第6話:毛並みという聖域
シフォンが聖獣として認定されてから、村人のシフォンへの接触が増えた。
最初は遠巻きに眺めるだけだった。畏敬の念があったのだろう、誰も近づこうとしなかった。ところが一週間が過ぎた頃から、ベルン神父が「聖獣様に直接感謝の祈りを捧げることは、信仰の表れだ」と言い始めた。
それが引き金だった。
村人が、次々とシフォンを撫でに来るようになった。
最初に来たのは、老婆のマルタだった。
村で最年長の、腰の曲がった小柄な女性で、口より先に手が動くような人だ。アイリスの家の前でシフォンが日向ぼっこをしていたところへ、リンゴをひとつ持って現れ、「聖獣様、いつも村を守ってくださってありがとうございます」と言いながら、シフォンの頭をぽんぽんと叩いた。
シフォンは撫でられながら、目を細めた。
吾輩は黙って見ていた。
老婆が帰った後、吾輩は自分の中の感情を確認した。
特に何もなかった。老婆がシフォンを撫でた。それだけのことだ。
次に来たのは、農夫のセルジュだった。
がっしりとした体格の四十代の男で、日焼けした顔に人懐こい笑顔を持っている。麦藁帽子を手に持ち、ぺこりと頭を下げてから、シフォンの背中をなでた。
「いい毛並みだな」と彼はつぶやいた。
「ほんとに真っ白だ。こんな白い猫、はじめて見た」
シフォンはされるがままだった。むしろ背を少し持ち上げて、もっと撫でろという姿勢をとった。
吾輩は黙って見ていた。
それから、漁師の息子の少年が来た。八つか九つの、そばかすだらけの子だ。おそるおそる手を伸ばし、シフォンの背を一度だけ撫でて、「つるつるしてる!」と歓声を上げ、嬉しそうに走って帰った。
吾輩は黙って見ていた。
次は商家の若妻が来た。
「聖獣様の毛を一本いただいてもよいですか」と言い出したので流石に断られていたが、代わりにたっぷりと頭を撫でて満足して帰った。
それから村の長老が来た。それから双子の姉妹が来て、二人で同時に左右からシフォンをもふもふした。
シフォンは全員に対して、同じように目を細め、同じようにごろごろと喉を鳴らした。
吾輩は——段々と、黙って見ていられなくなってきた。
問題は、翌日も続いたことだ。
朝から三人来た。昼にまた四人来た。夕方にも来た。
誰もが「聖獣様」と言い、誰もがシフォンを撫でた。頭を、背中を、顎の下を、尻尾の付け根を。シフォンはそれを拒まず、むしろ気持ちよさそうに目を細め、ごろごろと喉を鳴らすこともあった。
吾輩は、その「ごろごろ」を聞くたびに、何か落ち着かない気持ちになった。
これは何だ。
吾輩はこの感情を分析しようとした。
シフォンが他者に撫でられることへの——不快感? いや、それは正確ではない。村人が悪いことをしているわけではない。シフォンも嫌がっていない。合理的に考えれば、村人がシフォンに好意を持つことは吾輩の「聖獣」としての立場を安定させる。問題はない。
では、この落ち着かない感覚は何か。
吾輩は考えた。考えた末に、一つの結論に達した。
魔力の問題だ。
他者がシフォンに触れると、微細な「気」の流れが生じる。その流れが影に干渉し、吾輩の魔力吸収の効率をわずかに下げる——そういう理由だ。感情的な問題ではない。純粋に魔術的な、実務的な問題だ。
吾輩はその説明に満足した。
しかし翌日、セルジュが再びシフォンを撫でに来て「今日も毛並みがいいな、シフォン様」と言った瞬間、吾輩の影がわずかに形を変えた。
翼のような形に。
一瞬だけ。
セルジュは気づかなかった。
吾輩は気づいた。
四日目の昼、アイリスが縫い物をしながら言った。
「シフォン、最近人気だね」
シフォンは縁側で撫でられた後の余韻でごろごろしていた。
「みんなシフォンのこと好きだもんね。なんか、嬉しいな」
吾輩はその言葉を聞いた。
アイリスが嬉しい。シフォンが村人に好かれていることを、アイリスが喜んでいる。
それは——良いことだ。吾輩も、アイリスが喜ぶことを否定する理由はない。
ただ。
「あ、そうだ」とアイリスが言った。
「明日、村の若い衆が何人か来るって。シフォンをもっとじっくり見たいって」
若い衆が何人か。
「みんなでシフォンと遊ぶんだって。楽しそうでしょ」
楽しそうでしょ、ではない。
吾輩はその夜、珍しく能動的に行動に出ることを決めた。
翌朝、若い村人たちがやってくる前に、吾輩は計画を実行した。
シフォンが朝食後の毛繕いをしている間に、吾輩は影から腕を伸ばし、家の周囲に薄く魔力の膜を張った。外からは見えない。魔力に敏感な者でなければ感知もできない。しかしその膜の内側にいるシフォンは、吾輩の意識と少しだけ近くなる。
つまり——シフォンが何をされているかを、吾輩がより鮮明に感知できるようになる。
これは防衛目的だ。誰かがシフォンに危害を加えようとした場合に、すぐに察知して対処するためだ。聖獣の守護として当然の措置だ。
そういうことにした。
若い村人たちが五人来た。二十代前後の男女で、みんな屈託のない顔をしている。
「シフォン様〜!」
女の一人が声を上げ、シフォンに駆け寄った。
シフォンは逃げなかった。むしろ近づいていった。
五人がシフォンを囲んだ。頭を撫でる者、背中をなでる者、顎の下を掻く者。シフォンはその中心で、目を細め、喉を鳴らし、ごろりと横になった。
