第2話:最初の誤算
ウェスパル村に来て、五日が経った。
この五日間、吾輩は様々な方法で地脈の魔力を吸収しようと試みた。
試みた、というのが重要だ。試みたのだ。
実行できたとは言っていない。
一日目。シフォンが朝から晩まで家の中をうろうろしていた。吾輩が集中できた時間の合計は、おそらく十分にも満たない。
二日目。シフォンが珍しく三時間ほど日向ぼっこをしていた。吾輩は渾身の集中で地脈に接触し、魔力の吸収を開始した。
一時間が経過した。
吾輩は確かな手応えを感じていた。
このままいけば——そこへアイリスが「シフォン、おやつだよ」と声をかけてきた。シフォンは弾かれたように立ち上がった。
三日目。雨。シフォンは雨が嫌いらしく、一日中家の中にいてじっとしていた。
好機と思ったが、家の中は地脈から遠い。
魔力の吸収効率が外の十分の一以下だった。
四日目。シフォンが木に登り、降りられなくなった。アイリスとその父ガリスが梯子を持ち出して大騒ぎをしている間、吾輩は木の上で宙吊りになりながら現実を直視した。
五日目。本日。
吾輩は新しい作戦を立てた。
夜だ。
夜中の二刻(人間の言う深夜二時頃)、アイリスもガリスも熟睡している。シフォンは暖炉の前の敷物の上で丸まっていた。眠っている。動かない。
これだ。これしかない。
吾輩は慎重に意識を集中させた。夜の地脈は静かで、余計な波が立たない。日中よりも魔力の流れが読みやすい。吾輩はゆっくりと、地脈の流れに手を伸ばした。細い流れを掴み、引き込み、影の中に蓄えていく。
一刻が過ぎた。
順調だった。静かで、穏やかで、シフォンはぴくりとも動かない。吾輩はじわじわと魔力を蓄えながら、密かに高揚していた。
そうだ。これだ。これが正しい方法だ。猫が寝ている夜中に作業をすればいい。なぜ今まで気づかなかったのか。吾輩としたことが、日中にこだわりすぎていた。夜型に切り替えれば万事解決——。
吾輩は計画の続きを思い描いた。夜の間に魔力を蓄積し、一月もすれば討伐前の三割程度まで回復できるはずだ。そこまで回復すれば、影の外に「手」を出すことができるようになる。物質に干渉できる。情報収集もできる。かつての部下たちへ気配を送ることも——いや、今はまだ早い。まず自分の力を取り戻すことが先決だ。
このまま何事もなければ——。
シフォンが突然、がばりと起き上がった。
吾輩は仰天した。集中が乱れ、吸収しかけていた魔力が霧散した。
「な、なぜ起きる……! 今は夜中だぞ……!」
シフォンは吾輩の声など聞こえないように、ゆっくりと伸びをした。前脚を思い切り前に伸ばし、背を弓なりに反らせ、大きな欠伸をした。それから立ち上がって、台所の方へ歩き出した。
吾輩は引きずられた。
シフォンは台所で水を飲んだ。椀に残っていた水を、ちろちろと舌で飲んだ。それから台所の窓の下に座り、外を眺めた。
夜の静寂の中で、遠くで虫が鳴いている。月が出ていた。
シフォンはしばらく月を見ていた。
吾輩も見た。
この世界の月は、魔王の時代も今も変わらない。満月の少し手前で、白く丸く、静かに空に浮かんでいる。昔、吾輩は月を見ながら新しい征服計画を練ったものだった。静かな夜に、地図を広げて、どの国を次に落とすか、どの魔族を遠征に使うか——。
シフォンがにゃあと小さく鳴いた。
何に向かって鳴いたのかわからない。月に向かって鳴いたのかもしれないし、単に独り言のようなものかもしれない。
それから、シフォンは踵を返して居間に戻り、また敷物の上に丸まった。
今度は本当に眠った。すぐに寝息が聞こえ始めた。
吾輩は呆然としながら、また集中を試みた。ゆっくりと、慎重に——。
シフォンが寝返りを打った。
吾輩は諦めた。
翌朝、アイリスが起きてきた時、吾輩はひどく疲弊していた。
疲弊する体を持っていないはずなのに、精神的な消耗というのは影にも効くらしい。
集中を乱され続けた一夜の後で、吾輩は影の端がわずかに薄くなっているような感覚を覚えた。
