第48話:シフォンの本気
秋の収穫祭は、今年も盛大だった。
村の広場に篝火が焚かれ、収穫した麦や野菜が並べられ、村人全員が集まって食べて飲んだ。去年と違うのは、ライオスがいることだった。勇者がウェスパル村の収穫祭に参加しているという事実に、最初は皆が緊張したが、ライオスがセルジュと並んで普通に酒を飲み始めると、それも溶けた。
シフォンは広場の中央に置かれた台座の上で、丸まっていた。
香箱座りで目を細めて。完全に昼寝の体勢で。
村人たちが「聖獣様がお祭りを見守ってくださっている」と言っていたが、吾輩の目には昼寝にしか見えなかった。去年の聖獣祭でも同じことをしていた。シフォンにとって、台座というものは昼寝の場所でしかない。
ルカは台座の下で走り回っていた。子供たちが追いかけていた。もう子猫の面影はほとんどないが、子供たちの間では一番の人気者だった。シフォンは子供に触られると迷惑そうにするのに、ルカは喜んで遊ぶ。性格が違うのだ。
アイリスは友人のセルジュの娘と話しながら、時々シフォンの方を見ていた。ガリスは村の古老たちと今年の収穫の話をしていた。ベルンが静かに酒を飲みながら広場を眺めていた。
吾輩はシフォンの影として台座の上にいた。篝火の暖かさが、地面越しに伝わってくる感じがした。影に感覚はないが、概念として、今夜は温かい、と思っていた。
こういう夜が、続いてほしいと思う自分がいた。
祭りも夜半を過ぎた頃、問題が起きた。
北の草地の方角から、重い気配が来た。
大型の魔物だ。この数週間、古の者の接近に押し出されるように南に移動してきた魔物の群れがいた。その中の一頭が、村の篝火と人の声と食べ物の匂いに引き寄せられて来たのだ。
吾輩は即座に状況を把握した。
体は猪に近い形だが人の倍ほどの大きさがある。突進力が高く、固い皮膚を持つ。普通の村人ではどうにもならない。
広場の端から、魔物が姿を現した。
村人が気づいた。悲鳴が上がった。
広場は人で溢れていた。祭りの最中だから、全員がここにいる。食事の席、踊りの輪、子供たちの遊び場。全部が混ざり合っていた。
逃げようとする人が押し合い始めた。
ライオスが動いた。
酒の杯を放って、腰の剣を抜きながら走り始めた。しかし広場は混雑していた。人と人の間を縫いながら、魔物の方へ近づこうとしていたが、なかなか進めなかった。
吾輩も動こうとした。
しかし魔力を放てば余波が出る。今夜の広場は人だらけだ。どの方角に撃っても、誰かの近くを必ず通る。峠道の時は人がいない場所だったから制御できた。今夜は違う。
やれない。
そう判断して、次の手を探した時だった。
台座の上のシフォンが、目を開けた。
シフォンが立ち上がった。
台座から飛び降りた。
そして走り始めた。
人と人の隙間を縫いながら、驚くほどの速さで走った。右へ、左へ、前へ跳んで、また走って、一人も巻き込まずにまっすぐ魔物へ向かっていった。
吾輩は引きずられながら、全神経を集中させた。
シフォンの動きを感じた。あの日の夜明けに感じた、シフォンと吾輩の魔力が重なったあの感覚が、今夜は戦闘の中で起きていた。シフォンの目には、人の流れが全部見えているのかもしれない。どこに誰がいて、次の瞬間にどちらへ動くかが。
だから縫えるのだ。
シフォンは誰にもかすらなかった。
アイリスが「シフォン!」と叫ぶ声が遠くから聞こえた。しかしシフォンは振り返らなかった。
魔物の正面に、白い猫が飛び出した。
魔物がシフォンを見た。
シフォンが唸った。
それはいつもとは全然違う声だった。干し魚を横取りされた時の唸りでも、知らない猫が縄張りに入った時の唸りでもない。体の中心から、全部絞り出すような、本気の声だった。
「ウ゛ーッ」
その声に、吾輩は反応した。
意図してではなかった。シフォンが唸った、その瞬間に、吾輩の魔力がシフォンの声に乗り始めた。先ほどからシフォンの動きと吾輩の感覚が重なっていたから、その流れで自然に乗った。
シフォンの唸り声が、少し変わった。
