第7話:雨と魔王と猫の憂鬱
雨季が来た。
アルクス大陸の春の終わりには、必ず長雨の季節がある。一週間、時には二週間も雨が続く。農夫にとっては恵みの雨だが、猫にとっては違う。
シフォンは雨が嫌いだった。
雨が降り始めた初日から、シフォンの機嫌は目に見えて悪くなった。縁側に座って外を眺め、降り続ける雨を睨みつけ、時折「ウ゛ー」という低い声を出した。誰かに向けた唸りではなく、「雨」そのものへの抗議だった。
吾輩はその隣で、雨を眺めていた。
雨は嫌いではない。正確には、今は影なので感覚がない。ただ、記憶の中の雨は——静かで、悪くないものだった。魔王城の窓から、雨に煙る山を眺めていたことがある。あの頃は、雨の日だけは征服の計画を一休みして、ただ外を眺めることがあった。
シフォンがまた「ウ゛ー」と言った。
吾輩は気づいた。このままでは、シフォンは一日中縁側に座って機嫌が悪いままだ。機嫌が悪いシフォンは落ち着かない。落ち着かないシフォンは、突然動き出す。突然動き出すと、吾輩の魔力が——。
つまり、これは実務的な問題だ。
シフォンの機嫌を直すことは、吾輩の魔力管理のために必要だ。そういうことだ。
二日目の朝、雨はさらに強くなった。
シフォンは朝食もそこそこに縁側へ行き、また雨を睨んだ。アイリスが「シフォン、今日も雨だよ。お外は無理だよ」と声をかけたが、シフォンは無視した。
雨への抗議を続けていた。
吾輩は魔力を使って雨雲を動かすことができるか、考えた。
天候操作は高度な魔法だ。本来の力があれば容易いが、今の吾輩の回復量では、せいぜい局所的な雨雲を薄くする程度が限界だろう。しかし試してみる価値はある。
吾輩は静かに魔力を集中させた。
シフォンは縁側で静止している。今なら集中できる。
雨雲に意識を伸ばした。大気の流れを読む。雨雲の端を掴んで、少しだけ動かす——。
シフォンが「ウ゛ー」と唸った。
集中が乱れた。
吾輩は仕切り直した。再び意識を集中させた。雨雲に手を伸ばし——今度はもっと慎重に——引っ張る——。
シフォンが立ち上がって伸びをした。
また乱れた。
「動くな! もう少しだけ静止しておれ!」
聞こえない。当然だ。
シフォンは伸びを終えて、また座った。再び雨を睨み始めた。
吾輩は三度目の集中を開始した。今度こそ——。
雨雲に触れた。
大気の流れを感じた。雨雲は思ったより動かしやすかった。長雨の雲は厚く重いが、端を掴めばずらすことができる——そう感じた瞬間に、吾輩は欲を出した。
少しだけでなく、もう少し大きく動かせば、村全体の雨が止む。シフォンが外に出られる。シフォンが満足すれば機嫌が直る。機嫌が直れば昼寝をする。昼寝をすれば吾輩が魔力を吸収できる。
完璧な計画だ。
吾輩は力を込めた。
ドカン、という感覚があった。
比喩ではなく、大気の中で何かが弾けた感触だった。
吾輩が掴んでいた雨雲の端が、予想以上の速さで動いた。一つの雲が動くと、周囲の雲の気流が乱れ、連鎖して別の雲も動き始めた。制御しようとしたが、天候の魔法は一度始まると慣性がつく。吾輩の力では途中で止められなかった。
雲が——割れた。
ウェスパル村の上空だけ、円形に雲が切れ、青空が覗いた。
そして、雨上がりの日光と残る霧雨の境界線で——虹が出た。
一本ではなかった。
三本。
村の東から西にかけて、鮮やかな虹が三本、それぞれ角度を変えて空にかかった。吾輩の制御が乱れたせいで、光の屈折が複数箇所で起きたのだ。
村人が家から飛び出してきた。
「虹だ!」
「三本も!?」
「こんなの見たことない!」
「聖獣様だ! 聖獣様のお力だ!」
最後の一声で、広場が歓声に包まれた。
シフォンは縁側から、その騒ぎを眺めていた。
雨は止んでいた。円形の青空は直径百メートルほどで、ちょうど村全体を覆っていた。その外側では相変わらず雨が降っていたが、村の中だけは乾いた春の風が吹いていた。
シフォンが立ち上がった。
縁側から飛び降りて、外に出た。
地面の匂いを嗅いだ。草の上を歩いた。尻尾を立てて、広場の方へ歩き始めた。
機嫌が直っていた。
吾輩はその後を引きずられながら、三本の虹を見上げた。
なぜ三本なのか。一本で十分だった。三本は過剰だ。しかし今さらどうしようもない。
「なぜ虹が三本も出るのだ」と吾輩は独りごちた。
村人が次々とシフォンに駆け寄ってきた。
「シフォン様! 虹を出してくださったんですか!?」
「三本ですよ! 三本! 普通は一本なのに!」
「聖なる数だ! 神が三を尊ぶのと同じ!」
