第46話:聖獣伝説、完成へ
フィンが来たのは、秋の入り口の、涼しくなり始めた朝のことだった。
竪琴を肩に担いで、埃まみれの旅装束で、それでも笑顔だけは変わらず朗らかな顔をして、村の入り口に現れた。
子供たちが「また来た、吟遊詩人だ」と駆け寄った。
フィンが「こんにちは、シフォン様はお元気ですか」と聞いた。
子供たちが「元気だよ」と答えた。
アイリスが「あ、フィンさん」と出迎えた。
「お久しぶりです」
「お久しぶりです、アイリスさん。シフォン様にまたお会いしたくて来ました。それと——どうしても報告したいことがあって」
「報告?」
「大変なことになっています」とフィンが言った。
喜んでいるのか困っているのか、どちらとも取れる顔で。
「シフォン様の話が、もう大陸中に広まっていまして」
吾輩はその言葉を聞いて、何となく嫌な予感がした。
居間に座ったフィンが、興奮を抑えながら話し始めた。
「あの歌を作って以来、俺は色々な場所で歌ってきました。王都でも、港町でも、山の向こうの街でも。最初は「ウェスパル村の白い猫」の話として歌っていたんですが——気がついたら、話がどんどん大きくなっていて」
「どのくらい大きくなったんですか」とアイリスが聞いた。
「シフォン様が、今や「大陸を守る聖獣」として語られています」
アイリスが「え」と言った。
「虹が七本では足りなくなって、今は三十七本と言われています。山賊退散の話は、百人の盗賊団を一声で滅ぼした話になっています。王都での話は、国王陛下をその場に死から救った、ということになっていて」
「それは大体合ってるような……」
「それから」とフィンが続けた。
「シフォン様の影には、かつての魔王が封じられており、聖獣の慈悲によって改心した魔王が今は大陸の守護者として共に戦っている、という話になっています」
吾輩は、静止した。
アイリスが「……それは」と言って、少し考えてから「合ってるような、違うような。だって、シフォンが戦うわけないもの。いつもお昼寝ばかりしてるし」と言った。
フィンが「戦うわけない、ですか!?」と前のめりになった。
「そうですよ。全然違います。この子はただの、食いしん坊な可愛い猫ですよ」とアイリスが笑った。
「そうですか……」とフィンが少し残念そうな顔をした。
しかしすぐに「でも、雰囲気はそうなんですね?」と聞いた。
「雰囲気は……どうでしょう」とアイリスが曖昧に言った。
フィンが手帳を出した。
「もう一つ聞いてもいいですか。最近、シフォン様は何か奇跡を起こしましたか」
「奇跡というか、熱中症で倒れた農夫を見つけて鳴いて知らせた、くらいです」
「それです!」とフィンが声を上げた。
「それが伝わっていくと、死にかけた人を聖獣の声が導いた、という話になります」
「ちょっと待ってください」
「伝説とはそういうものです」とフィンが力強く言った。
「真実の本質が大事なんです」
吾輩は前回も同じことを言っていたな、と思った。
アイリスが「まあ……農夫のセルジュさんが助かったのは本当ですし」と言った。
「それで十分です!」とフィンが手帳に書き込み始めた。
シフォンがフィンの手を前足でつついた。
「聖獣様! 何かお言葉を!?」
「書かないでください」とアイリスが言った。
シフォンがフィンの竪琴に近づいた。
前回来た時と同じように、竪琴の弦をちょんとつついた。弦が鳴った。シフォンが満足そうに耳を立てた。
「聖獣様……」とフィンが感激した顔をした。
「演奏をお求めになっている」
吾輩は演奏など求めていない、シフォンが音に興味を持っただけだ、と思ったが言えなかった。
「もう一つ、報告があります」とフィンが改まった顔をした。
「シフォン様の伝説が大陸中に広まった結果——あちこちで、不思議なことが起きています」
「不思議なこと?」
「シフォン様の名を呼んだら、危機を乗り越えられた、という話が各地から届いています。病人が快癒した、魔物に追われた旅人が逃げ切れた、水が枯れた村で雨が降った。どこまで本当かわかりませんが——人々がシフォン様を信じて、それで助かったと言っています」
アイリスが「それって」と言いかけて、止まった。
シフォンを見た。シフォンは竪琴の弦を再びつついて、鳴った音に耳を傾けていた。
