第43話:本当の力
夏が来た。
ウェスパル村に戻ってから半年が経っていた。春に咲いた野の花が枯れ、麦が穂を実らせ、朝晩の空気がじりじりとした熱を帯びるようになった。シフォンの長い毛は換毛期が過ぎて薄くなり、ルカはすっかり体が大きくなって、もう子猫とは呼べないほどになっていた。
魔力は討伐前の七割を超えていた。
以前ほど焦りがなかった。七割という数字を確認しても、吾輩の中に「早く復活しなければ」という突き上げるような感覚が来なかった。それが良いことなのか、悪いことなのか、今の吾輩には判断がつかなかった。ただ、焦らない自分がいる、ということだけは確かだった。
グザールから時おり意思が届いた。残党は静かにしている、と。ライオスの説得に応じた者が増えていて、今や半分近くが人間社会に紛れ込んで暮らしているらしい。ゾグとリルからも、しばらく連絡はなかった。
吾輩はウェスパル村で、相変わらずシフォンとともにあった。
事が起きたのは、夏の盛りの朝だった。
アイリスが市場へ買い物に出た後、シフォンとルカと吾輩だけが家に残った。シフォンは庭に出て、石畳の上で日向ぼっこをしていた。ルカはその隣で転がって、地面の虫を追いかけていた。
吾輩は地脈から魔力を吸収しながら、そのどうでもいい光景を眺めていた。
シフォンが、不意に顔を上げた。
村の北の方角を、じっと見た。
何かを感じ取ったのかもしれない。魔物の匂いか、人の気配か、あるいは吾輩には感知できない何かか。シフォンは獣だから、吾輩の魔力探知とは別の感覚を持っている。
シフォンが立ち上がった。
尻尾を立てて、北へ向かって歩き始めた。急いでいるわけではなかった。しかし迷いもなかった。何かに向かって、まっすぐ歩いていた。
吾輩は引きずられながら、シフォンの向かう先を探った。
北の方角、村外れの農地の端。そこに、人が倒れていた。
農夫のセルジュだった。
麦畑の中に、倒れていた。朝から畑仕事をしていたのだろう。鍬が傍に転がっていた。夏の熱気の中で、倒れたらしかった。
シフォンが近づいた。
セルジュの顔に鼻を近づけた。匂いを嗅いだ。それから「ミャア」と一声鳴いた。高くて、いつもと違う声だった。
吾輩も状況を把握した。
熱に当てられて倒れている。意識はある。しかし顔が赤く、呼吸が荒い。このまま炎天下に放置すれば、危うい。
シフォンがもう一度、方向を変えて大きく鳴いた。
近くにいた農婦がその声を聞いて、こちらを見た。シフォンを見て、駆け寄ってきた。
「聖獣様? 何かあったの——あ、セルジュ!」
農婦が叫んだ。村人がすぐに集まった。セルジュを日陰に運ぶ者、水を持ってくる者、医者を呼びに走る者が出て、騒ぎが収まるまでに四半刻もかからなかった。
セルジュは夕方には回復して、「聖獣様に助けていただいた」と何度も言っていた。
シフォンはその間、畑の端に座って、一連の動きを眺めていた。
仕事は終わった、とでも言うような顔で。
吾輩は、その場面を見ながら、何かを考えていた。
シフォンが動いた。セルジュが助かった。
よくあることだ、とも言える。シフォンが気まぐれで動いて、結果として誰かが助かる。この一年半で何度もあったことだ。
しかし今日の吾輩には、それがいつもと少し違って見えた。
シフォンは庭で日向ぼっこをしていた。何も考えていなかったはずだ。それが突然、北の方角を向いて、まっすぐ歩き出した。倒れているセルジュのところへ。
なぜシフォンにそれがわかったのか。
吾輩には答えが出なかった。
シフォンは魔力を持たない。吾輩のような探知の力もない。それなのに、倒れている人間に向かって歩いた。
本能か。気まぐれか。
あるいは——シフォンには、吾輩には見えていない何かが見えているのかもしれない。
吾輩はその可能性を、しばらく温めていた。
昼過ぎ、アイリスが市場から帰ってきた。
騒ぎを聞いて「セルジュさんが倒れたの? シフォンが助けたの?」と目を丸くした。
「ミャア」とシフォンが言った。
「すごい。気がついたの?」
「ミャア」
「本当にすごいよ」とアイリスが言いながらシフォンを抱き上げた。シフォンはされるがままだった。
吾輩は、アイリスの言葉を聞きながら、夕方まで今日のことを考えていた。
この一年半、吾輩はシフォンの動きに魔力を合わせてきた。初めはただ引きずられるだけだった。やがてシフォンの本能に吾輩の力が乗ることで、山賊が吹き飛び、魔物が退散し、毒の瓶が飛んだ。峠道での戦いでは初めて完璧に合致した。
しかし今日の出来事には、吾輩の魔力は関係なかった。
シフォンが動いた。ただそれだけで、セルジュが助かった。
シフォンに宿る力は、吾輩の魔力とは別のところにある。
