吾輩は猫の影。ただし、元魔王である
吾輩は猫の影である。
名前はまだない、という言い方は正確ではない。吾輩にはかつて、轟くような名があった。ヴァルキス。三大陸に君臨し、闇の軍勢を率い、夜の王と恐れられた偉大なる魔王の名である。それが今や——影だ。猫の影だ。
物事の始まりを語るには、終わりから語らねばならぬ。
アルクス大陸の歴史において「魔王討伐」と記録されるであろうあの夜のことを、吾輩は今も鮮明に覚えている。
思い出したくなくとも、脳裏——正確には今や影となった吾輩の「記憶」の中に——くっきりと焼きついて離れないのだから、どうしようもない。
それは三ヶ月前の秋の夜のことであった。
魔王城の玉座の間。漆黒の石造りの柱が天井まで伸び、床には闇の紋章が刻まれ、左右には魔族の精鋭兵が居並ぶ、まことに壮麗な空間であった。吾輩は玉座に深く腰を掛け、足を組み、片手に闇属性の魔力の塊を転がしながら、扉の向こうから聞こえてくる戦闘音に耳を傾けていた。
ガキン、バキン、ドオオン。
廊下を突破する音が、着々と近づいていた。
別に慌ててはいなかった。人間の勇者など、これまで何十人も返り討ちにしてきた。今代の勇者「ライオス」なる若造についても、報告は受けていた。確かに強い。しかし吾輩の敵ではない——そう、その時点まではそう信じていた。
玉座の足元で、白い毛並みの小さな生き物が丸まっていた。
吾輩の飼い猫だ。生後二年ほどの雌猫で、毛は艶やかな純白、瞳は金色という、なかなか気品のある見た目をしていた。魔王たる吾輩が猫など飼っているとは誰も知らず、知ったとしても信じなかったであろうが、実のところ吾輩はずっと昔から猫が好きだった。
征服した国の王から貢物として差し出されたこの猫を引き取ったのが八ヶ月前。名前を付けるつもりはなかった。ただ、玉座の足元で丸まっている姿が、何となく心地よかった。
「……来るか」
吾輩はひとりごちた。
扉が破れた。
現れたのは、金髪の若い男だった。鎧は傷だらけ、剣は血に濡れ、しかし眼光だけは不思議なほど澄んでいた。その後ろに、疲労困憊の仲間が数人続く。
「魔王ヴァルキス」と若い男——勇者ライオス——は言った。
「世界の平和のために、あなたには今日ここで終わってもらう」
吾輩は玉座から立ち上がった。
「言葉は結構。来るがよい、若者」
戦いは苛烈だった。
ライオスは強かった。吾輩が認めるのも癪ではあるが、実際に強かった。闇の魔法を光の剣で斬り裂き、魔族の精鋭を次々と打ち倒し、そして最後には——吾輩の渾身の魔力の砲撃を、その身に「光の盾」で受け止め、逆に剣に変換して撃ち返してきた。
あれは予想外だった。正直に言おう。
吾輩は胸に剣を受け、玉座の前に膝をついた。
魔力が霧散していく感覚があった。体が崩れていく。魂が散り散りになろうとしていた。あと数秒で消滅する——その瞬間、吾輩の意識は、足元の小さな温もりを感知した。
猫だ。
あの白猫が、逃げもせず、玉座の脇に座って吾輩を見上げていた。金色の目が、静かに吾輩を見つめていた。
意識が薄れる刹那に吾輩が考えたことは、情けないことに「この猫、誰が面倒を見るのだ」ということだった。
魂というものは、消える寸前に最も近いものへ引き寄せられるという。魔術の理論書に書いてあった。吾輩自身がそれを書いたのだが、この時ほどその記述を後悔したことはない。
なぜなら——吾輩の散り散りになった魂は、猫の体ではなく、猫が作り出していた「影」の中に、するりと滑り込んでしまったからだ。
目が覚めた時、吾輩は「平面」だった。
厚みがない。重さがない。色は黒で、形は——これが最初の屈辱だったが——猫の形をしていた。四つ足で、丸い耳で、しっぽが長い。猫の影そのものだった。
しかし光の当たり方によっては、吾輩の意志で形を変えることができた。翼を広げ、角を生やし、かつての魔王の姿へと変形できる。それだけが唯一の救いだった。
問題は、吾輩がこの猫の動きに完全に依存しているという事実だ。
猫が歩けば吾輩も引きずられる。猫が丸まれば吾輩も丸まる。猫がジャンプすれば吾輩も空中に舞い上がる。つまり吾輩の行動は、すべてこの気まぐれな生き物の行動次第なのだ。
最初の数日、吾輩は状況を整理することに費やした。
