第5話:蝶々と闇の魔法
春になった。
ウェスパル村に来て、一月が過ぎた。
大地が緩み、草が芽吹き、花が咲いた。
アイリスの家の裏の小さな畑には種が蒔かれ、村の広場には子供たちが一日中走り回っている。空は青く高く、風は柔らかかった。
吾輩の魔力は、ゆっくりとだが確実に回復していた。まだ討伐前の一割にも満たないが、影から腕を出すくらいなら苦もなくできるようになり、魔王の姿に影を変形させても魔力の消耗がわずかになった。
順調だ。
問題は、春というものがシフォンを浮き足立たせるという事実だった。
その日の朝から、シフォンはそわそわしていた。
朝食を食べるのもそこそこに、家の中を歩き回り、窓の外を眺め、扉の隙間に鼻を押しつけた。春の匂いがするのだろう。冬の間は家の中に籠もりがちだったシフォンが、明らかに「外に出たい」という顔をしている。
「シフォン、外行きたいの?」
アイリスが扉を開けてやると、シフォンは一目散に飛び出した。
吾輩も引きずられた。
春の外気が——影に感覚はないはずだが——なんとなく、清々しかった。
冬の間、ずっと家の中に籠もっていた閉塞感が、少しだけ緩んだ気がした。
シフォンは村の外れへ向かった。家々の間を抜け、広場を横切り、村境の草地へ出た。冬の間は枯れていた草が青々と茂り、野の花が点々と咲いている。朝露がまだ草に残り、光を受けてきらきらと輝いていた。
吾輩はこの一月、ほとんどアイリスの家の中にいた。外に出るのは久しぶりだ。魔王城を出て以来、世界がこれほど広く感じられるのは——初めてかもしれない。
広大な野原、澄んだ空、遠くの山の雪が光っている。
悪くない、と思った。吾輩はかつてこの世界を「征服する対象」としてしか見ていなかった。しかし今は——。
そして、蝶が飛んでいた。
黄色い蝶が一匹、花の周りをふわふわと舞っていた。
シフォンの目が、その蝶を捉えた。
吾輩は慄いた。
この組み合わせには、記憶があった。
以前、蝶を追いかけたシフォンが魔力を誤発射し、廃井戸を修復した——あの日だ。
あの日以来、吾輩は「シフォンが蝶を追いかける」という状況を、最大級の警戒事象として分類していた。
「いかん。落ち着くのだ、シフォン。蝶など——」
シフォンが低い姿勢をとった。
「やめよ。聞け。吾輩の声を聞——」
シフォンが跳んだ。
蝶は敏捷だった。
シフォンの前脚が空を切り、蝶は軽やかに高度を上げた。シフォンは諦めず追いかけた。走り、跳び、また走る。白い毛並みが草の間を疾走する様は、端から見れば愛らしいものかもしれないが、吾輩には地獄だった。
吾輩は必死に魔力を抑えた。
シフォンが激しく動くと、蓄積した魔力が不安定になり、暴走しようとする。これを抑えながら走り回るというのは、並大抵のことではない。吾輩はかつて戦場で百の魔法を同時展開したこともあったが、あれより今の方が難しいかもしれない。相手が己の意志と無関係に動き回るのだから当然だ。
「シフォン! 止まれ! 一度でいいから止まれ!」
聞こえない。当然だ。猫だから。
蝶が方向を変えた。
シフォンも方向を変えた。
村境の草地から、東の丘の斜面へ。丘を半分ほど駆け上ったところで、蝶がふわりと木の枝に止まった。
シフォンが木の下で見上げた。
蝶は優雅に羽を開閉している。届かない高さだ。シフォンは木に登れないことはないが、この木は幹が細く、登り始めたとたんに揺れて蝶が逃げるだろう。
シフォンがしばらく考えた——猫が考えるとしたら、という意味で——後、諦めた。
尻尾を立てて、くるりと踵を返した。
吾輩はほっとした。魔力の暴走寸前だったが、なんとか抑えきった。今日は誤発射なしで済んだ——。