シフォンは全員を無視して、広場の水たまりの周りを歩いていた。水たまりに近づき、前足で水面を一度だけちょんと叩き、冷たさに驚いて飛び退いた。
村人がどよめいた。
「聖獣様が水を祓われた!」
違う。ただ触って驚いただけだ。
吾輩はもはや何も訂正する気になれなかった。
ベルン神父がやってきたのは、昼前のことだった。
円形の青空はまだ消えていなかった。老神父は空を見上げ、虹を見上げ、それからシフォンを見た。
「三本の虹」とベルンは静かに言った。
「これは古い伝承にあります。大いなる加護の証。三は過去・現在・未来を意味する。つまりこの村は、永久に守られるということだ」
村人がまた歓声を上げた。
吾輩は影の中で、三本になったのは単に吾輩の制御が甘かっただけだ、と思ったが、黙っていた。
アイリスがシフォンを抱き上げながら言った。
「シフォン、虹出したの?」
シフォンは「ミャア」と言った。
「すごいじゃん」とアイリスが笑った。
「なんか今日、外に出たかったの?」
シフォンがまた「ミャア」と言った。
「そっか。出たかったんだね」
アイリスがシフォンを見て、少し真剣な顔をした。
「シフォンってさ……雨が嫌いだったんだよね」
シフォンが耳を伏せた。図星らしかった。
「雨、嫌だったんだね。だから止めてくれたんだ」
アイリスが優しく頭を撫でた。
「ありがとね、シフォン」
吾輩は——その「ありがとう」が、少しだけ自分に向けられたように感じた。
事実、雨を止めたのは吾輩だ。シフォンの機嫌を直したくて。いや、実務的な理由で——。
まあ、いい。
三日目、四日目と、吾輩は毎日少しずつ雨雲を操作した。三日目の虹は二本、四日目は一本——着実に制御が上達していた。
村人は虹の本数に毎日異なる意味を見出して感謝し、ベルン神父が「三は豊穣、二は調和、一は統一を意味する」と日替わりで解説していた。
吾輩には関係のない話だ。
シフォンは四日連続で外に出られて、この上なく満足していた。昼食後の昼寝の時間が、心なしか長くなった気がした。吾輩はその間に地脈から魔力を吸収した。消耗と回収のバランスは、悪くなかった。
三日目の夜、アイリスがガリスに言っていた。
「最近、毎日お天気が良くなるの、シフォンのおかげかな」
「偶然じゃないか」
「でも五日も続いたら偶然じゃないよ」。
ガリスが困った顔をしていた。
吾輩は偶然ではないが、教えるわけにもいかなかった。
梅雨の最終日、本物の雨上がりが来た。
朝から空が明るく、昼前には雲が切れて夏の日光が降り注いだ。シフォンは縁側から飛び出し、草の上を全力で走り回った。長雨の間にためていた何かを全部放出するように、走り、跳び、転がり、また走った。
吾輩は引きずられながら、その疾走に付き合った。
シフォンが草むらに飛び込んで、仰向けにひっくり返り、四本足を空に向けて日光を浴びた。吾輩も影として、その夏の光の中にいた。夏の光は明るく、影は濃くなる。吾輩の輪郭が地面に鮮明に刻まれた。
悪くない、と思った。
夕方になると、雲が戻ってきて雨が再開した。
吾輩が作った「穴」は半日で塞がれた。天候の魔法は維持コストが高く、今の吾輩の魔力では持続させられなかった。
シフォンは夕方の雨の再開を見届けると、また縁側で「ウ゛ー」と唸り始めた。
半日で終わりか。
吾輩はその唸りを聞きながら、明日また魔力を消費することになるだろうと悟った。
しかし今日、シフォンは半日だけ外に出られた。草の匂いを嗅いで、水たまりを触って、広場を歩いた。それで満足していた時間があった。
シフォンの「ウ゛ー」は続いているが、声の質が少し違う。最初の日の、本気で機嫌の悪い「ウ゛ー」とは違う。これはどちらかというと——「また明日も出してくれ」という要求に近い。
吾輩には猫の声の微妙なニュアンスが、少しずつわかるようになってきていた。
アイリスが暖炉に薪をくべながら言った。
「明日も雨かなあ。シフォン、また機嫌悪くなりそう」
シフォンが「ミャア」と言った。
吾輩は黙っていた。
明日も、多少の魔力を使うことになるだろう。雨雲を動かして、少しだけ青空を作る。今日よりうまくやれば、虹は一本で済むかもしれない。
これは実務的な判断だ。シフォンの機嫌が良ければ昼寝をする。昼寝をすれば吾輩が魔力を回収できる。消耗と回収のバランスを考えれば、雨雲操作は投資に値する。
そういうことだ。
シフォンが縁側から戻ってきて、暖炉の前のいつもの場所に座り、吾輩の影の上にどさりと収まった。
ごろごろと喉を鳴らした。
吾輩は、その音を聞きながら今夜の雨音に耳を傾けた。
静かで、悪くない夜だった。




