第8話:子猫の侵略者
雨季が明けて、夏になった。
季節が変わっても吾輩の日常は変わらない。シフォンが起きれば吾輩も動く。シフォンが眠れば吾輩は魔力を吸収する。シフォンが「ミャア」と言えば吾輩は影から腕を出して食べ物を届ける。それが日課になっていた。
魔力の回復は順調だった。討伐前の一割五分ほどまで戻ってきた。影から腕を出す程度なら魔力の消耗をほとんど感じなくなり、遠くの気配を探ることも少しずつできるようになってきた。
世界征服への道は、まだ遠い。
しかし、急ぐことはない——と、いつからか、そう思うようになっていた。
それが良いことかどうかは、吾輩にも判断がつかなかった。
事件が起きたのは、夏の盛りのある朝のことだった。
アイリスが外から帰ってきた。いつもより少し早い帰宅で、何かを抱えていた。
「ただいまー。あのね、お父さん」
ガリスが畑仕事から戻ってきたばかりで、石段で一休みしていた。
「村外れの納屋のそばに、子猫がいたんだよ。一匹で、お母さんもいなくて、すごく痩せてて」
ガリスが腰を上げかけたが、アイリスがすでに抱えているものを見せた。
子猫だった。
生後二月かそこらの、小さな猫だ。毛色は薄い茶色と白のまだら、目は大きくてまだ少し青みがかっている。アイリスの腕の中でじっとしていたが、震えていた。怯えているのか、寒いのか。
「捨てられてたのか、はぐれたのか……とにかく一人じゃ無理だと思って」とアイリスが言った。
「少しの間だけ、置かせてほしい」
「シフォンが嫌がらなければな」とガリスが言った。
シフォンは——その時、台所の椅子の上で昼寝をしていた。
アイリスが子猫を抱えたまま台所に入り、そっと椅子の前に近づいた。
「シフォン、お客さん来たよ」
シフォンが片目を開けた。
子猫を見た。
両目が、かっと開いた。
シフォンの変化は劇的だった。
昼寝の余韻など一瞬で消え飛び、椅子の上で体を起こし、毛を逆立てた。尻尾が二倍の太さになった。耳が横に倒れた。目が細くなった。
「ウ゛ッ」
低い唸り声が出た。
子猫はアイリスの腕の中で、その唸りを聞いてさらに震えた。
「シフォン、怖がらせないで」とアイリスが言った。
「この子、弱ってるんだよ」
シフォンは聞かなかった。椅子から降り、ゆっくりと子猫の方へ歩き始めた。威嚇の歩き方だ。体を横向きに見せて、自分を大きく見せながら、じりじりと近づく。
「シフォン!」
シフォンが立ち止まった。アイリスの声には反応する。しかし目は子猫から離さなかった。
吾輩は状況を把握した。
縄張りへの侵入者に対する、本能的な拒絶反応だ。シフォンにとって、アイリスの家は自分の領域だ。そこに見知らぬ猫が現れれば、警戒するのは当然の話だ。
しかし——この子猫は、本当に小さかった。
シフォンの半分もない。震えていて、目を細めて、できるだけ存在を消そうとしているように見えた。
吾輩には関係のない話だ。猫同士の問題だ。
しかし、なぜか、この子猫がシフォンに何かされるという場面を、吾輩は想像したくなかった。
これも実務的な問題だ。アイリスの家が騒がしくなれば、吾輩の魔力吸収に支障が出る。だから穏便に解決するに越したことはない。
吾輩は影から薄く魔力を放出した。シフォンの周囲の空気を、ほんのわずかだけ変えた。
シフォンが、立ち止まったまま、ぴくりとした。
魔力を感知したのかもしれない。あるいは単に気が変わっただけかもしれない。シフォンは子猫を一睨みしてから、くるりと踵を返し、居間の奥へ歩いていった。
そのまま、いつもの敷物の上にどさりと横になり、吾輩の影の上に収まった。
子猫には近づかない、という選択をしたらしかった。
「よかった」とアイリスが息をついた。
「シフォン、ありがとうね」
シフォンは返事をしなかった。尻尾だけが、ぱたぱたと不機嫌そうに揺れていた。
問題はその後だった。
子猫がアイリスの腕から降りた。
最初は怖がって動かなかったが、しばらくすると台所の隅をそろそろと歩き始めた。匂いを嗅ぎながら、慎重に、少しずつ範囲を広げていく。アイリスがミルクをやると、恐る恐る飲み始め、やがて夢中になった。
シフォンはその様子を、居間から睨み続けていた。
動かない。ただ睨む。
子猫がミルクを飲み終わり、台所の真ん中でぺたんと座った。そこが気に入ったらしかった。
シフォンの尻尾がぱたぱたの速度を上げた。
子猫が——台所から居間の方を覗いた。
シフォンと目が合った。
子猫は一秒、固まった。
それから「ミャッ」と鳴いた。
高くて、短くて、何の含みもない声だった。ただの挨拶のような声だった。
シフォンは答えなかった。唸りもせず、動きもせず、ただ目を細めてその子猫を見続けた。
子猫は気にせず、今度は居間の方へそろそろと歩き始めた。
「あっ」とアイリスが言った。
「シフォンのとこに行っちゃう」
吾輩も注目した。
子猫が居間に入ってきた。シフォンのいる敷物まで、三歩、二歩、一歩——。
子猫がシフォンの前で止まった。
シフォンが低い唸りを出した。
「ウ゛ー」
子猫は唸りを聞いた。
そして——シフォンの隣に、ちょこんと座った。
シフォンが唸るのをやめた。
驚いたように、子猫を見た。