魂の大半は今や影の中にある。魔力も、影を媒介にすれば使えることがわかった。ただし、猫が静止している時間が必要で、動き回っている間は魔力の制御が著しく難しくなる。
さらに困ったことに——吾輩は猫に話しかけることができるが、猫は吾輩の言葉を理解しない。当然だ。猫だから。
しかし何故か、影の形が変わる時——つまり吾輩が魔王の姿になった時——猫はちらりとこちらを見ることがある。何かを感じているのかもしれない。あるいは、単に影が面白い形になったので視線を向けているだけかもしれない。
魔王城が崩壊した後のことは、断片的にしか覚えていない。
城が崩れる轟音。勇者たちの歓声。そして長い長い揺れ——おそらく猫が城の瓦礫をくぐり抜けながら逃げていたのだろう——の後で、気がつくと外だった。
秋の野原だった。
猫は草むらの中に座り、毛繕いをしていた。長い舌で前足を舐め、それで耳を拭く。悠然たるものだ。背後では城の残骸が煙を上げているというのに、この生き物はまるで動じていなかった。
吾輩は影の中から世界を見渡した。
夜が明けようとしていた。東の空が白み、鳥が鳴き始めていた。遠くに村の灯りが見える。
よし、とその時吾輩は思った。
これはむしろ好機やもしれぬ。肉体は失ったが、魂は生きている。魔力も使える。体がないぶん、勇者たちも「魔王は死んだ」と思っている。この猫の影に潜んで、ひそかに魔力を蓄え直し、やがて——吾輩は必ず復活を果たす。世界を、再び、吾輩の手中に収める。
計画は単純明快だった。
あとはこの猫が協力してくれれば——。
猫は草むらからのっそりと立ち上がり、村の方角へ向かって歩き出した。
まあ、いい。吾輩もそちらへ行くつもりだった。
ウェスパル村というのは、魔王城から南に半日ほど歩いたところにある、小さな農村だった。
木と石でできた家が二十軒ほど、村の中央に小さな広場と井戸、それから教会らしき建物がある。住人は百人に満たない。
魔王の支配が世界を覆っていた時代も、山あいのこの村はほとんど無縁であったらしく——それはそれで少し悔しいが——のんびりとした雰囲気を漂わせていた。
猫はその村の外れで立ち止まり、しばらく匂いを嗅いでいた。
吾輩は魔王の姿に影を変えながら偵察を試みた。村人は今日の早朝から働いている。
農夫が畑に出て、洗濯物を抱えた女が井戸へ向かい、子供たちが走り回っている。
平和そのものだ。
吾輩はかつてこの「平和」を壊すことに腐心してきた。今思えば、なぜそこまで執着したのかと自問しなくもないが、それはまた別の話だ。
猫が村の入り口に近づいた時、声がかかった。
「あ——猫だ!」
高い声だった。
飛んできたのは、十歳かそこらの少女だった。赤みがかった茶色の髪を二つに結い、麦色のエプロンドレスを着ている。膝に泥がついていた。
少女は猫の前にぴたりと立ち止まり、腰を折って顔を近づけた。
「すごい、真っ白! ふわふわ! 怪我してない? お腹空いてる?」
猫は少女の顔を見て、そのまま静止した。
逃げない。
吾輩は驚いた。猫というものは基本的に見知らぬ人間を警戒するはずだが、この猫は少女の前で一歩も動かず、じっと金色の目で見つめていた。
「おいで」と少女は両手を差し出した。
「怖くないよ。うちに来ない? ミルクあるよ」
ミルク。
その言葉を聞いた瞬間、猫の体に微妙な変化が走るのを吾輩は感じた。耳がぴくりと立つ。ひげがわずかに動く。そして猫は——少女の腕の中に、すっぽりと収まった。
吾輩は慌てた。いや、正確には、こんな状況でも慌てるという感情があることに少し驚きながら、しかし慌てた。
待て。待つのだ。ここで人間の子供と関係を持つ必要はない。吾輩は魔力を蓄えに来たのであって——。
「うわあ、ふわふわ! 重い! 重いけど、すごくふわふわ!」
少女は猫を抱えたまま走り出した。
完全に無視された。
少女の名前はアイリスといった。
ウェスパル村の外れに住む、農家の子だ。父親と二人暮らしで、母親はアイリスが幼い頃に病で亡くなったらしい。
それで家事の大半を担っていた。賢そうな目をしていて、よく笑い、口から言葉がとめどなく出てくるタイプだった。
吾輩が知ったのは、翌日以降のことだ。