吾輩は魔力の膜を通じて、それをつぶさに感知していた。
シフォンの毛並みに他者の手が触れるたびに、吾輩の中で何かがざわついた。
「やわらかい!」
「ほんとに真っ白!」
「ごろごろ言ってる! かわいい!」
ざわついた。
「シフォン様って、こんなにふわふわなんだ」
ざわついた。
吾輩はそのざわつきを、魔術的な干渉への防衛反応として処理し続けた。
処理しながら、段々と処理が追いつかなくなってきた。
顎の下を掻いている者がいた。シフォンが首を伸ばして、もっと掻けと要求していた。
吾輩の影が、また形を変えかけた。
背中の真ん中を長い時間かけて撫でている者がいた。シフォンがその手の下でごろりと転がった。
吾輩の影が、もう少し形を変えかけた。
吾輩は必死に自制した。これは魔術的な干渉への防衛反応だ。感情ではない。吾輩は魔王だ。感情で魔力を乱すなど、あってはならない。三大陸を征服するために、どれほどの自制心を鍛えてきたと思っているのだ。
この程度のことで——。
誰かがシフォンを両手で抱え上げて、頬ずりした。
吾輩の影が、翼と角と尾まで生えた完全な魔王の形に、一瞬だけなった。
その人物が「なんか急に寒くなった!?」と言いながらシフォンを下ろして逃げるように帰った。
吾輩は深呼吸した。影に肺はないが、概念として深呼吸した。
若い村人たちが帰った後、アイリスが縁側に出てきた。
「シフォン、もみくちゃにされたね」と笑いながら言った。
「大丈夫だった?」
シフォンは縁側の板の上に伸びて、完全に脱力していた。撫でられすぎた後の「満足して力が抜けた」顔だ。
吾輩はその顔を見た。
満足している。シフォンは、撫でられることを享受している。
吾輩は今日一日感じ続けた「ざわつき」の正体を、改めて分析した。
魔術的な干渉。そう説明してきた。
しかしそれが事実なら、アイリスがシフォンを撫でる時も同じざわつきが生じるはずだ。
吾輩は確認した。
アイリスがシフォンの頭を撫でた今この瞬間——ざわつきは、ない。
吾輩は長い沈黙の後で、この分析結果をそっと脇に置いた。
今日のところは、これ以上考えない方が賢明だ。
次の日、また村人が来た。
今度は中年の夫婦だった。二人でシフォンを交互に撫でながら、「御利益がありますように」などと言っている。夫の方がシフォンの背を撫で、妻の方が顎の下を掻く、という連携プレーを披露していた。
シフォンは最高に幸せそうな顔をしていた。
吾輩の影が、また一瞬だけ翼の形になった。
夫婦は気づかなかった。
次に来たのは、村の若い男だった。日に焼けたハンサムな顔立ちで、「シフォン様、いつも村を守ってくださってありがとうございます」と言いながらシフォンを抱き上げようとした。
シフォンが抱き上げられた。
吾輩の影が——今度は翼だけでなく、角まで生えた形に——なった。
一瞬だけ。
その男は「なんか急に冷たい風が……?」と首をすくめながら、それでもシフォンを抱っこして満足そうにしていた。
吾輩は深呼吸した。影に肺はないが、概念として深呼吸した。
これは——良くない傾向だ。感情が魔力に干渉している。魔王として、感情の制御は基本中の基本だ。何十年も鍛えてきた自制心がある。
この程度のことで乱れるはずがない。
シフォンが縁側から戻ってきて、吾輩の影——自分の影——の上にどさりと座った。いつもの場所だ。
ごろごろと喉を鳴らした。
吾輩のざわつきが、すっと収まった。
吾輩はその事実を確認した。
それから、確認したことを忘れることにした。
その夜、アイリスが日記を書いていた。
ベッドの上に腹這いになり、小さなノートに何かを書き込んでいる。シフォンはその隣で丸まっていた。
アイリスが書きながら、独り言のようにつぶやいた。
「シフォンってさ、みんなに撫でさせてあげるのに、なんか……自分の場所みたいなのがあるよね」
シフォンが耳をぴくりと動かした。
「みんなが帰った後に、いつも同じとこに戻るじゃん。影の上の、あの場所。なんかあそこが好きなのかな」
影の上の、あの場所。
吾輩は黙っていた。
「私はさ」とアイリスが続けた。
「シフォンを拾った時から思ってたんだけど——シフォンって、ちゃんと「ここにいる」って感じがするよね。なんか、すごく存在感がある」
シフォンがもぞりと動いた。
「うまく言えないんだけど。他の猫と違う気がして……まあ、聖獣様だから当然なのかもしれないけど」
アイリスが笑った。
「でも私は、聖獣とかそういうの関係なく、シフォンが好きだよ。最初から」
アイリスがノートを閉じた。
「おやすみ、シフォン」
ランプが消えた。
暗闇の中で、シフォンの喉の音だけが聞こえていた。
吾輩はその音を聞きながら、今日一日のことを静かに整理した。
シフォンは、誰にでも撫でられた。村人の全員に、分け隔てなく。しかしどれだけ撫でられても、最後には同じ場所に戻ってきた。
吾輩の影の上に。
なぜかは、わからない。
ただ——そういうことらしかった。
アイリスが言っていた。
「シフォンが好きだよ、最初から」。
吾輩は、その言葉を聞いた時に何かを感じた。その「何か」が何なのかは、まだ分析できていない。うまく言葉にならない。
ただ、悪い感情ではなかった。
吾輩は、それ以上考えるのをやめた。
今夜はもう、休もう。




