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吾輩は猫の影。ただし、元魔王である  作者: ゆもニャ


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第4話:食欲という名の壁

 聖獣認定から四日が経った。


 この四日間で、吾輩の置かれた状況はいくらか変化した。


 まず、食事の質が上がった。


 村人たちがシフォンのために食材を持ち寄るようになったのだ。


 漁師の家からは新鮮な川魚が届き、農家からは干し肉が、何故か遠くの街の商人まで「聖獣様への献上品」と称して上等な干しエビを置いていった。


 アイリスの家の台所は以前より格段に豊かになり、シフォンの食事は毎食それなりのものが出るようになった。


 これは吾輩にとって好都合だ。腹が満たされた猫はよく眠る。よく眠るシフォンは長時間静止する。静止したシフォンの影である吾輩は、安定して魔力を吸収できる。


 論理は完璧だ。


 問題は——シフォンが「腹が満たされてもよく眠るとは限らない」生き物だったことだ。




 その日の午前、吾輩はようやく理想的な状況を手に入れていた。


 朝食を終えたシフォンが、居間の窓際の棚の上に登り、丸まって眠り始めた。陽光が柔らかく差し込む、文句のつけようのない寝床だ。アイリスは畑仕事に出かけ、ガリスも外にいる。家の中は静かで、地脈の流れも穏やかに感じられた。


 吾輩は迷わず集中を開始した。


 地脈に手を伸ばし、魔力の流れを引き込む。細く、しかし確実に。棚の上のシフォンは微動だにしない。その寝顔——正確には吾輩には顔が見えないが、気配として——は穏やかで、深く眠っているのがわかった。


 一刻。順調。


 二刻。順調。


 三刻——手応えがあった。討伐前の五%にも満たない量ではあるが、確実に魔力が蓄積されていた。このペースで一月続ければ、影の外に「手」を出せるようになる。それができれば次の段階へ——。


 シフォンが、むくりと頭を上げた。


 吾輩の集中が、わずかに乱れた。しかし壊れてはいない。シフォンはまだ棚の上にいる。また眠ってくれれば——。


 シフォンが立ち上がった。


 ゆっくりと棚から降りた。


 床に降り立ち、台所の方向を向いた。


「……まだ朝食から一刻も経っておらんぞ」


 届かない声で吾輩は言った。


 シフォンは台所に歩いていき、空になった食器の椀を前足でつついた。


 カランと音がした。


 椀を見下ろし、また前足でつついた。カラン。


 中身が空であることを確認し、シフォンは吾輩の方を——正確には自分の影の方を——振り返った。


 金色の瞳が、まっすぐに吾輩を見た。


 吾輩は動揺した。見えているのか? いや、そんなはずはない。ただ、影の方向を向いただけだ。


 しかしその目が、明確に何かを訴えていた。


 腹が減った。


 そう言っていた。


「……知らん」


 シフォンが「ミャア」と鳴いた。


「知らんと言っている。さっき食べたであろう」


 シフォンがもう一度「ミャア」と鳴いた。今度は少し長く。


「吾輩は今、重要な作業の途中なのだ。邪魔をするな」


 シフォンは吾輩の言葉などまったく聞こえていないように、台所の棚の下に座り込み、じっとそこを動かなくなった。


 断食に入ったのか、とも思ったが——いや、これは「ここで待っていれば食べ物が来る」という確信に基づく座り込みだ。吾輩には猫の行動パターンが少しずつわかってきていた。


 この座り込みは、ほぼ確実に「要求が通るまで動かない」という意思表示だ。


 吾輩は集中に戻ろうとした。


 シフォンは動かない。影は揺れない。集中はできる。


 しかし、なぜか集中できなかった。


 シフォンの「ミャア」の残響が、吾輩の意識の端に引っかかっていた。




 一刻が過ぎた。


 シフォンは棚の下から一歩も動いていなかった。


 吾輩は集中しようとしていたが、できていなかった。なぜできないのか、自分でも理由が判然としない。シフォンは静止している。地脈は流れている。条件は揃っているはずだ。


 なのに、集中できない。


 シフォンがまた「ミャア」と鳴いた。


 さっきより少し弱々しい声だった。


 吾輩は、その声を聞いた瞬間に、自分の中で何かが折れるのを感じた。


 折れた。


 具体的に何が折れたかというと——「影から手を出すのは魔力の消耗が激しいからやめておこう」という自制心が折れた。


 吾輩は魔力を集中させた。ただし地脈ではなく、影の端に向けて。かつての魔王の力を持ってすれば、影を少しだけ「実体化」させることができる。腕一本分だけ。数十秒が限界で、その後は一刻ほど魔力が使えなくなる。