その日はとにかく——家に連れてこられた。
アイリスの家は石造りの質素な建物で、台所、居間、寝室が一続きになっている。暖炉の前には古い椅子と小さなテーブル。壁には干し草と花が飾られていた。
これが人間の生活空間というものか、と吾輩は眺めた。吾輩の玉座の間には及ぶべくもないが、まあ清潔ではある。
猫はアイリスに床に下ろされた直後、台所の隅にある食器棚の下に潜り込んだ。
「え、怖かった? ごめんね。ゆっくりしてて」
アイリスは慌てず騒がず、そのまま木の椀にミルクを注いで猫の前に置いた。
それから離れて、別のことをしながら「ちらちら」と猫の様子を窺っていた。
賢い子だ、と吾輩は思った。猫が落ち着くのを待っている。猫の扱いを心得ている。
やがて猫はミルクの椀に近づいた。少し匂いを嗅いで、それから飲み始めた。ちろちろと、小さな舌で。
アイリスが小さな声で「やったあ」と呟いた。
吾輩は複雑な気持ちだった。
まあ、いい。一時的に身を潜めるのに人間の家ほど都合の良い場所はない。勇者たちも、まさか魔王が農村の民家にいるとは思わないだろう。しばらくここで力を溜め、機を見て行動に移す。それだけの話だ。
「ねえ、名前つけていい?」
アイリスが言った。猫を見ながら。
猫は返事をしなかった。当然だ。
「毛が真っ白でふわふわだから……シフォンにしよ。お菓子のシフォンケーキみたいで、なんかかわいくない?」
シフォン。
なんという名前だ、と吾輩は思った。菓子の名前ではないか。
吾輩には「ヴァルキス」という、大陸中に轟く威厳ある名があるというのに、この猫——もとい、吾輩の宿った猫——が「シフォン」とは。闇の王の影宿りし猫の名が、菓子とは。まあ確かに……純白でふわふわではあるが。
しかし猫は——シフォンは——ミルクを飲みながら、特に気にした様子もなかった。
その夜、吾輩は計画を立て直した。
まず現状の整理だ。
吾輩は今、この農村の民家に住んでいる。いや、正確には猫が住んでいて、その猫に引きずられる形で吾輩もここにいる。猫の名前はシフォン。世話をするのはアイリスという少女で、父親のガリスは昼間は畑にいて夜は早く寝る。
魔力の状態は——回復途上だ。討伐の際に大量に失った。完全に戻るまで、おそらく数ヶ月はかかる。その間に少しでも溜め込めるよう、近くに魔力の源泉がないか調べる必要がある。
影から外の世界を観察する限り、この村には「地脈」が走っているらしい。地脈とは大地を流れる魔力の流れのことで、うまく利用できれば吾輩の回復を大幅に早められる。
問題は、地脈の魔力を吸収するには集中が必要だということだ。
静止状態で、少なくとも一時間以上。
吾輩は、シフォンを見た。
シフォンは暖炉の前の古い椅子の上で丸まり、目を閉じていた。寝ている。
よし。好都合だ。
吾輩は影の意識を集中させた。地脈に繋がるイメージを作り、魔力の流れを引き込もうとした。ゆっくりと、慎重に——。
シフォンが寝返りを打った。
影が揺れた。集中が乱れた。
しばらくして、シフォンが再び静止した。
吾輩は再び集中した。地脈に手を伸ばし——。
シフォンが立ち上がった。伸びをした。大きな欠伸をして、椅子から降り、台所の方へ歩いていった。
吾輩は引きずられた。
シフォンは食器棚の前で立ち止まり、ミルクの椀を見下ろした。空だ。匂いを嗅いで、そのまま椅子の下に潜り込んだ。
また違う場所で寝始めた。
吾輩は絶句した。
これが……これが今後の吾輩の生活なのか。
翌朝、アイリスが起き出してきた時、シフォンはまた別の場所——今度はアイリスの寝台の上——で丸まっていた。アイリスはシフォンを見て笑い、そっと頭を撫でた。
「おはよ、シフォン」
シフォンは眼をうっすら開け、そのまままた閉じた。
アイリスが朝食の用意を始める音が聞こえた。なにやら鍋をかき回しながら、鼻歌を歌っている。
「ねえシフォン」とアイリスは言った。
「魔王、倒されたんだって。父さんが言ってた。勇者様がね、ついに」
吾輩は影の中でぴくりとした。
「これで本当に平和になるんだって。私が生まれる前から魔王がいたんだよ? 十年以上も。みんな怖くてさ、でもこれでもう大丈夫なんだって」
アイリスは楽しそうに話し続けた。