「おはよ、シフォン」
アイリスがシフォンの頭を撫でた。シフォンはすっきりとした顔で目を開け、なんの遠慮もなくアイリスの膝に前脚をかけた。
「今日は機嫌いいね」
機嫌がいい。夜中に人の——魔王の——集中を何度も乱しておいて、朝から機嫌がいいとはどういうことか。
吾輩は疲れ果てた意識の端で、新しい計画を練ることにした。
問題を整理しよう。吾輩の魔力吸収には、シフォンの静止状態が必要だ。しかしシフォンはいつ動き出すかわからない。日中は様々な刺激に反応して動き回り、夜中は夜中で勝手に起きて水を飲みに行く。
つまり、シフォンが「確実に長時間静止する状況」を作り出せればいい。
どうすれば猫は長時間動かないか。
答えは単純だった。
腹いっぱいにして、暖かくして、安心させれば、猫は長く眠る。
吾輩は影の中でうなずいた。アイリスがシフォンに食事を与えるタイミングを観察し、食後の睡眠時間を把握して、その時間帯に集中して魔力を吸収する。シンプルかつ合理的な計画だ。
魔王の頭脳を使って、猫の睡眠サイクルを研究することになるとは夢にも思わなかったが——まあ、手段は選ばぬ。
吾輩はこの五日間の観察を元に、シフォンの行動パターンを整理した。
朝:アイリスに起こされるか、もしくは勝手に起きてくる。食事の後は約一刻の毛繕いと、その後ひと眠り。
昼:日当たりのいい場所を探して移動し、二刻から三刻ほど昼寝。しかし物音や匂いに反応して途中で起きることが多い。
夕方:アイリスが帰ってくると活発になり、じゃれたり甘えたりする。
夜:食後に眠るが、夜中に一度か二度目を覚ます。
つまり、最も長く静止しているのは食後の昼寝の時間だ。しかしこの時間は村人が活動しており、物音が多い。次点は夜の食後から夜中までの間——これが今夜の作戦だった。
問題は、シフォンに「夜中に起きない」という概念が存在しないことだ。
計画実行は、その日の昼過ぎから始まった。
アイリスがシフォンに昼食を与えた。干し魚を少量ほぐしたものと、温めたミルクだ。シフォンはそれを平らげ、満足そうに毛繕いをしてから、居間の日当たりのいい場所に移動して横になった。
絶好の機会だ。
吾輩は静かに集中を開始した。
地脈の流れを掴む。引き込む。蓄える。慎重に、丁寧に。
シフォンは動かない。寝息が聞こえる。
一刻。
順調だ。
二刻。
手応えがある。この調子なら——。
外から声がした。
「アイリスー! 遊ぼうー!」
子供の声だった。近所の子だろう。
「ちょっと待ってー!」とアイリスが答え、居間に入ってきた。
「シフォン、ちょっと外行ってくるね。お留守番できる?」
シフォンは無言だった。当然だ。
アイリスが外に出た。子供たちの楽しそうな声が遠くなった。
静かになった。
シフォンは寝ている。
吾輩は集中を続けた。これはいい。人間がいなければ誰も声をかけないし、刺激も少ない。このまま三刻でも四刻でも——。
窓の外で何かが動いた。
シフォンの耳がぴくりと立った。
吾輩はぞっとした。
窓の外に、鳥が一羽とまっていた。小さな茶色い鳥で、窓枠に座って首を傾けていた。
「……見るな。見るだけにしておけ。どうせ鳥など取れん、窓が閉まっている……」
シフォンが立ち上がった。
窓に向かって、音もなく近づいていく。狩猟本能に従った、完璧な低姿勢だ。腹を床すれすれに這わせ、後ろ脚でじわじわと距離を詰める。
鳥は気づいていない。のんびりと羽を繕っている。
「だからやめろと……窓は閉まっているのだぞ……閉まって……」
シフォンが跳躍した。
窓ガラスに激突した。
ガン、という音がした。鳥が驚いて飛び去った。シフォンは窓の前でぺたんと座り、飛び去った鳥を目で追っていた。
吾輩の集中は、完全に途絶えた。
溜めていた魔力が、またしても制御を失った。今度は方向がまずかった。窓ではなく、壁の方角に向かって魔力の奔流が走り——。
ドゴン。
壁の外で大きな音がした。
吾輩は嫌な予感がした。全力で嫌な予感がした。