 割に合わない消耗だ。


 それでも吾輩はやった。


 シフォンの影から、細長い黒い腕が、するりと伸びた。


 闇色の、指の長い、紛れもなく「魔王の腕」だ。棚の上に伸びていき、干し魚の入った小さな袋を掴んだ。中身をひとつまみ取り出し、シフォンの前に置いた。


 シフォンが、その魚の切れ端を見た。


 匂いを嗅いだ。


 食べた。


 満足そうに尻尾を立て、また棚の下にしゃがみ込んだ。今度は食べ終わって満足した顔で毛繕いを始めた。


 吾輩の腕は、影の中に引っ込んだ。


 魔力が急速に消耗した感覚があった。さっき三刻かけて蓄えた魔力が、腕を実体化させた一瞬でほぼ消えた。


 吾輩は呆然とした。


 吾輩は今、何をしたのか。


 猫にご飯をあげた。


 影から手を出して。こっそりと。


 シフォンは毛繕いをしながら、喉をごろごろと鳴らし始めた。


 吾輩は長い沈黙の後で、今日の作業を切り上げることにした。




 昼過ぎにアイリスが帰ってきた。


「あれ、シフォン。ご飯の袋、開いてる」


 台所の棚の上を見て、アイリスが首を傾けた。


 干し魚の袋が、口を開けた状態で棚の端に置かれていた。中身がひとつまみ分、減っていた。


「シフォン、自分で開けたの? 器用だね」


 シフォンはアイリスの足元に寄って行き、すりすりと体を擦り付けた。


 吾輩は何も言わなかった。


 言えなかった。


「でも棚の上の袋を自分で取って食べるって……もしかして聖獣様だから? 普通の猫じゃないから?」


 アイリスが感心したように言った。


 シフォンが「ミャア」と鳴いた。


「すごいなあ、シフォン」


 吾輩はさらに黙った。




 その夜、アイリスが寝静まった後で、吾輩は今日の出来事を反省した。


 反省すべき点は明確だ。魔力を無駄に消耗した。三刻分の蓄積が一瞬で消えた。費用対効果が最悪だ。これを繰り返していては、復活など遠のくばかりだ。


 では、なぜやったのか。


 シフォンの「ミャア」が弱々しかったから——という理由は、あまりにも情けない。認めたくない。しかし事実として、あの声を聞いた瞬間に吾輩の自制心は機能を停止した。


 これは慣れの問題だと吾輩は結論づけることにした。


 かつて魔王城にいた頃、この猫が鳴けばいつでも世話役の魔族が飛んできた。食事を持ってきた。水を替えた。毛繕いの道具を持ってきた。シフォンはそれが当然の環境で育ってきたのだ。だから「鳴けば誰かが来る」という刷り込みがある。


 今、その「誰か」の役割を果たせる存在が、この家にはアイリスと——吾輩しかいない。


 アイリスは昼間は外に出ている。


 残るのは吾輩だ。


 つまり今日の出来事は、吾輩の意思の弱さではなく、構造的な問題だ。シフォンが鳴き、吾輩しかいない状況では、吾輩が対応せざるを得ない。これは仕方のないことだ。


 吾輩は自分の論理を確認した。


 完璧だと思った。


 しかし——ふと気づいた。


 魔王城でシフォンに食事を届けていたのは、世話役の魔族だった。吾輩が命令して手配していた。つまり間接的には、吾輩がシフォンの食事の面倒を見ていたことになる。


 今は直接、影から手を出してやっている。


 手間が増えただけで、やっていることは同じだ。


 ……同じ、なのか?


