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吾輩は猫の影。ただし、元魔王である  作者: ゆもニャ


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第49話:吾輩はここにいる

 冬が来た。


 ウェスパル村の石畳に霜が降り、畑が白くなり、朝の空気が鋭く冷えた。シフォンは冬毛に戻り、ルカも丸くなって、二匹が並んで暖炉の前を占領するようになった。


 ライオスは先週、大陸の北へ旅立った。


 「北の封印のことを、もう少し調べてみます」と言って、いつも通りの旅装束で村を出ていった。アイリスが「また来てください」と言い、ルカが「ミャッ」と鳴いた。シフォンは見送りに来なかった。暖炉の前で寝ていた。


 ライオスが去り際に、影を一度見た。


 吾輩は揺らした。


 また来い、という意味で。


 ライオスが頷いて、村の出口へ向かった。


 それが先週のことだ。


---


 今日は、穏やかな冬の朝だった。


 アイリスが台所で朝食を用意していた。ガリスが外に出て、薪を割る音がした。ルカが暖炉の前から台所へ移動して、アイリスの足元に座った。シフォンは暖炉の前を独り占めにして、香箱座りのまま目を細めていた。


 吾輩はシフォンの影として、暖炉のそばにいた。


 温かかった。


 影に体温はない。しかし暖炉の熱が床を温め、その床の上にシフォンがいて、吾輩がいる。概念として、温かいと感じていた。


 アイリスが「シフォン、ご飯だよ」と言った。


 シフォンが目を開けた。それからゆっくりと立ち上がり、台所へ歩いた。急いでいなかった。冬は何もかもがゆっくりになる。シフォンも例外ではなかった。


 吾輩も、その後を歩いた。


---


 朝食のあと、シフォンは窓際に移動して外を眺めた。


 霜の降りた石畳が白く光っていた。村人が二、三人、外套を羽織って通り過ぎていった。子供が走っていた。


 吾輩は、シフォンの隣で、同じ方向を見ていた。


 この村に来てから一年以上が経った。


 最初に来たのは夏の終わりだった。廃井戸を誤発射で直して、アイリスに「聖獣様だ」と言われて、吾輩は複雑な気持ちだった。これは計画の一環だと、自分に言い聞かせていた。


 今は——計画のためだとは思っていない。


 ここにいたいから、いる。


 それだけだ。


 シフォンが「ミャア」と言った。


 何に向かって言ったのか、吾輩にはわからなかった。外の景色に向かってか、吾輩に向かってか、ただ気分で言ったのか。


 吾輩は、揺らした。


 そうだな、と。


---


 午後、ベルンが訪ねてきた。


 老神父はアイリスとお茶を飲みながら、世間話をした。隣村の話、来年の畑の話、王都から届いた手紙の話。国王ジュリアン・ヴァロアから、シフォンの安否を尋ねる手紙が届いたらしかった。


「陛下は相変わらずシフォン様を気にかけておられる」とベルンが言った。


「カタリナ様も元気ですか」とアイリスが聞いた。


「お元気とのことです。最近、猫を一匹飼い始めたと書いてありました。白くないので聖獣ではないと、ご本人が笑いながら書いておられた」


 アイリスが「それ絶対、くしゃみしながら飼ってますよ」と言って笑った。


「そうでしょうな」とベルンも笑った。


 シフォンがベルンの足元に来て、匂いを嗅いだ。ベルンが「おお、シフォン様」と言いながら頭を撫でた。


「変わらずお元気で」とベルンが言った。


「ミャア」とシフォンが答えた。


 吾輩は、その光景を見ていた。


 ベルンは最初から感じていた。シフォンの影に何かがあることを。正体はわからないまま、一年以上、ただ感謝し続けていた。


 その信頼の重さを、吾輩は今でも受け取り続けている。


---


 夕方、ガリスが帰ってきた。


「寒いな」と言いながら外套を脱いで、薪を暖炉に足した。


 シフォンが暖炉に近い場所をキープしようと、ガリスの足元をすり抜けて先回りした。


「こら」とガリスが言った。「毎回それをするな」


「ミャア」とシフォンが言った。


「負ける気がしないが」とガリスがぼやきながら、それでも場所を譲った。


 ルカがシフォンの隣に滑り込もうとして、シフォンに睨まれた。ルカが一歩下がった。


「仲良くしろ」とガリスが言った。


「ミャア」とシフォンが言った。


「そうはいかんのか」


 アイリスが台所から「お父さん、シフォンは縄張り意識が強いんだよ」と言った。


「わかっとる」とガリスが言って、椅子に腰を下ろした。


 夕食まで、しばらくこういう時間が続く。


 吾輩は、その時間の中にいた。


 何もしていない。地脈の吸収もしていない。計画のことも考えていない。ただ、暖炉の火を見ながら、この家の夕方の空気の中にいた。


 これが——吾輩が欲しかったものだ、と今は思う。


 玉座でも、征服でも、支配でも、恐怖でもなく。


 ただ、ここにいること。


---


 夕食が終わり、アイリスが日記を書いていた。


 テーブルに蝋燭を一本灯して、ノートに何かを書いていた。吾輩には内容は見えない。しかしアイリスが日記を書く時、いつも静かな顔をしていることは知っていた。


 シフォンがアイリスの足元から台の上に飛び乗ろうとした。


「だめだよ、シフォン」とアイリスが言った。


「ミャア」


「机の上はだめ」


「ミャア」


 シフォンが不満そうに台から降りて、アイリスの足元に座り直した。


 吾輩は、その小さなやり取りを見ていた。


 この一年で、こういうやり取りを何百回見たかわからない。シフォンが何かをしようとして、アイリスに「だめだよ」と言われ、「ミャア」と答えて、それでも少し言うことを聞く。