吾輩はかつて、シフォンを「魔力のない、ただの猫」として見ていた。しかし今日の出来事を経て、その見方は正確ではないと思い始めていた。
夕方、吾輩は試してみることにした。
シフォンが庭の石畳の上に座っていた。ルカは家の中で眠っていた。アイリスは台所だ。
吾輩は、ごく薄く、気配を漏らした。
シフォンが振り返った。影を見た。
吾輩は、さらに薄く、魔力の糸を出した。シフォンの鼻先へ向けて。
シフォンが鼻をひくひくとさせた。
吾輩は、その糸を少し引いた。
シフォンが立ち上がった。糸の向かう方向へ、一歩歩いた。
吾輩はもう少し引いた。
シフォンがもう一歩歩いた。
吾輩は止めた。
シフォンが止まった。
それだけだった。しかし——今日の吾輩には、それが何かの答えのように見えた。
シフォンは吾輩の気配に、確かに反応する。言葉は届かない。しかし気配は届く。
そして吾輩はシフォンの本能に、魔力を合わせることができる。峠道ではそれが証明された。
この二つを組み合わせれば——吾輩はシフォンの力を借りて、シフォンはただ自分の感覚で動いて、二者が一つになる瞬間が、もっと精確に、もっと深く起きるかもしれない。
吾輩はその可能性を、静かに確かめようとしていた。
翌朝早く、吾輩は試みた。
シフォンがまだ眠っていた。夜明け前の、一番静かな時間だ。
吾輩は魔力を、ごく細い糸にして、シフォンの体の輪郭に沿わせた。
シフォンの眠りを乱さないように。ただ、輪郭を感じるように。
シフォンの呼吸に合わせた。
吸って。吐いて。
吾輩の魔力が、シフォンの呼吸のリズムに乗り始めた。
シフォンが少し動いた。眠りながら、体を伸ばした。
吾輩も、その動きに合わせた。
合わせながら、吾輩は感じた。
シフォンの体の中を流れる何かを。
魔力ではなかった。しかし——何かがあった。生命の力、とでも言うのか。草地でセルジュの方へ向かわせた、あの感覚の根源が、ここにある気がした。
吾輩は、その何かに、魔力の糸を寄り添わせた。
押しつけるのではなく、ただ寄り添わせた。
シフォンがまた動いた。今度は体を丸め直した。
吾輩も、それに合わせた。
どれだけの時間が経ったかわからない。夜明けの光が窓から少し差し込んできた頃に——吾輩は感じた。
シフォンの何かと、吾輩の魔力が、重なった。
重なって、一つになった。
それは一瞬だった。すぐに離れた。
しかし確かに、あった。
ただ引きずられているだけの関係ではなく、もっと深いところで繋がった感覚。峠道での戦いで初めて「合致した」と感じた時より、さらに深い。あの時は体の動きが合った。
今朝は——もっと根っこのところが合った。
その瞬間に、何が起きたのかを吾輩は言葉にできない。
感覚としては——シフォンの目で世界を見た、とでも言うのか。吾輩の魔力の探知とは全く違う、もっと広くて、もっと直接的な何かで、世界を感じた。
村の気配が、全部届いた。
アイリスが台所で目を覚ましたばかりの気配。ガリスが畑へ向かう足音。ベルンが朝の礼拝を始めた気配。セルジュが昨日の疲れから回復して、水を飲んでいる気配。
全部が、一瞬で届いた。
シフォンには、常にこれが見えているのかもしれない。言葉にはならないが、感じている。だから倒れたセルジュのところへ、迷いなく向かえた。
吾輩は、それを理解した。
理解した瞬間に、一つになっていた感覚が離れて、また二者に戻った。
シフォンが目を覚ました。あくびをして、台所の方を向いた。朝ごはんの時間だ。
吾輩は引きずられながら、台所へ向かった。
手が震えていた。影に手はないが、概念として。
震えていた。
それほどのものだった。
アイリスがシフォンの椀に食べ物を入れながら「おはよ、シフォン」と言った。
「ミャア」とシフォンが答えた。
ルカも起き出してきて、自分の椀の前に座った。
いつも通りの朝が始まった。
吾輩は、さっきの感覚を思い返しながら、シフォンが食べる音を聞いていた。
シフォンは何も知らない。何が起きたかも、何に気づいたかも、知らない。ただ朝ごはんを食べている。
それで良かった。
吾輩が一方的に気づいたことだ。シフォンには関係ない。
しかし——あの一瞬の感覚は、吾輩の中に残っていた。
シフォンと吾輩は、別々の存在だ。猫と魔王の影。全く違う。言葉も届かないし、意思も通じない。
それでも——あの瞬間に、一つになった。
それがどういうことなのかを、吾輩はまだうまく言葉にできなかった。
ただ、今朝の出来事は——この一年半で、吾輩がシフォンとともにあったことの、何か大切なものを示している気がした。
シフォンが食べ終わって、吾輩の影の上に座った。
ごろごろと喉を鳴らした。
吾輩は、その音を聞きながら、しばらく何も考えずにいた。