その時、丘の向こうから声が聞こえた。
複数の、野卑な笑い声だった。
丘を少し登ったところで、斜面が緩やかな窪みになっていた。
そこに、人間が十人ほどいた。
粗末な天幕を張り、焚き火を囲み、武器を手入れしている。顔には傷があり、目つきが悪く、身なりは汚れていた。どこからどう見ても、山賊の一団だ。
吾輩は気配を探った。魔力を使って、広く薄く意識を広げると、この一帯の状況がぼんやりと掴める。山賊は十二人。武装は剣と弓が主で、魔法使いはいない。戦力としては農村を脅かすには十分だが、正規の軍には歯が立たない程度だ。
おそらく街道沿いで商人を脅し、村に入って略奪を繰り返す類の連中だ。ウェスパル村はこの山の向こうの街道から近い。いずれ標的になっていたかもしれない。
シフォンも、窪みの縁から下をのぞき込んでいた。
吾輩は思った。ここは静かに立ち去るべきだ。シフォンは猫だ。山賊など関係ない。人間同士の問題に、吾輩が首を突っ込む理由はない。ここで魔力を消耗するくらいなら——。
山賊のひとりが、焚き火の向こうで縛られた人影に目を向けた。
捕虜だ。
手足を縛られ、木に括り付けられている人間が、二人いた。商人風の中年男と、若い女だ。どちらも消耗しきった顔をしていた。女の方は泣いているのか、目が赤かった。
吾輩は立ち去ろうとした。
シフォンは丘の縁に腰を下ろし、下を眺めていた。
立ち去れなかった。シフォンが動かないから。
吾輩は仕方なく、状況を観察し続けた。
縛られた二人は、おそらく昨日か今日捕まったばかりだ。まだ生きている。山賊は今夜あたり、身代金の要求か、あるいは別の目的のために使うつもりだろう。どちらにせよ、あの二人にとっては最悪の状況が続く。
どうすべきか。
吾輩は考えた。
本来なら、吾輩には関係ない。しかし——ウェスパル村は吾輩が魔力を回復させる拠点だ。この山賊団が村を襲えば、村が混乱する。アイリスやガリスが被害を受けるかもしれない。村が混乱すれば吾輩の環境も乱れる。だから、利害関係として、この山賊団は吾輩にとっても都合が悪い存在だ。
つまり、対処することは吾輩の利益に適う。
理由ができた。吾輩は合理的な魔王だ。理由があれば動く。
吾輩は魔力を集中させた。今度は制御を意識して。シフォンがまだ静止しているうちに、狙いを定めて——山賊たちを一気に無力化する程度の魔力を、方向を定めて放つ。死者は出さない。ただ吹き飛ばせばいい。それだけでいい——。
シフォンがくしゃみをした。
制御が吹き飛んだ。
魔力が、盛大に暴走した。
ドオオオオン。
という音がして、窪みの中心部に、闇色の魔力の柱が降り注いだ。
吾輩が「制御して」放とうとしていた魔法の、おそらく五倍か十倍の規模だった。
焚き火が消えた。天幕が吹き飛んだ。木が根元から傾いた。
山賊たちが、悲鳴を上げながら四方八方へ逃げ散った。武器を捨て、荷物を捨て、ただただ走って逃げた。十人が十人、一刻もしないうちに姿を消した。
静寂が戻った。
吾輩は窪みを見下ろした。
天幕の残骸と、散乱した荷物と、消えた焚き火だけが残っていた。
捕虜の二人はどうなったか——縛られていた木は、爆風で傾いたものの折れてはいなかった。縄は、魔力の余波で焼き切れていた。二人は自由になり、呆然と座り込んでいた。
無事だ。
吾輩は確認した。山賊は全員逃げた。捕虜は助かった。被害者はいない。
しかし、またしても——。
シフォンがくしゃみの後、鼻を前足でこすり、立ち上がった。用が済んだとばかりに、丘を下り始めた。
吾輩は引きずられながら、今日の魔力収支を計算した。
蓄積した魔力:ゼロ(朝から集中できていなかった)。
消耗した魔力:大量。