子猫は何事もなかったように、前足を舐め始めた。
シフォンは——どうすべきかわからない顔をしていた。吾輩にはシフォンの表情が読めるようになってきていたが、今の顔は「想定外の状況に処理が追いつかない」という顔だった。
吾輩も、少し驚いていた。
それからが、大変だった。
子猫は全く臆さなかった。
シフォンが唸れば、しばらくしてからまたにじり寄る。シフォンが立ち上がって別の場所に移れば、しばらくしてからそこまでついてくる。シフォンが高いところに逃げれば、子猫は下から見上げて「ミャッ」と鳴く。シフォンが無視すれば、子猫はシフォンの周りをうろうろして、最終的にシフォンの隣に座る。
午後ずっと、そのパターンが繰り返された。
シフォンが棚の上に逃げた。子猫は棚には登れない。やっと静かになった——と思ったら、子猫が棚の下でちょこんと座り、上を向いて「ミャッ」「ミャッ」と鳴き続けた。
シフォンは棚の上から見下ろしていた。
吾輩はその光景を眺めながら、「なぜ逃げた先でも鳴かれているのか」という疑問を持った。子猫に悪意はない。ただ、シフォンのそばにいたいだけらしい。なぜシフォンのそばにいたいのかは、吾輩には理解できなかったが。
シフォンが棚から降りた。降りると子猫がまた寄ってくる。シフォンがまた唸る。子猫が無視して隣に座る。
このサイクルが三時間続き、シフォンの尻尾のぱたぱたは止まらなかったが、唸り声は少しずつ小さくなった。
疲れたのかもしれない。
それとも——諦めたのかもしれない。
夕方、アイリスが夕食の用意をしている頃、子猫はシフォンの隣でうとうとし始めた。小さな体が、シフォンの白い毛並みに少し触れていた。
シフォンは触れられた箇所をじっと見た。
どかそうとはしなかった。
吾輩はその様子を眺めながら、一つのことを思った。
この子猫、なかなか胆が据わっている。
恐怖を感じていないわけではないだろう。最初はあれほど震えていた。しかし怖くても、それでも近づいていった。唸られても、逃げられても、諦めなかった。
なぜそうできるのか——吾輩にはわからなかった。
吾輩はかつて、恐怖を武器として使ってきた。恐怖こそが支配の根幹だと信じていた。恐れる者は従い、恐れない者は敵だ。それが吾輩の論理だった。
しかしこの子猫は、シフォンを恐れながらも、それでも隣に座った。
それはどういう論理なのか。
わからなかった。ただ、何かが吾輩の中に引っかかった。
夜、子猫は結局アイリスの家に泊まることになった。
ガリスが「一晩だけな」と言い、アイリスが「うん、一晩だけ」と言い、しかし二人とも子猫に向ける顔が緩んでいたので、一晩だけで終わる気がしなかった。
子猫はアイリスが用意した籠の中に入り、すぐに眠った。疲れていたのだろう。
シフォンは——居間の敷物の上で、いつもの場所に落ち着いた。
吾輩の影の上に。
ただし今夜は、シフォンの体がいつもより少し緊張していた。耳が微妙に動いている。籠の中の子猫の気配を、ずっと追っていた。
吾輩は魔力を集中させて、地脈から吸収を試みた。今夜は静かだ。シフォンは動かない。
集中はできた。
しかしシフォンの緊張が、影を通じてかすかに伝わってくる気がした。影に感覚はない。そのはずだ。しかしなぜか、シフォンが何かを気にしているということが、わかった。
半刻ほどして、シフォンが静かに立ち上がった。
吾輩は警戒した。また動き回るのか。
シフォンは、子猫の籠のそばまで歩いていった。
籠を覗き込んだ。
子猫は眠っていた。小さな胸が上下している。すっかり安心した顔で、丸まっていた。
シフォンはしばらくそれを見ていた。
長い時間、見ていた。
吾輩も見た。
小さな生き物が、知らない場所で、それでも安心して眠っている。今日一日、怯えながらも諦めずにシフォンのそばに来続けた、あの子猫が。
シフォンは、籠のすぐ隣に座り、そこで丸まった。
吾輩はその行動の意味を考えた。
縄張りを守っているのか。それとも、監視か。あるいは——。
答えは出なかった。ただ、シフォンは子猫の籠の隣で眠り始めた。静かに、穏やかに。
吾輩は魔力の吸収を再開した。
今夜は、よく集中できた。
翌朝、子猫が目を覚ました時、最初に見えたのはシフォンの白い毛並みだったはずだ。
子猫が「ミャッ」と鳴いた。
シフォンが目を開けた。
一瞬の沈黙。
シフォンが子猫の頭を、一度だけ舐めた。
素早く、短く、それだけだった。
それからシフォンはさっと立ち上がり、台所へ朝食を食べに行った。何事もなかったかのように。
吾輩はその一部始終を見ていた。
子猫は舐められた頭の場所を、不思議そうに前足でさわさわと触っていた。
アイリスが台所から顔を出した。
「あれ、シフォン、子猫のお世話してた?」
シフォンは「ミャア」と一声鳴いて、食器の前に座った。腹が減った、という意味だ。
「はいはい、今あげるよ」
アイリスが笑いながら言った。
吾輩は——シフォンが子猫を一度だけ舐めた、あの瞬間を、どう解釈するか迷いながら——やはり解釈するのをやめた。
猫というのは、思ったより複雑な生き物らしい。
魔王である吾輩が言うのも妙な話だが——そう、思った。