「勇者様ってかっこいいんだろうなあ。私も冒険者になりたいとか思ったこともあるんだよね。でも今はお父さんの手伝いしてるし……シフォンはどう思う? 旅って楽しいと思う?」
シフォンは返事をしなかった。
当然だ。猫だから。
吾輩は——返事をしたい衝動を、辛うじて抑えた。
旅か。旅は確かに楽しい時もある。吾輩も若い頃は各地を巡り、魔力の秘宝を集め、様々なものを見た。アイリスの言う「冒険」に近いものを、確かにした。
しかしそれは、今とは関係ない話だ。
吾輩はこれから魔力を蓄え、復活を果たし、世界を再び——。
「シフォンが旅の仲間だったら、絶対頼もしいね。真っ白でかっこいいし」
アイリスが言った。
シフォンがむくりと起き上がり、アイリスの方を向いた。
頼もしい。猫が頼もしい。笑わせるな、と吾輩は思った。この猫の影に宿っているのは、三大陸を征服した魔王なのだぞ。
しかしシフォンはそんな吾輩の感想など知ったことではなく、アイリスに向かって小さく鳴いた。
「ミャア」
「おなか空いた?」
シフォンはまた鳴いた。
「もうちょっと待ってて。今作ってるから」
シフォンは待てなかった。台所に歩いていき、アイリスの足元でまた「ミャア」と言った。
「わかったわかった、先にあげる!」
アイリスが笑いながら魚の切れ端を椀に入れた。シフォンはそれに顔を突っ込んだ。
吾輩は影の中でため息をついた。
これが、吾輩の新しい生活の始まりだった。
その日の午後、吾輩は初めて本格的に魔力を使う機会を得た。
シフォンが日向ぼっこをしていた。村の中央にある広場の石畳の上で、腹を出して横になり、完全に動かなかった。これ以上ない静止状態だ。
吾輩は慎重に意識を集中させた。地脈に接触し、少しずつ魔力を引き込む。最初は細い糸のようだった流れが、だんだんと太くなっていくのを感じた。
いいぞ。このままいけば——。
シフォンの耳がぴくりと動いた。
何かを聞いた。吾輩も気配を探ると——蝶だ。黄色い蝶が二匹、広場の隅の花の周りを舞っていた。
シフォンの金色の目が開いた。
まずい。
「起きるな。起きるでない。そのまま寝ておれ——」
当然、猫に言葉は届かない。
シフォンは勢いよく立ち上がり、蝶に向かって駆け出した。
引きずられた吾輩の意識の中で、集めかけていた魔力が暴走した。方向の定まらない魔力の奔流が影から溢れ出し——。
ドゴン、という音がした。
砲弾のような魔力の塊が、とんでもない方向に飛んだ。広場の隅にある古い石の壁に命中し、その向こうへと抜けていった。
吾輩は呆然とした。そんな方向に何があったか——。
「おおっ!」
誰かの驚く声がした。
シフォンが蝶を追いながら広場を突っ切り、石壁の向こうを覗けるところまで来た。吾輩も釣られて見る。
そこには村の井戸があった。
長年放置されていたらしく、石組みがぼろぼろで、蔦に絡まれた廃井戸だった——しかし今は、魔力の衝撃が蔦を吹き飛ばし、詰まっていた土砂を抉り、清水が勢いよく湧き出していた。
村人が二三人、呆気にとられた顔で井戸を見ていた。そして気づいた。水が出ている。きれいな水が。
「井戸が直った!」
老婆の声が広場に響いた。
「水が出てる! 何年ぶりだ!」
村人たちが次々と集まってくる。笑い声が広がる。子供が駆けてくる。
シフォンはそんな騒ぎには一切関係なく、蝶を追いかけ続けていた。
吾輩は——影の中で——静止していた。
今のは事故だ。意図したものではない。地脈の魔力が暴走しただけで、吾輩は別に——。
「ねえ見て!」
アイリスが走ってきた。シフォンを見つけて、目を輝かせながらしゃがみこんだ。
「シフォン! 井戸が直ったんだって! ずっと使えなかったのに! すごいタイミング! もしかしてシフォンが来たから? 幸運を連れてきてくれたの?」
シフォンはアイリスの顔を見て、そのまま逃げ出した蝶の方向へまた走った。
「あ、逃げた! シフォン!」
笑いながらアイリスが追いかける。
吾輩は引きずられながら、ただただ、複雑な気持ちでいた。
三大陸を支配した魔王ヴァルキスの最初の魔法の一撃が——廃井戸の修復に使われた。
これが、吾輩の新たな「伝説」の始まりだった。
まったく、冗談ではない。
吾輩は今日から魔力の回収と世界征服の再挑戦を開始するつもりであった。