シフォンは窓の前で、飛び去った鳥の方向を虚ろな目で見ていた。追いかけるべきか追いかけないべきか、猫特有の数秒の逡巡の後、追いかけないことを選択し、その場で毛繕いを始めた。なかったことにするつもりらしい。
吾輩にはなかったことにする余裕がなかった。暴走した魔力がどこへ向かったか——壁の先は確か畑だったはずで、畑に魔力の奔流が直撃すれば——。
しばらくして、外から声が聞こえてきた。
「うわあ! 麦が! 麦が生えてる!」
子供の声だ。
「え、なんで!? ここ秋だよ!? なんで麦が!?」
魔力の奔流が、家の裏手の畑に当たったらしかった。時ならぬ魔力を受けた土が活性化し、すでに刈り取られていた畑の根から、青々とした麦の芽が一斉に芽吹いたようだった。
これは——。
「奇跡だー!!」
子供が叫んだ。
その日の夕刻には、村の半分ほどの人間がアイリスの家の裏手に集まっていた。
ガリスが目を丸くしながら畑を見回している。神父のベルンも来ていた。白髪に白い顎鬚の老人で、村の誰からも尊敬されている人物らしい。
「これは……」とベルンは畑の前でつぶやいた。
「確かに今朝まで、この畑には何も生えていなかった」
「そうです、神父様。秋に刈り取ったきりで」とガリスが答えた。
「しかし今は青麦が——それもこれだけの量が」
ベルンは首を振った。何かを考えているようだった。
「ガリス殿、聞いてもよいか。最近、この家に変わったことは?」
「変わったこと……」ガリスが少し考えた。
「そういえば、娘が白い猫を拾いまして」
「猫」とベルンが繰り返した。
「いつから」
「五日ほど前です。魔王城が崩れた翌日から数えて——」
ベルンの眼がすっと細くなった。
吾輩は嫌な予感がした。
シフォンはというと、家の前の石段に座って、集まった人間たちを興味なさそうに眺めていた。金色の目で、ぼんやりと。
「……その猫を見せてもらえるか」
ベルンが言った。
ガリスがシフォンを指差した。石段の上の、白くふわふわした生き物を。
ベルンが近づいた。シフォンはベルンを見た。ベルンはシフォンをのぞき込んだ。
吾輩は内心で身構えた。この老神父、目つきが鋭い。長年信仰に携わってきた者特有の、何かを「見通す」ような眼光がある。
まさか影の中に魔王が潜んでいるとは気づくまいが、少々居心地が悪かった。
シフォンはベルンの視線を涼しく受け流しながら、石段の上でゆっくりと前脚を折り畳み、いわゆる「香箱座り」の体勢になった。
丸くなって、しっぽを体に巻きつけて、完全にくつろいだ姿だ。
ベルンの眼が、その姿を見てわずかに見開かれた。
二者の間に、しばしの沈黙が流れた。
そしてベルンは——おもむろに膝をついた。
「やはり……」と老人はつぶやいた。
「この眼は、ただの獣の眼ではない。金色の瞳、純白の毛並み——そして魔王が討伐された日に現れた。これは偶然ではない」
吾輩はゆっくりとした絶望を感じ始めた。
「神が遣わされた使いだ」とベルンは続けた。
「魔王の討伐を祝い、この村を守るために降りてきた聖なる獣——間違いない」
村人がざわめいた。
「聖獣……!」
「やっぱり! 井戸が直ったのも、麦が生えたのも!」
「シフォン様!?」
「シフォン様がいてくださるから、この村は守られているんだ!」
吾輩は影の中で固まっていた。
聖獣。
吾輩が、聖獣。
三大陸に恐怖を振り撒いた魔王ヴァルキスが——聖獣。
シフォンはといえば、膝をついているベルンの前で、大きなあくびを一つした。牙が見えた。そのままぺたんと石段に寝転び、腹を上に向けた。
村人たちが歓声を上げた。
「お腹を見せてくださっている! 信頼の証だ!」
違う。眠いだけだ。
吾輩は言いたかったが、言えなかった。影だから。
その夜、アイリスは大はしゃぎだった。
「シフォン、聖獣だって! 聖獣様だって! すごいじゃん!」
シフォンは夕食の魚を食べていた。
「ベルン神父様がそう言ったんだよ? 村で一番えらい人が! シフォンってすごい猫だったんだね」
