第3話:聖獣と呼ばれる日
ウェスパル村に来て、六日目の朝だった。
前日の「聖獣認定」騒ぎから一夜明けて、村はまだざわついていた。アイリスの家の前には、夜明け前から二、三人の村人が集まり、シフォンを一目見ようと待ち構えていた。
「シフォン様が出てこられたぞ!」
アイリスが朝の用事で扉を開けた瞬間、シフォンがするりと外に出たが最後、待ち構えていた村人がどよめいた。
「おはようございます、シフォン様!」
「今日もお美しい!」
「聖獣様の御加護を!」
シフォンは一切意に介さず、扉の前の石段で大きく伸びをした。前脚を思い切り前に出し、後ろを突き出す、猫特有の「へ」の字姿勢だ。
村人がまたどよめいた。
「御身を伸ばされている! 夜明けの祈りだ!」
違う。伸びだ。
吾輩は朝から頭痛がした。影に頭はないのだが、概念的に痛かった。
教会を訪れたのは、その日の昼前のことだった。
アイリスに連れられて——正確にはアイリスの後をのそのそついていく形で——シフォンがウェスパル村の小さな教会に入った。
石造りの建物で、内部はこぢんまりとしているが清潔だった。正面に祭壇があり、木製の長椅子が並んでいる。窓から差し込む午前の光が、石床に細長い模様を作っていた。
ベルン神父が祭壇の前に立って待っていた。
「よく来てくれた」と老神父は言った。
アイリスに向かってではなく、シフォンに向かって言った。
シフォンは教会の入り口で立ち止まり、鼻をひくひくさせて匂いを嗅いでいた。蜜蝋のろうそくの匂いと、古い木と石の匂い。それから日当たりのいい窓の方向を向いた。
吾輩は地脈を探った。
ある。
やはりあった。
この教会の床下に、地脈が流れている。
村の中央近くにある教会は、かつて地脈の上に意図的に建てられたのかもしれない。中世の建築には、そういった知恵が込められていることがある。信仰の場と地脈は、古代から深いつながりがあった。
大地の力が集まる場所に人は祈りを捧げ、その祈りの熱が地脈をさらに活性化させる——それを吾輩はかつて征服した各地の神殿や教会を制圧することで逆用してきたものだ。
しかしまさか自分が「聖獣の影」として教会を訪れる日が来るとは、思いもしなかった。
吾輩は内心で小さく喜んだ。これだけ太い地脈なら、日中の倍以上の効率で魔力が吸収できる。問題はシフォンをこの場に留まらせられるかどうかだが——。
シフォンが、日当たりの良い窓の下に歩いていき、ぺたんと座った。
日向ぼっこの場所を見つけた顔だった。
吾輩は天を仰いだ。
影なので天はないが、概念として仰いだ。
「それでは、聖獣シフォン様の御前にて、認定式を執り行いたいと思います」
ベルン神父が厳かな声で言った。
いつの間にか教会の中に村人が十数人集まっていた。ベルンが昨夜のうちに声をかけたらしい。農夫、主婦、老人、子供——村の様々な人々が、神妙な顔で長椅子に座っていた。
アイリスだけが少し困った顔をしていた。
「なんか大事になってきたな……」と小声でつぶやくのが聞こえた。
吾輩も思った。
なんか大事になってきた。
シフォンは窓の下で毛繕いをしていた。
完全に「認定式」など眼中にない。
「聖獣とは」とベルンが続けた。
「神が人の世に遣わす、神聖なる獣のことです。その姿は様々で、かつては白き鹿が現れ、洪水で溢れた川を静めたという記録があります。また赤き鷹が現れ、疫病の地を清めたという伝承もある」
村人が静かに聞いている。
「このたびウェスパル村に現れたる白き猫——シフォン——は、魔王討伐の翌日に忽然と現れ、廃井戸を修復し、枯れた畑に麦の芽を萌え立たせました。これは明らかに神の意志による奇跡であり、この猫は神の使いに他なりません」
うむ。
吾輩は聞きながら思った。ベルンの話は論理が一応通っている。前提が完全に間違っているが、前提さえ無視すれば筋が通っている。「奇跡」の原因が「神の意志」ではなく「制御を失った魔王の魔力の暴走」であるという点を除けば、なかなかの名演説だ。