音量が変わったわけではない。しかし——広がり方が変わった。声に、吾輩の魔力が混じって、広場全体に「圧」として広がっていった。
爆発ではなかった。押しつける力でもなかった。ただ、そこにある、重い圧だった。
魔物が止まった。
魔物が後退した。一歩、また一歩。
シフォンが唸り続けた。吾輩が乗り続けた。
広場の人々が止まって見ていた。逃げることも忘れて、その光景を見ていた。
白い猫が唸り、何かが広がっていく。
魔物が、踵を返した。
走り始めた。
来た方向へ、北の草地へ、一目散に逃げていった。
広場がしんとなった。
シフォンが唸るのをやめた。
それから前足を舐めた。いつもの毛繕いだ。
一拍置いて、広場が「シフォン様!」「聖獣様が!」「魔物を追い払った!」と声を上げ始めた。
シフォンは毛繕いを続けた。
ライオスが近くまで来て、シフォンを見た。それから影を見た。
「シフォン様の声に、何かが乗っていましたね」と低い声で言った。
吾輩は揺らした。そうだ、と。
「制御できましたか」
吾輩は少し考えてから揺らした。制御というより、シフォンに合わせた。二者が重なった、というのが正しい、と。
ライオスが小さく頷いた。
「広場の人たちに余波はなかった。あの圧は——魔物だけに向いていた」
吾輩にも、それはわかっていた。シフォンの本能が、人を傷つける方向には力を使わなかった。シフォンが縦横に走り抜けながら一人もかすらなかったように、力の方向も、人を避けていた。
シフォンの本能は、守る方向に働く。
そこに吾輩が乗ることで、その力が増した。
それが今夜の「本気」だった。
アイリスが駆けてきた。
「シフォン! 大丈夫?」
「ミャア」とシフォンが言った。毛繕いをしながら。
「怪我は?」
「ミャア」
「よかった」とアイリスがシフォンを抱き上げた。
「びっくりした。急に走り出すから、追いかけようとしたのに人が多くて動けなくて」
シフォンがアイリスの肩に頬を押しつけた。
「ありがとうね」とアイリスが言った。
「また村を守ってくれた」
「ミャア」
村人が集まって「聖獣様が!」「あの唸り声が!」「奇跡だ!」と口々に言い始めた。
ベルンが人々の前に出て「聖獣様のお力が、この村をお守りくださいました」と言った。村人が「ありがたや」と頭を下げた。
シフォンはアイリスの腕の中で、欠伸をした。
祭りはその後、静かに続いた。
魔物が来て退散した話で一時は騒然としたが、シフォンが守ってくれたとわかってからは、むしろ祭りの気分が高まったほどだった。
「今年の収穫祭は特別だ」と言う者もいた。フィンが竪琴を取り出して「聖獣シフォン様の御業」を即興で歌い始めると、皆が耳を傾けた。
ライオスがアイリスの隣に来た。
「今夜のシフォン様、いつもと違いましたね」
「そうですか? 私にはいつも通りに見えたけど」
「走り方が違いました。人を全員よけながら、一直線に魔物へ」
アイリスがシフォンを見た。シフォンは膝の上で眠り始めていた。
「本気で走ったんですよ、今夜は」とライオスが言った。
「シフォンが本気を出す時って、干し魚の時ぐらいだと思ってた」とアイリスが笑った。
「干し魚と、村を守ることが、同じくらい大事なんでしょうね」
「それがシフォンらしい」とアイリスが言った。
「すごく、シフォンらしい」
吾輩も、そう思った。
干し魚と、村を守ること。シフォンにとって、どちらも本気を出す理由になる。理由に大小はない。全力は全力だ。それが、シフォンという生き物だった。
今夜、シフォンが唸った瞬間に、吾輩の魔力が自然に乗った。シフォンが守ろうとした。だから吾輩も乗った。それだけだった。計画でも命令でもなく、ただシフォンが動いたから、吾輩がついていった。
一年半で、初めてそういう形で動けた気がした。
フィンの竪琴の音が続いていた。篝火が揺れていた。村人たちが笑っていた。
夜明けの空が少しずつ白み始めた頃、シフォンが膝の上でぷるぷると喉を鳴らした。
アイリスが「よく寝てる」と笑った。
吾輩はその笑い声を聞きながら、今夜が終わっていくのを感じていた。
良い夜だった。




