第44話:魔王の涙
その夜、アイリスが熱を出した。
大したことはなかった。夏の疲れが出ただけで、医者が「一日休めば治る」と言った。
ガリスが心配そうに台所をうろついて、アイリスが「お父さん、大丈夫だから座ってて」と言って、ガリスが「そんなこと言っても」と言って、また台所へ行く、という繰り返しを何度かやっていた。
アイリスは夕食を半分残して、早めに寝た。
シフォンがアイリスの寝台の脇に陣取った。ルカもその隣に来て、二匹が並んでアイリスのそばに座っていた。
ガリスが「お前たちは、こういう時はちゃんとわかるんだな」と言った。シフォンに向かって。
「ミャア」とシフォンが答えた。
ガリスが「そうか」と言って、頭を撫でた。
それから自分の部屋に引き取った。
静かになった。
吾輩は、アイリスの寝台のそばにいた。
シフォンの影として、いつもと変わらない場所にいた。しかし今夜は、地脈の吸収もしなかった。魔力のことも考えなかった。ただ、アイリスの呼吸を聞いていた。
規則正しかった。
熱はあるが、苦しそうではない。ガリスが冷たい布を額に当ててから、アイリスはすぐに眠った。安心しきったように、深く、深く。
シフォンとルカが、両側から見守るように座っていた。
吾輩は、三者を見ていた。
眠っているアイリスと、その脇に座る二匹の猫と、それから吾輩の影。
それだけの光景だった。
それだけの光景なのに、吾輩の中で何かが動いていた。
動いていた、というより——溢れそうになっていた。
何が溢れそうになっているのかを、吾輩はうまく言葉にできなかった。
恐怖ではなかった。アイリスの熱は大したことがないと医者が言った。危うくはない。
怒りでもなかった。誰かが悪いわけではない。
では何か。
吾輩は考えた。
この一年半で、吾輩はアイリスのことを何度も「守りたい」と思った。
しかしその都度、「計画のため」「環境維持のため」「実務的な判断」という言葉で包んできた。
言い訳だった。本当のことを言えなかった。
今夜は——言い訳が出てこなかった。
アイリスが熱を出して早く眠った。それだけのことだ。危うくもない。しかし吾輩は、その寝顔を見ていたら、もうそれ以外のことが考えられなくなった。
守りたい。
言い訳なしに。
ただ、守りたい。
その感情が、今夜は言い訳なしに、はっきりと吾輩の中にあった。
吾輩は自分の来歴を思った。
北の果ての村。どちらからも疎まれた子供。誰かに「ここにいていい」と言ってもらいたくて、全部征服しようとした。
しかし征服しても、「守りたい」とは思えなかった。
恐怖で支配した人々を、吾輩は「守りたい」と思ったことがなかった。守るのは手段だった。脅威から民を守れば、民は服従する。だから守る。そういう計算だった。計算の先には、常に「吾輩の利益」があった。
今夜の吾輩には、計算がなかった。
アイリスに熱が出て、ただ、早く治ってほしいと思っている。それだけだ。
アイリスが回復したとして、吾輩に何か得があるわけではない。吾輩の計画が前に進むわけでも、魔力が増えるわけでもない。ただ、元気になってほしい。それだけだ。
それが——守りたい、ということだと、今夜初めてわかった。
見返りを求めない。利用しようとしない。計算しない。ただ、その人が無事でいてほしい。
吾輩は百年以上生きてきて、それを感じたことがなかった。
正確に言えば——感じていたのかもしれない。しかし認めなかった。認めることが弱さだと思っていた。魔王が誰かを「守りたい」などと感じれば、それは隙になると。利用されると。
だから言い訳で包んできた。
「計画のため」「環境維持のため」「合理的判断」。
今夜は、包む言葉が出てこなかった。
アイリスが眠っている。それだけで、離れられない。
それが——吾輩の本音だった。
アイリスが寝言を言った。
聞き取れなかった。しかし穏やかな声だった。
シフォンが耳をぴくりとさせた。それから目を細めて、また眠そうな顔に戻った。