それにしても、この老神父の観察眼は侮れない。昨日の短い接触だけで「ただの獣の眼ではない」と判断したのは、そうそうできることではない。魔族の幹部ですら、見た目だけではシフォンをただの猫と思っていたというのに。
用心しなければ——いや、しかし向こうの解釈は「神の使い」だ。悪い方向には動くまい。
「よって本日より、シフォンはこのウェスパル村の守護聖獣として、村人全員で敬い、大切にお守りすることを、ここに宣言いたします」
村人が一斉に頭を下げた。
シフォンが毛繕いをやめ、欠伸をした。大きな欠伸で、口の奥まで見えた。
村人がまたどよめいた。
「お言葉をいただいた!」
「聖獣様のお告げだ!」
違う。欠伸だ。
吾輩は影の中で、静かに怒りを積み重ねていた。
認定式が終わった後、ベルンがアイリスに話しかけた。
「シフォン様を拾われたのはあなたですな」
「は、はい」とアイリスは少し緊張した様子で答えた。
「では、あなたは聖獣様のご縁者ということになります。村として、あなたのお家の生活をお守りする用意があります。食料でも、生活用品でも、何か必要なものがあれば遠慮なく申し出なさい」
アイリスが目を丸くした。
「え、そんな……」
「当然のことです。聖獣様が選ばれた場所と人を、村が守るのは義務です」
吾輩はその会話を聞きながら、少し複雑な気持ちになった。
アイリスは父親のガリスと二人で、裕福とは言い難い生活をしていた。それがこれで少し楽になるということは——悪いことではない。少なくともシフォンの食事の質が上がり、住環境が安定する。吾輩にとっても利益だ。
そう、吾輩にとっての利益だ。それだけの話だ。
別にアイリスという少女の生活が改善されることを、吾輩が喜んでいるわけではない。断じてない。
シフォンが祭壇の方に歩いていった。
高さがちょうどいいと思ったのか、するりと祭壇の上に飛び乗った。
村人が息を呑んだ。
「祭壇に……!」
「聖獣様が御座を設けられた!」
シフォンは祭壇の上で、くるりと一回転し、丸まった。
寝た。
神聖な祭壇の上で、守護聖獣が昼寝を始めた。
ベルン神父は、しばらくその姿を見つめた後、静かにうなずいた。
「…… すやすやとお休みになられている。この村が平和である証だ」
吾輩は影の端がぴくりと動くのを感じた。怒りか、それとも何か別の感情か、自分でも判然としなかった。
しかし——そこで吾輩は気づいた。
絶好の機会だ。
シフォンが祭壇の上で眠っている。祭壇の直下には地脈が流れている。しかも村人が全員静かにしていて、誰も騒がない。
これ以上ない条件だ。
吾輩は慎重に意識を集中させた。祭壇の石の下を流れる地脈に手を伸ばす。今度こそ慎重に、少しずつ、急がずに——。
魔力が流れ込んでくるのを感じた。
細い流れが、影の中にゆっくりと満ちていく。シフォンは動かない。村人は静かにしている。ベルンは祈りを捧げ始めた。低く穏やかな祈りの言葉が教会に響いている。
一刻が過ぎた。
順調だった。
二刻が過ぎた。
これほど長く集中できたのは初めてだった。吾輩は慎重さを保ちながらも、確かな充足感を覚えた。魔力が蓄積されていく感触は、長い空腹の後に食事を得たときに似ている。
三刻。
シフォンが、ぴくりとも動かない。
よし——。
教会の扉が勢いよく開いた。
「大変です! 神父様!」
息を切らした若い男が飛び込んできた。村の若者だ。顔を真っ赤にして、肩で息をしている。
「どうしました」とベルンが落ち着いた声で聞いた。
「東の森から魔物が! 魔王が討伐されて魔族は散り散りになったはずなのに、小型の魔物が群れをなして村の方に!」
村人がざわめいた。
吾輩の集中が乱れた。
まずい。今ここで魔力が暴走すれば——。
シフォンが起き上がった。
