い山の稜線。それらを、ただ——きれいだと思っていた。
吾輩は三大陸を征服した魔王だ。きれいなどという感想を持つような存在ではない。
しかし、思った。
シフォンが立ち止まって、落ち葉をちょいと触った。くるくると転がる葉を見て、もう一度触った。それから少し追いかけて、また触った。意味のない行為だ。しかし、止まらなかった。
吾輩はその様子を眺めた。
悪くない一日だった。そう思って、すぐに「計画の進捗を確認しなければ」と考え直した。しかし、それは明日でもいいかもしれない、とも思った。
ウェスパル村の灯りが見えてきた。石造りの家々の窓から、夕食の支度の灯りが漏れていた。煙突から煙が上がっていた。
シフォンが村の方へ、少し足を速めた。
帰りたいのかもしれない。家に。アイリスのいる場所に。
吾輩も——少しだけ、同じ気持ちだった。
認めたくはなかったが、否定もできなかった。
アイリスは扉の前で待っていた。
「シフォン! どこ行ってたの、心配したよ!」
シフォンがアイリスに駆け寄って、足元に体を擦り付けた。
「ミルダ村の方で何かあったって話が来てたけど……シフォンが関係してる?」
シフォンは「ミャア」と鳴いた。
「そっか」とアイリスが笑いながら抱き上げた。
「無事でよかった。遠くに行くなら一緒に連れてって」
シフォンがアイリスの肩に顎を乗せた。
吾輩は二人を見ながら、明日から少しずつ行動範囲を広げることを考えた。世界の情報をもっと集める。魔力の回復を加速させる。計画を前進させる。
そのためにも、シフォンが外に出たがる日は——好都合だ。
ただそれだけの話だ。
帰りたかった、などという話は、していない。