シフォンは食べ終わって、椀をぺろぺろと舐めた。もっとくれという意思表示だ。
「もうないよ」とアイリスが笑った。
「聖獣様でも、おかわりはなしです」
シフォンが不満そうに鳴いた。
吾輩はその光景を、脱力しながら眺めていた。
聖獣。
聖獣か。
吾輩のこれまでの人生——正確には今は影だが——において、「聖」という文字と縁があったことは一度もなかった。
吾輩は闇だ。夜だ。恐怖だ。支配だ。それが吾輩の本質で、吾輩の誇りだった。
それが今や、聖獣だ。
しかもその原因は——廃井戸の修復と、時ならぬ麦の芽吹き。どちらも吾輩が意図したものではなく、シフォンが蝶を追いかけたり鳥に突撃したりしたせいで暴走した魔力の、まったくの偶発的な産物だ。
吾輩はため息をついた。
影がため息をついた。音はしない。ただ、わずかに揺れた。
かつて吾輩の名を聞けば国王でさえ震え上がった。魔族の将軍たちは膝をついて命令を待った。世界中の民が吾輩を恐れ、夜ごと吾輩の討伐を神に祈った。それが今では——。
しかし——と吾輩は考え直した。
考えようによっては、悪くないかもしれない。
「聖獣」として村人に認識されれば、誰も吾輩を追い払おうとしない。むしろ大切に扱われる。シフォンが丁重に世話をされれば、食事も住処も安定する。つまり、吾輩の魔力回復のための環境が整う。
それに——勇者ライオスが「魔王の痕跡」を探しているという噂を、吾輩はすでに耳にしていた。昨日、村人の会話の中に混じっていた。
「勇者様が、魔王の魂が消えたか確かめて回っているらしい」という話だ。
聖獣として村人に守られていれば、勇者も手出しはしにくい。
……そう、これは好都合なのだ。計画の中に組み込めばいい。
吾輩が、聖獣として崇められることには、なんの問題もない。
「シフォン、明日、教会に来てほしいって神父様が言ってたんだけど」
アイリスがシフォンに言い聞かせるように言った。
「行ける? まあ、シフォンが嫌なら行かなくていいんだけど」
シフォンは関係なさそうに毛繕いをしていた。
教会。
吾輩は、教会という場所についての記憶を探った。かつて征服した国の教会を幾つか制圧したことがある。神の象徴とされる場所で、民の信仰の中心だ。
そういった場所には往々にして、古い時代の魔力の痕跡が眠っていることがある。地脈の集まる場所に建てられることが多いのだ。
教会か。
なかなか悪くない。
「明日、一緒に行こうか、シフォン」
シフォンはアイリスの言葉など聞いていない様子で、毛繕いの途中で急に固まり、自分の手をじっと見つめた。それから首を傾けた。なぜ固まったのか、自分でもよくわかっていないようだった。
猫とはそういう生き物らしい。
吾輩にはまだまだ理解しがたいことだらけだが——まあ、時間はある。
必ず復活する。必ず世界を——。
「シフォン、こっちおいで」
アイリスが両腕を広げた。
シフォンが、のそのそとアイリスの膝に乗った。
アイリスがシフォンを抱きしめて、頭に頬を押しつけた。
「ふわふわ〜」と小さく言った。
吾輩は黙って、二者を眺めた。
まあ——急ぐことはない。今夜はよしとしよう。
吾輩は視線を上げた。窓の外に、昨夜と同じ月が見えた。
明日は教会へ行く。地脈の状態を確かめる。ベルンという老人がどれほどの知識を持っているかも、見極める必要がある。あの眼光は侮れない。
やることは多い。計画は着々と進んでいる——ということにしておこう。
今日の誤算など、大した問題ではない。魔王ヴァルキスが猫の睡眠サイクルに手こずったなど、誰にも知られなければ歴史には残らない。残らなければなかったことも同然だ。
シフォンが、アイリスの膝の上で小さく「ぷるる」と喉を鳴らした。
吾輩はその音をしばらく聞いていた。
猫の喉の音というのは、妙に落ち着く。かつて玉座の足元でこの音を聞いていた時も、そう思っていた。認めたくはないが、事実だ。
まあ、今夜のところは休むとしよう。
明日また、作戦を立て直せばいい。