祭壇の上に座り、扉の方向を向いた。耳がぴんと立っている。魔物の気配を察知したのかもしれない。猫には人間より鋭い感覚がある。
「シフォン様!」とベルンが言った。
「どうか——」
シフォンが祭壇から飛び降りた。
そのまま開いた扉へ向かって走り出した。
吾輩は引きずられながら、状況を把握しようとした。シフォンはなぜ走っている。魔物の群れに向かって走っているのか。猫が魔物の群れに突っ込もうとしているのか。
吾輩が三刻かけて蓄えた魔力が、シフォンの激しい動きに乱されて、また暴走しようとしていた。
「待て待て待て待て——!」
東の方角から、ごわごわとした低い唸り声が聞こえた。小型の魔物——おそらく魔王の軍が崩壊した後に野生化した、ゴブリン種かグールの類だ。数は、十から二十というところか。
シフォンが村の東の外れまで走り、止まった。
魔物の群れが見えた。
小型とはいえ、人間の大人の腰ほどの高さがある醜悪な生き物が、十五体ほど列をなして村に近づいていた。武器代わりの棍棒や石を持ち、黄色い目を爛々と光らせている。皮膚は灰緑色で、口から鋭い牙を覗かせた、見るからに凶悪な魔物だ。
吾輩にはわかった。これはゴブリンの変異種——かつて魔王軍の偵察部隊として使っていた類と同じだ。知能は低いが数の暴力で動く。農村一つなら十五体もいれば壊滅させられる。
村人では歯が立たない。
しかしシフォンは、その群れの前で立ち止まり——なんと腰を落として低い姿勢を取った。
狩猟本能だ。吾輩は理解した。シフォンにとってこれは「獲物」に見えているのかもしれない。動くものを追いかける本能が、魔物の群れを「大型の獲物」として認識している。
しかし猫一匹で魔物十五体はいくら何でも——。
暴走しかけた魔力が、シフォンの低い体勢の中で奇妙な方向に流れた。
シフォンの影が——吾輩が——膨れ上がった。
魔王ヴァルキスの姿が、地面に広がった。翼を広げ、角を持ち、その全身から闇の魔力がほとばしる、かつての吾輩の姿が影として地面に現れた。そしてその影から、収束しきれない魔力の奔流が前方に向かって解き放たれた。
ドオオオオン。
大地が揺れた。
魔物の群れが、一瞬にして吹き飛んだ。
木々が揺れた。土埃が舞い上がった。村人が遠くで悲鳴を上げた。
静寂。
シフォンは立ち上がり、何事もなかったように尻尾を立てて歩き出した。
追いかける魔物は一体もいなかった。全員、森の奥まで吹き飛んでいた。
村に戻ると、大騒ぎだった。
遠くから魔力の爆発を見ていた村人たちが、目を丸くして集まっていた。ベルン神父も来ていた。
「今のは……」と誰かが言った。
「聖獣様の影が……大きな翼を広げていた……」
「闇の力で魔物を!」
「魔王の力を持って、悪を討たれた!」
吾輩は言いたかった。違う。吾輩は魔王本人だ。しかも制御を失っての誤発射だ。
言えなかった。影だから。
シフォンはというと、帰り道に道端の草の匂いを嗅いで、それに満足して、またぽてぽてと歩いていた。
ベルンが深く頭を垂れた。
「シフォン様……この村をお守りくださり、ありがとうございます」
シフォンはベルンの前を通り過ぎ、そのままアイリスのところへ歩いていき、アイリスの足元に体を擦り付けた。
アイリスが「おかえり」と言って抱き上げた。
村人が感動のどよめきを上げた。
「聖獣様が帰還された!」
「アイリスちゃんのことを特別にお思いなのだ!」
吾輩は疲れ果てていた。
三刻分の魔力が、また全部なくなった。収支はゼロだ。本日の作業は完全に無駄に終わった。
しかし村人の顔を見ると——誰も傷ついていない。魔物の被害者もいない。子供たちが泣いていない。ベルンは穏やかな笑顔で、アイリスは嬉しそうにシフォンを抱きしめている。
吾輩は、その光景をしばらく眺めた。
まあ——結果として悪くはなかった、ということにしておこう。
