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吾輩は猫の影。ただし、元魔王である  作者: ゆもニャ


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第45話:新たな脅威

 夏の終わり、吾輩は北から来る気配に気づいた。


 最初は遠くて、はっきりとはわからなかった。ただ何かが近づいてくる、という漠然とした感覚だった。地脈の流れが、わずかに乱れていた。大きな存在が動いている時に起きる、あの微妙な揺れだ。


 魔族ではなかった。


 人間でもなかった。


 もっと古い何かだ、と吾輩は感じた。


 グザールに意思を送った。北の方角に何かを感じる、知っているか、と。


 グザールの返事は一日後に来た。


「知っています。残党の間でも噂になっていました。「古の者」が動き始めた、と。魔王様の時代よりずっと以前から存在するという、人間にも魔族にも属さない古い力の持ち主です。かつては大陸の均衡を保つ存在だったと言われていますが、今の動きが何を意味するかは——私にもわかりません」


 古の者。


 吾輩にも覚えがあった。


 魔王として大陸を支配していた頃、古い文献の中に何度か記述を見たことがあった。人間の文明が始まる前から存在していた、と言われる種族だ。基本的に人間界の出来事には関与しない、という話だった。しかしその力は——強大だという記述しか残っていなかった。


 吾輩が大陸を支配していた頃、そういった存在には一切出会わなかった。彼らが動かなかったのか、あるいは吾輩の動きを静かに見ていたのか。


 どちらにしても、今「動き始めた」という事実は——吾輩には、少し引っかかった。


 吾輩が討伐された後に動き始めた。


 それは偶然か。それとも、吾輩の討伐が何かのきっかけになったのか。




 ライオスにも連絡した。


 吾輩から直接連絡する手段はない。しかしグザールを通じて、ライオスの耳に届けることはできた。

「大陸の北から、古い力の気配が近づいている」という情報を。


 数日後、ライオスがウェスパル村に現れた。


 アイリスが「あ、ライオス様」と出迎えた。


「少し急いで来ました」とライオスが言った。


「北の気配について感じています。フィンという吟遊詩人から聞いたのですが——各地で奇妙な現象が起きているらしい」


「奇妙な現象?」


「動物が南に逃げている。北の村々で、古い遺跡が光り始めた。魔物が一斉に消えた地域がある」


 アイリスが眉を寄せた。


「それって——危ないんですか」


「わかりません。害意があるかどうかも、まだ」


 シフォンが台所から出てきて、ライオスを見た。それから北の方角を見た。耳が前を向いていた。




 ライオスが腰を下ろして、しばらく考えた。


「古の者について、何か知っていますか」とライオスが影に向かって言った。低い声で。アイリスには聞こえない程度に。


 吾輩は意思を送った。


 文献の記述だけ知っている。大陸に均衡をもたらす者たち、という話だ。しかし詳細は不明だ、と。


「均衡、か」とライオスが繰り返した。


「魔王が倒れた後、大陸の均衡が崩れた、と感じているのでしょうか」


 吾輩は考えた。あり得る話だ。大陸には長年、人間と魔族の均衡があった。吾輩が倒されてその構造が崩れ、大陸の力のバランスという意味では今もまだ不安定かもしれない。


 吾輩は揺らした。そうかもしれない、と。


「正す、とはどういう意味か——それが問題だ」とライオスが言った。


「ライオス様、何してるんですか」とアイリスが台所から顔を出した。


「独り言です」とライオスが答えた。


 アイリスが「そうですか」と言って引っ込んだ。




 その夜、吾輩は北の気配をさらに詳しく探った。


 遠い。まだ数週間は来ない。しかし確実に近づいていた。


 何者かが、大陸を縦断して南へ向かっている。ゆっくりと、しかし止まらずに。


 気配の質は重かった。長い年月をかけて積み重なった何かを持つ者の、あの独特の重さだ。吾輩も百年以上生きてきたが、それより遥かに長い。


 怒っているわけではなかった。しかし穏やかでもなかった。


 何かを決めてきた存在の気配だった。


 吾輩は考えた。


 古の者が来る。目的は不明。しかし大陸の均衡を保つ者たちが動くとすれば、その目的は大陸の在り方そのものに関わることかもしれない。


 それは、吾輩の存在にも関わる話だ。


 魔王が猫の影に宿って農村に潜んでいる、という在り方は——古の者にとって、見過ごせない異常かもしれない。あるいは歓迎されることかもしれない。どちらなのかが、わからなかった。