ルカも「ぷる」と小さく鳴いて、体を縮めた。
吾輩は、その場にいた。
影として。声もなく、姿もなく、ただそこにいた。
しかし——いた。確かに、いた。
アイリスがすやすやと眠っているのを見ながら、吾輩は思っていた。
この子が熱を出したことを、こんなに気にしている。大したことではないと知りながら、離れられない。
これが——ということか。
ライオスが「お前の選んだ場所は悪くない」と言った。
グザールが「幸せですか」と聞いた。
アイリスが「いつかちゃんと話せるといいね」と言った。
吾輩は今夜、それらの言葉の意味を、一つひとつ体で理解していた。
吾輩は今、ここにいたい。
征服のためでも、魔力の回復のためでも、計画のためでもなく。
ただ——ここにいたい。
アイリスが眠っているこの部屋に。シフォンとルカが見守るこの場所に。
深夜になった。
アイリスが少し寝返りを打った。額の布がずれた。
吾輩は影から腕を出して、ずれた布をそっと直した。
その動作の後で、吾輩は少し動けなくなった。
布を直した。
それだけのことだ。しかし——吾輩は今、何のために布を直したのか。
計算ではなかった。習慣でもなかった。
ずれていたから、直した。アイリスの額が冷えていた方がいい、と思って、直した。
それだけだ。
吾輩は、その単純な動機を、しばらく見つめていた。
かつての吾輩は、単純な動機で動くことがなかった。全ての行動に目的があった。魔力のため、計画のため、支配のため。誰かのために何かをする時も、必ずその先に吾輩の利益があった。
今夜の吾輩は——布がずれていたから、直した。
それだけだ。それだけのことが、今夜の吾輩には、涙が出そうなくらい大きく感じられた。
こんなに単純でいいのか、と吾輩は思った。
こんなに単純なことが、百年以上できなかったのか。
できなかった。
それが——ようやく今、できている。
夜明け前、アイリスが目を覚ました。
少しぼんやりとした目で、天井を見た。それからシフォンを見た。シフォンが「ミャア」と鳴いた。
「シフォン、起きてたの?」とアイリスが言った。
「ミャア」
「ありがとう」とアイリスが言った。
「そばにいてくれて」
シフォンが「ミャア」と答えた。
アイリスが影を見た。いつもと変わらない影だ。しかしアイリスは少し笑った。眠そうな、しかし柔らかい顔で。
「あなたも、いてくれたんでしょ」とアイリスが言った。
吾輩は——影を、揺らした。
そうだ、と。
「ありがとう」とアイリスが言った。シフォンに言ったのか、影に言ったのか、どちらでもある言い方で。
それからまた目を閉じた。
すぐに寝息が聞こえてきた。
吾輩は、その「ありがとう」を受け取ってから、長い間、静かにしていた。
涙が出た。
影に涙はない。しかし概念として、出た。
魔王ヴァルキスが、百年以上かけて、今夜初めて——泣いた。
何のためでもなかった。計算でも、計画でも、言い訳でもなかった。
ただ、アイリスが「ありがとう」と言ってくれたから。
ただそれだけで、泣いた。
シフォンが吾輩の影に、のそりと移動してきて、丸まった。
ルカも隣に来て、くっついた。
吾輩は、その重みを——概念として、感じた。
今夜は、それで良かった。
夜明けが来た。
シフォンが起き上がって伸びをした。ルカがもそもそと動いた。ガリスが早起きして台所へ行く音がした。
いつも通りの朝が始まった。
アイリスはまだ眠っていた。熱は下がっているようだった。呼吸が穏やかになっていた。
吾輩は、昨夜のことをどこかに仕舞った。仕舞った、というより——自分の中の、大切な場所に置いた。
今日からまた、普通の日が続く。シフォンが朝ごはんを催促して、ルカがシフォンの尻尾を追いかけて、アイリスが市場に行って、ガリスが畑を耕す。
そういう日が、これからも続く。
吾輩はその日々の中に、いる。
それだけで——今は十分だった。