「すごい」とアイリスが言った。
「シフォン、あなた、本当に聖獣なんだね」
「ミャア」とシフォンが答えた。
フィンが帰った後、ライオスがアイリスに言った。
「伝説が力を持ち始めている、ということですね」
「そういうことですよね」
「人々が信じれば——それは本物の力になる。古い話には、そういう記録が多い」
吾輩はその言葉を聞いていた。
シフォンの伝説が力を持つ。人々が信じることで、実際に何かが起きる。
それは吾輩の魔力とは別の話だ。シフォン自身が持つ何か、あるいはシフォンを信じる人々の気持ちが、何かを動かしている。
ライオスが影に向かって低く言った。
「古の者が近づいている今、これは無関係ではないかもしれない」
吾輩は意思を送った。どういうことか、と。
「古の者は大陸の均衡を見ている。シフォン様の伝説が大陸中に広まって、人々の心を動かしているとすれば——古の者の目に、それはどう映るか」
吾輩は考えた。
魔王が倒れた後、大陸は不安定だった。しかし今、シフォン伝説という形で、人々の心の中に何か新しい「力」が生まれている。古の者は、その動きを見て——来ているのかもしれない。
「大陸の均衡が、新しい形で作られようとしているということか」と吾輩は送った。
「そうかもしれない」とライオスが言った。
「かつての均衡は、魔王の恐怖と人間の抵抗で保たれていた。
──だが今、その天秤は、まったく別の重みによって釣り合おうとしている」
吾輩はその言葉を聞きながら、シフォンを見た。
シフォンは竪琴の弦をまたつつこうとして、フィンに竪琴を遠ざけられていた。
これが、大陸の均衡を作る存在か。
まったくもって、しまらない話だ。
しかし——それが事実だった。
その夜、シフォンが吾輩の影の上に座った。
ごろごろと喉を鳴らした。
吾輩はその音を聞きながら、今日のフィンの話を整理していた。
シフォンの伝説が大陸中に広まっている。
虹が三十七本になっていて、魔王が改心した話になっていて、各地で名前を呼んだら助かったという話まで出ている。
どこまで本当かはわからない。しかし「信じる力」というものは、確かにある。吾輩が百年以上かけて学んできたことの一つだ。恐怖も、敬愛も、信仰も——人の心が動く方向に、現実が引き寄せられることがある。
シフォンが動いて助かった人がいた。それは事実だ。その事実が広まって、「シフォン様の名を呼んだら助かった」という話になっていく。
その話を聞いた誰かが、次の危機にシフォンの名を呼んで、少し冷静になれて、助かる。
伝説が、実際の力になっていく。
吾輩が誤発射で廃井戸を直した日から始まって、ここまで来た。なんとも、妙な経緯だ。
しかし——妙ではあっても、人が助かっているなら、それで良いのかもしれない。吾輩が意図してやったことは何一つない。全部シフォンの気まぐれと吾輩の暴走の産物だった。それが伝説になって、さらに人を助けるようになっている。
吾輩は魔王として、かつて「恐怖が人を動かす」と信じていた。
シフォンは——恐怖ではなく、何か別のものを人に渡している。
名前を呼ばれたら助かった。それは、シフォンを信じる気持ちが、その人に何かを与えた、ということだ。勇気か。落ち着きか。諦めない気持ちか。
吾輩にはうまく言えない。しかし、それは確かにある。
シフォンが伸びをした。
吾輩は、その姿を見ながら思った。
お前は何も知らないし、何も気にしていない。ただ毎日を生きている。それが大陸の伝説になって、人々の心を動かして、古の者までを引き寄せている。
どう考えても、おかしな話だ。
しかし——吾輩はこの一年半、おかしな話の真ん中にいた。今さら驚くことでもない。
ルカが「ミャッ」と鳴いて、シフォンの隣に来た。
二匹が並んで吾輩の影の上に収まった。
アイリスが「仲良しだね」と笑いながら、ランプを消した。
「おやすみ、シフォン。ルカ。それと——もう一人も」
吾輩は、影を揺らした。
おやすみ、と返した。声にならない言葉で。
部屋が暗くなった。
二匹の寝息が聞こえ始めた。アイリスの寝息も続いた。
吾輩は地脈から魔力を吸収しながら、北の気配を遠く感じていた。
まだ来ない。しかし来る。
来た時に、吾輩はここにいる。シフォンとともに。
この村で。
それだけが、今の確かなことだった。