 変わらない光景だ。


 しかし吾輩は、その変わらなさを、今は大切に思っている。


 変わらない日常が続く、ということ自体が——なかなか難しいことだと、一年以上をかけて学んだ。


---


 夜、アイリスが日記を閉じて、ランプを消す前に、影を見た。


「ねえ」とアイリスが言った。小さな声で。ガリスはもう寝ていた。


 吾輩は気配を向けた。


「今日も一日、ありがとう」


 吾輩は揺らした。


 アイリスが少し笑った。


「いてくれてありがとう。毎日」


 また揺らした。


「おやすみ、もう一人」


 ランプが消えた。


 部屋が暗くなった。


 シフォンとルカが寝床に収まる音がした。アイリスの寝息が始まった。


 吾輩は、暗い部屋の中にいた。


 三大陸を征服した魔王が、今は農村の猫の影として、冬の夜の小さな石造りの家の中にいる。


 おかしな話だ、と今も思う。


 しかし——ここにいる。


 それは確かなことだ。


---


 吾輩は地脈に触れた。


 ウェスパル村の地脈は、冬でも細く流れていた。王都ほど豊かではないが、穏やかで、吾輩と長い付き合いになった流れだ。


 魔力は今、討伐前の八割近くまで回復している。


 復活しようと思えば、できるかもしれない。


 しかし吾輩は、今夜も急がなかった。


 急ぐ理由が、見つからない。ここにいる理由の方が、はるかに大きかった。


 グザールからは時おり意思が届く。残党は静かにしている、と。ライオスが北へ向かった。封印のことは、まだわからない。しかしそれも、いずれわかる。今夜考えることではない。


 この一年でわかったことがある。


 吾輩はずっと、急いでいた。力を集め、大陸を征服し、頂点に立つ。その一点に向かって、百年以上急ぎ続けていた。急がなければ誰かに奪われる、急がなければ追い出される、急がなければここにいられない——そういう恐怖が、常に後ろにあった。


 今は——急いでいない。


 逃げなくていいから。ここにいていいと知っているから。


 シフォンがそれを、ただいることで示してくれた。シフォンは一度も急いだことがない。干し魚の時は別として。


 吾輩は、それを見ながら、少しずつ学んだ。


 急がなくていい。ここにいていい。


 シフォンが「ぷるる」と寝言を言った。


 夢の中で何かを追いかけているのかもしれない。蛾か。干し魚か。それとも知らない何かか。


 吾輩にはわからない。


 しかし——シフォンの隣に、吾輩はいる。


 これからも、ここにいる。


 名前を呼ばれなくても。姿を見せられなくても。声が届かなくても。


 吾輩は、ここにいる。


 それが今の吾輩の、全てだ。


---


 夜が深まった。


 外では冬の風が吹いていた。石畳に霜が降り積もっていた。


 しかし家の中は温かかった。暖炉の残り火が、ほんのりと部屋を照らしていた。


 シフォンが眠っていた。ルカが眠っていた。アイリスが眠っていた。ガリスが眠っていた。


 吾輩は、その全ての寝息を聞きながら、静かにそこにいた。


 魔王ヴァルキスとして、しかし今は誰も知らない影として、この小さな家の中に。


 この一年以上で、吾輩は多くのことをここで経験した。廃井戸を直した日、麦が芽吹いた朝、山賊が吹き飛んだ瞬間、アイリスの誕生日に光の粒を作った夜、王都での謁見、ドミニクの陰謀、ライオスとの夜の対話、グザールとの再会、アイリスが熱を出した夜に初めて泣いた夜、シフォンが収穫祭で本気を出した祭りの夜——全部、この場所で起きたことだ。


 あるいはここを出発点として起きたことだ。


 全部、シフォンに引きずられながら起きた。


 おかしな話だ、と最後にもう一度思った。


 しかし悪くない。


 少しも、悪くない。


 吾輩はヴァルキスだ。それは変わらない。しかし今の吾輩には、それ以上のものがある。


 帰る場所がある。


 ここが、吾輩の帰る場所だ。


 それで——十分だ。今夜は、それで、十分だ。




      ——完——




**後記**


 翌春、ウェスパル村の廃井戸のそばに、小さな花が咲いた。誰も植えていなかった。しかし毎年そこに咲くようになった。


 村人は「聖獣様のお力で」と言った。


 シフォンはその花の匂いを嗅いで、すぐに興味を失い、別の場所へ歩いていった。


 その影は、いつもどおりに、後をついていった。


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