 かつての吾輩なら、この不明の脅威に対して即座に動いていた。情報を集め、戦力を整え、先手を打つ。それが魔王の在り方だった。


 しかし今の吾輩には、シフォンがいる。村がある。アイリスがいる。


 先手を打つ、ということが、今の吾輩の状況ではできない。シフォンを大陸の北へ連れて行くことはできない。影の吾輩だけで動くことも、限界がある。


 では——待つか。


 古の者がここまで来るのを、待つか。


 吾輩は、その「待つ」という選択が、以前の自分には絶対に選べなかったものだと気づいた。かつての吾輩は待てなかった。主導権を握らなければ、気が済まなかった。


 今は——待てる気がした。


 ここに根ざしているから。逃げる場所でも、戦う場所でもなく、ここに「いる」から。


 待てる。


 それだけで、今は十分だ。




 シフォンが眠っていた。隣でルカも眠っていた。


 二匹の寝息が重なって、夜の部屋に響いていた。


 吾輩は、その寝息を聞きながら、来るべき何かについて考えていた。


 古の者が来る。大陸の均衡を問う者が来るとすれば——吾輩はどこに立つのか。


 魔王として。しかし今はウェスパル村に根ざした存在として。


 グザールたちは「魔王様の選ぶ道が私の道です」と言った。

 ライオスは「今日は戦わない」と言った。

 アイリスは「ありがとう」と言った。


 吾輩は今、それぞれの言葉に支えられている。


 古の者が来ても、それは変わらないはずだ。


 吾輩がどこにいるかは、もう決まっている。


 ここだ。この村に。シフォンとともに。アイリスのそばに。


 それが、今の吾輩の答えだ。




 翌朝、アイリスが「ライオス様、しばらくいますか?」と聞いた。


「少しいさせてもらっていいですか」とライオスが答えた。


「北の状況を見たいので」


「もちろんです。部屋、狭いですけど」


「十分です」とライオスが言った。


「アイリスさん、怖くないですか。何が来るかわからないのに」


 アイリスが少し考えてから言った。


「怖いといえば怖いですけど——まあ、シフォンがいるから」


「シフォン様がいるから」とライオスが繰り返した。


「うん。なんとかなってきたじゃないですか、今まで。廃井戸が直った時から今まで、色々ありましたけど、毎回なんとかなって」


 ライオスが「そうですね」と言った。

 しかし少し考えてから付け加えた。


「シフォン様だけじゃない気がしますが」


「そうですね」とアイリスが笑った。


「色々な人が助けてくれて」


 ライオスの目が、少しだけ影に向いた。


「色々な存在が」と言った。低く。


 アイリスは気づかなかった。

「そうです、色々な」と頷いた。


 シフォンが「ミャア」と言った。

 台所から、朝ごはんを催促する声で。


 ライオスが少し笑った。


「なんとかなってきた。これからも、きっと」


 吾輩も——その言葉を、受け取った。


 廃井戸が直った日から、この夏の終わりまで。山賊が吹き飛び、魔物が退散し、王都に行き、ドミニクの毒殺計画を阻止し、ライオスと夜に話し、アイリスが「ありがとう」と言って泣いた夜もあって——なんとかなってきた。


 これからも——なんとかなるかもしれない。


 シフォンが「ミャア」とまた鳴いた。今度は強く催促の声で。ガリスが「今日もうるさいな」と言いながら台所に入った。アイリスが「お父さん、シフォンのご飯用意してあげて」と言った。ガリスが「しょうがないな」と言いながら棚を開けた。


 ルカが「ミャッ」と高い声で鳴いた。自分も欲しい、という意味だ。


「ルカも? はいはい」とアイリスが笑った。


 吾輩はその朝のにぎやかさを、しばらく見ていた。


 北から何かが来る。それでも、今朝の朝ごはんは始まる。ガリスがシフォンの椀を用意して、ルカの分も用意して、シフォンが割り込んで、ルカが不満そうにして、ガリスが「ちゃんと順番で食え」と言う。


 それが、ウェスパル村の朝だ。


 吾輩は、その朝の中に、いる。


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