 吾輩はその結論から少し目を逸らすことにした。


 シフォンが、眠りながら小さく「ぷるる」と鳴いた。


 吾輩は、その音をしばらく聞いていた。


 まあ——今日は仕方がなかった。明日は絶対に、魔力を無駄にしない。




 翌日の午前中、また同じことが起きた。


 吾輩が地脈に集中し始めて二刻が経った頃、シフォンが起き出して台所に行き、空の椀をカランと鳴らした。


 吾輩は無視しようとした。


 五分、無視した。


 シフォンがまた「ミャア」と言った。


 十分、無視した。


 シフォンが椀をもう一度カランと鳴らした。そして吾輩の方を向いた。あの金色の目で。


 吾輩は十五分で折れた。


 影から腕を出して、干し魚をひとつまみ、シフォンの前に置いた。


 シフォンが食べた。満足した。寝た。


 吾輩の三刻分の魔力が消えた。


 吾輩は何も考えないことにした。




 三日目も同じだった。


 四日目には、吾輩はもはや抵抗しなかった。シフォンが「ミャア」と言ったら、すぐに腕を出して食べ物を届けた。その方が魔力の消耗は最小限で済む。長時間ぐずられて何度も影を揺らされるより、一度で解決した方が効率的だ。


 これは合理的判断だ。断じて情に流されているわけではない。


 そうやって四日が過ぎた頃、アイリスがある日の夕方に気づいた。


「ねえ、お父さん。干し魚の袋、また減ってる気がするんだけど」


「ネズミじゃないか」とガリスが答えた。


「でも袋には穴が開いてないんだよね。きれいに口だけ開いてて……」


 アイリスがシフォンを見た。


「シフォン、まさかあなた、自分でこっそり食べてる?」


 シフォンは堂々と前を向いて「ミャア」と言った。


「聖獣様が盗み食いするの……?」とアイリスが困った顔で笑った。


「まあ、いいか。シフォンのご飯だもんね」


 吾輩は黙っていた。


 シフォンが盗み食いをしているという認識になったのは、まあ——問題ない。吾輩が関わっているとは誰も思わないだろう。


 それでいい。


 それで。




 シフォンが、その日の午後、妙なことをした。


 台所でひとつまみの食事を受け取った後、満足した様子で毛繕いをして、それからぐるりと居間を見回した。アイリスの椅子、暖炉の前の敷物、窓際の棚——いつものお気に入りの場所を順番に眺めた。


 そして、どこにも行かなかった。


 シフォンは、床の真ん中に落ちている自分の影の上に——つまり吾輩の上に——どさりと座った。


 吾輩は驚いた。


 影の上に座るということは、吾輩の意識の真上にシフォンの体重がかかるということだ。影に体重がかかるはずはない。物理的にそういうものではない。


 しかしなぜか、感じた。


 温かい、重みを。


 シフォンが振り返り、また金色の目で吾輩を見た。おかわりを要求しているのか。それとも別の何かか。


 しかしシフォンは何も鳴かなかった。


 ただ目を細めた。


 それだけだった。要求ではない。ただ、そこに座って、吾輩を見て、目を細めた。それだけだ。


 吾輩はその状況の意味を解析しようとした。


 猫が影の上に座る理由。温かいから、という説がある。日当たりのいい場所の影は、周囲より僅かに温度が安定している。しかし今の室内では、どこも大差ない温度のはずだ。


 では、なぜ。


 わからなかった。


 猫の行動には、まだまだ吾輩の理解の及ばない部分がある。


 吾輩はしばらくその状態を——シフォンが影の上に座って目を細めている状態を——眺めた。


 悪い気はしなかった。


 これも構造的な問題だと、吾輩は思うことにした。何が構造的な問題なのかは、自分でもよくわかっていなかったが。




 その日の夕方、アイリスが帰ってきた時、シフォンはまだ同じ場所に座っていた。


「シフォン、一日そこにいたの?」


 アイリスが笑いながら言った。


「何かいい場所なの?」


 シフォンが「ミャア」と答えた。


「聖獣様のお気に入りの場所か。神父様に言ったらまた何か言われそう」


 アイリスが笑いながらシフォンを抱き上げた。


 抱き上げられながら、シフォンが一度だけ振り返り、自分がいた場所——吾輩の影——を見た。


 それから前を向いた。


 吾輩は、その仕草が何を意味するのかを考えた。


 考えても、わからなかった。


 猫には猫の論理がある。人間にも人間の論理がある。そして魔王には魔王の論理がある。それらは交わらない——と、吾輩は長らく思っていた。


 しかし今、吾輩は猫の影だ。


 交わっていないとは言い切れない気がした。


 その夜、シフォンが「ミャア」と言った。


 吾輩はいつもより少し早く、影から腕を出して食べ物を届けた。


 合理的判断だ。


 そういうことにしておく——今の吾輩には、その言い訳で十分だ。


 いつか、もっと正直に考える日が来るかもしれない。


 それは、今日ではない。



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