三大陸を征服しようとした吾輩が、村の平和を守ってしまったのだが、それはそれだ。誰も知らなければ歴史には残らない。
その夜、村ではちょっとした宴のようなものが開かれた。
広場に篝火が焚かれ、村人が集まって今日の「奇跡」を語り合った。
魔物を退けた「聖獣の影」の話は、数時間で村中に広まっていた。
子供たちが「シフォン様」と叫びながら広場を走り回り、老人たちが感謝の言葉を述べ合い、誰かが麦酒を持ってきた。
アイリスは少し困ったような、でも嬉しそうな顔で、その輪の中に座っていた。シフォンはアイリスの膝の上で、篝火をぼんやりと眺めていた。
吾輩は——外の騒ぎとは距離を置いた暗がりの中で——静かに考えた。
この数日で、三つの「奇跡」が起きた。
廃井戸の修復。畑の麦の芽吹き。そして魔物の群れの退散。
どれも吾輩の意図したものではなく、シフォンの行動が引き金になった偶発的な出来事だ。
しかしその「偶発」の結果として、村人たちは救われた。農作物を失わずに済んだ。けが人も出なかった。
吾輩が世界を支配していた頃、こういった村はどうなっていたか。考えれば答えは明白だ。魔族の軍が通れば略奪される。抵抗すれば焼かれる。従えば重い税が課せられる。
それが吾輩の「支配」だった。
今、この村の人々は笑っている。
吾輩は、その事実をただ静かに見ていた。
ベルンがアイリスの家を訪ねてきたのは、宴が終わり、村が静まり返った後のことだった。
居間のテーブルに座り、ガリスとアイリスと向き合って、老神父は静かに言った。
「今日のことを、少し話したいことがある」
「はい」とアイリスが答えた。
「シフォン様の影が、今日、魔王のような姿をしていた。私の目には、確かにそう見えた」
吾輩は影の中でぴくりとした。
「神父様も見ていたんですね」とアイリスは言った。
「私も見たんです。びっくりして……」
「ふむ」とベルンは言った。
「私はこれを、神の啓示と受け取っています。つまり——かつて世界を闇に落とした魔王の力を、聖獣が封じ、光のために使っているのだと」
アイリスが目を丸くした。
「魔王の力を、封じてる……?」
「そう解釈するのが自然でしょう。だからこそシフォン様は魔王討伐の翌日に現れた。魔王の魔力が、この聖獣によって浄化されつつあるのだ」
吾輩は——絶句した。
浄化。
吾輩が、浄化されている。
吾輩・魔王ヴァルキスの魔力が、猫によって浄化されているという解釈が、今この教会の神父の中で完成してしまった。
「なんかすごい……」とアイリスが言った。そしてシフォンを見た。
「シフォン、実はすごい使命持ってたの?」
シフォンはアイリスの膝の上で、ごろごろと喉を鳴らしていた。
使命などない。ただの猫だ。
とは言えなかった。影だから。
ベルンが席を立つ前に、ひとつだけ付け加えた。
「アイリスさん。シフォン様のことを、どうかこれからも大切に。あの方は——」老神父は少し間を置いた。
「私には何かを、背負っておられるように見える」
何かを、背負っている。
吾輩は黙っていた。
アイリスがシフォンの頭を、そっと撫でた。
「うん」とアイリスは言った。
「大切にする。絶対に」
シフォンが目を細めた。
喉の音が、少し大きくなった。
吾輩は——今日だけで何度目かわからないため息を、音もなくついた。
何かを背負っている、か。
まあ——確かに背負ってはいる。
三大陸分の野望と、復讐と、復活の計画と——。
そして今は、なぜか白くふわふわした猫の影として、農村の少女に「大切にする」と言われている。
吾輩の人生は、どこで間違えたのだろうか。
いや。間違えてなどいない。これは一時的な状況だ。必ず復活する。必ず——。
「シフォン、おやすみ」
アイリスが言った。
シフォンが、アイリスの膝の上から降り、いつもの敷物の方へ歩いていった。
丸まった。
目を閉じた。
吾輩も、それ以上何も考えるのをやめた。
今日はもう、休もう。