しかしシフォンは今、蝶を追いかけることしか考えていない。
それが、すべての始まりである。
夕刻、アイリスの家に戻ったシフォンは、暖炉の前のお気に入りの場所——椅子の下の柔らかい敷物の上——にどさりと横たわり、すぐさま目を閉じた。
蝶を追いかけ、広場を駆け回り、途中でガリスの作業小屋に迷い込んで大騒ぎを起こし、それからアイリスの膝の上で一時間ほど眠り、起きたらまた何かの匂いにつられて畑の方まで歩いていった。そういう一日だったようだ。
疲弊しているのは吾輩の方だ。
吾輩は影の中で、今日起きたことを整理した。
魔力の回収:失敗。
世界征服への第一歩:失敗。
代わりに起きたこと:廃井戸の修復。
記録としてあまりにも惨めだった。しかし今日わかったことがある。
この猫——シフォン——は、吾輩が思っていたよりもはるかに「強固な意志」を持っている。
いや、意志というものは違うかもしれない。欲求、と言うべきか。眠りたい時は眠る。食べたい時は食べる。追いかけたい時は追いかける。
誰の声も聞かず、誰の都合も考えず、ただひたすら「今この瞬間にしたいこと」をする。
それを止める手段が、吾輩にはない。
体がないのだから。影だから。
吾輩は考えた。正面から対立しても意味がない。影から声をかけても聞こえない(あるいは聞こえているが無視されている)。
魔力で猫の体を動かすことも、試みてみたが不可能だった——それは「乗っ取り」になり、影に宿った魂の性質上、猫の体への直接干渉はできない仕組みになっていた。
つまり吾輩は、この猫の「気まぐれ」が自分の望む方向を向くのを、ひたすら待つしかないのだ。
これを屈辱と言わずして何という。
外が暗くなった。
アイリスが夕食の用意をする音がする。
ガリスが畑から戻ってきて、手を洗い、椅子に座る気配がした。
二人が何か話している。魔王討伐のことや、今年の収穫のことや、直った井戸のことを話しているようだった。
「……そういえば、シフォンが来た日に井戸が直ったね」
アイリスの声が聞こえた。
「偶然だろ」とガリスが答えた。
「偶然かなあ。なんか縁起のいい猫な気がする」
縁起のいい猫。
吾輩はまた複雑な気持ちになった。縁起などというものは信仰に過ぎない。偶然の出来事に意味を見出したがる人間の習性だ。
しかし——
シフォンが寝返りを打った。
丸まった黒い体が少し伸び、また丸まった。無防備な寝姿だ。耳がわずかに動いている。台所の音を聞きながら眠っているのか、あるいは夢を見ているのか。
吾輩はその姿を——影の中から——眺めた。
妙なことを思った。
魔王城の玉座で、この猫が足元に丸まっていた光景を思い出した。漆黒の石床の上に、純白の小さな体が静かに寝ていた。
魔族の精鋭が居並び、強大な魔力が満ちあふれる空間の中で、この生き物だけがそこから切り離されたように——ただ、寝ていた。
何にも怯えず、何にも媚びず、何にも支配されず。
それはある意味で、吾輩が追い求めたものの反対側にある生き方だった。
吾輩は力を持つことで自由になろうとした。世界を支配することで何者にも縛られない頂点に立とうとした。
しかしこの猫は——生まれた時からすでに、何者にも支配されていない。
ばかなことを考えた、と吾輩はすぐに打ち消した。
吾輩とこの猫を比較することに意味はない。猫は猫だ。知性もなければ野望もない。ただの動物だ。
「シフォン、ご飯だよ」
アイリスが椅子の下を覗いて言った。
シフォンは片目だけ開けた。
「ご飯って言ったよ? 魚あるよ?」
シフォンがゆっくりと立ち上がった。伸びをして、あくびをして、それからのそのそとアイリスの方へ歩いていった。
急がない。走らない。でも確かに、行く。
アイリスが嬉しそうに笑った。
吾輩は引きずられながら、台所の方へ移動した。
そうだ。明日こそ地脈の魔力を吸収する。明日こそ計画を進める。
今日の失敗は今日の失敗だ。
吾輩はヴァルキスだ。三大陸を征服した魔王だ。猫の気まぐれに翻弄されるような器ではない。
必ず、復活を果たす。
必ず——。
「シフォン、お利口さんだね」
アイリスが頭を撫でながら言った。
シフォンは撫でられながら魚を食べていた。
吾輩は黙っていた。