結果:山賊団の壊滅と捕虜二人の救出。
吾輩の世界征服計画への貢献度:ゼロ。
村に帰ると、また騒ぎになっていた。
丘の方角で起きた爆発音と光を、村人の多くが目撃していたのだ。ベルン神父も広場に出ていた。
「東の丘で何かが……」
「光ったよな? 聖獣様がお出かけになっていたが……」
シフォンが広場を横切った。
その後を追うように、丘の方から二人の人物が現れた。縛られていた捕虜——商人の男と若い女だった。よろよろと歩きながら、広場に倒れ込んだ。
「助かった……白い猫が……丘の上で……」
「光が降りてきて、賊が……」
村人がどよめいた。ベルンの目が細くなった。
シフォンはその騒ぎを完全に無視して、アイリスの家の扉の前に座り、「開けろ」という顔で扉を見ていた。
吾輩はシフォンの隣で、もはや何も言う気が起きなかった。
夕方、救われた商人の男がアイリスの家を訪ねてきた。
痩せた中年男で、まだ顔色が悪かったが、それでも深々と頭を下げた。
「シフォン様……本当に、ありがとうございました。私は今日、死ぬところでした。連れの者も」
アイリスが困った顔でシフォンを見た。シフォンは男のことを一瞥して、すぐに興味を失い、窓の外を眺め始めた。
「聖獣様は……慈悲深いお方ですな」と男が感激した声で言った。
「姿を見た時、最初は恐ろしかった。白い猫の影があんなに大きくなって、翼が——角が——まるで魔王のような」
吾輩はぴくりとした。
「しかし、その力が私たちを救ってくれた。これは神の思し召しに違いない」
男はそれから、持ち合わせていた荷物の中から最上等のものを取り出した。絹の端切れ、薬草の束、街の菓子——それをアイリスの前に置いた。
「お礼の品です。聖獣様のご飯の足しにでも」
アイリスが「そんな、そんなに」と困りながらも、男の顔が本当に安堵していたので、黙って受け取った。
男が去った後、アイリスはしばらくシフォンを眺めた。
「ほんとに、すごいね」
静かな声だった。
さっきまでの笑い混じりの「すごいね」とは少し違う、真剣な声だった。
「シフォンってさ……なんか、ちゃんと見てるよね。人のこと」
シフォンは窓の外を向いたまま、耳だけアイリスの方に動かした。
「あの人、本当に困ってたんだよね。だからシフォンも行ったんじゃないかなって……私、そんな気がする」
吾輩は黙っていた。
シフォンが「ちゃんと見ていた」かどうかは、吾輩にも判然としない。ただ丘の縁に腰を下ろして、下を眺めていただけかもしれない。猫の気まぐれで、そこにいただけかもしれない。
しかし。
シフォンが動かなかったから、吾輩も動けなかった。
シフォンが丘の縁で待ち続けたから、吾輩も状況を見続けた。
そして——吾輩は動いた。
合理的な理由をいくつも並べた。村の安全、環境の維持、利害の一致。しかしそれは後付けだったかもしれない。縛られた女の赤い目を見た瞬間から、吾輩の中で何かが動いていた気がする。
シフォンが窓から振り返り、アイリスを見た。
「なに?」とアイリスが聞いた。
シフォンが「ミャア」と言った。
「お腹空いた?」
シフォンがもう一度「ミャア」と言った。
「はいはい」とアイリスが笑いながら立ち上がった。
「今日は商人さんからいただいたお魚があるよ。ごちそうだね、シフォン」
シフォンがアイリスの後をついて台所へ歩いていった。
吾輩も引きずられながら、今日最後の考えをまとめた。
吾輩はヴァルキスだ。三大陸を征服した魔王だ。今日の行動は、すべて吾輩の利益のための合理的な判断だった。
あの二人が助かったのは、その結果に過ぎない。
そういうことにしておく。
今日のところは、それで十分だ。




